13.静かな地下金庫
アヴァリスは長い回廊を、修道服の裾を激しくなびかせて突き進んでいた。その形相は聖女には程遠く、獲物を探す飢えた獣のようだ。息が上がり、こめかみに汗が滲む。背後からはブラック伯爵が、長い足を止めずに驚くほど優雅な足取りで追ってくる。
「院長、お待ちください! お気持ちは分かりますが、ヨハンナ夫人はすでに金貨を抱えてスウィンデル邸へ向かっているのです。今から手ぶらで行って、一体どうするつもりですか」
「どうするもこうするもあるものですか! 黙って見ていられるわけがないでしょう!?」
アヴァリスはピタリと立ち止まり、猛然と振り返った。その顔は焦燥と強欲で紅潮し、目の奥には自分でも制御できない炎が燃えている。
「あの絵の下に眠る歴史的名画は、この私が最初に見つけたのです! 私の優れた洞察力があったからこそ、ウルトラマリンの存在が明らかになったのよ! それを世間知らずの未亡人に横取りされて、没落貴族と仲良く分け合うなんて! 私のプライドが許しませんわ!!」
心臓が早鐘を打ち、頭の中で「間に合わない」という言葉ばかりがぐるぐると渦を巻いていた。
「しかし、買い取るには対抗できるだけの現金が必要です。困窮しているギルバート氏が『後払いでいい』などと言うはずがありません。それほどの蓄えをお持ちなのですか」
伯爵の冷静な指摘に、アヴァリスは一瞬言葉を詰まらせた。
そうだった。実家は完全に没落し、自分自身の手持ちの隠し金も、日々の贅沢な美食やワインに消えて残りはごくわずか。金貨千五百枚という大金を、今すぐ用意する手段などあるはずが――。
指の震えが、腕へ、肩へと這い上がってくる。焦りで視界の端がちかちかと点滅した。このままでは間に合わない。このままでは、すべてを失う。
そこへ、アヴァリスの視界に、厳重に施錠された地下金庫へと続く重々しい鉄の扉が飛び込んできた。窓から差し込む細い光に照らされたその扉を見た瞬間、危険な閃きが頭を駆け巡った。
(……あるわ。すぐそこに、これ以上ないほど十分な蓄えが眠っているじゃないの)
普段であれば、決して思いつきもしない考えだった。だが今の彼女の頭の中には、もう「駄目」という文字は存在しなかった。あるのは、絶対にあの絵を手に入れなければという焦燥感だけだ。
あの金庫の中には、街の信者たちから言葉巧みに集めた寄付金や、修道女たちが実家から持参した、教会の公金である金貨が数千枚単位で厳重に保管されている。
(これは犯罪ではないわ、一時的な「借用」よ。あの肖像画を手に入れ、すぐに王都のオークションで数万枚の金貨に換えてしまえば、二千枚なんて一瞬で補填できるわ。教会の上層部から査察官が来るのは数ヶ月先なのだから、誰にも気づかれずに元の場所へ戻せる。何も問題はないわ!)
一度そう結論づけてしまうと、恐ろしいほどすんなりと、その考えは正当なものに思えてくる。焦りが判断力を押し流し、都合のいい理屈だけが次々と積み上がっていった。
「院長? 急に黙り込んで、どうされました」
怪訝そうな顔をする伯爵の声すら、今のアヴァリスにはどこか遠くから聞こえた。彼女の頭の中では、すでに輝かしい未来の光景が、とめどなく膨れ上がっていたからだ。
(金貨二千枚を借用して、あの絵を手に入れる。王都のオークションで数万枚に化ける。その金で、親が手放した実家の屋敷を買い戻し、社交界の誰もが私にひれ伏す。いいえ、それだけでは足りないわ。王家にすら聖女として讃えられる私の姿が、目に浮かぶようだわ……!)
妄想はとどまるところを知らず、まだ何も手にしていないうちから、アヴァリスの脳内では自分がすでに王都で君臨しているかのような光景が広がっていた。
アヴァリスは懐から院長だけが持つ重厚な真鍮の鍵を取り出した。その目は怪しくギラギラと輝いている。
「伯爵、あなたに一つ、極めて神聖な任務をお願いしたいのですわ」
「任務、ですか? 私にできることであれば」
「今から私が、修道院の資金管理室から『困窮した信者を救う慈善活動のための特別資金』を一時的に引き出します。あなたは修道院の前に馬車を大急ぎで手配し、スウィンデル邸への最短ルートを確保なさい。ヨハンナ夫人の馬車を何が何でも追い抜くのです!」
言葉にした瞬間、自分でも息が上がっていることに気づく。だが、立ち止まっている暇はない。一秒でも早く、あの絵を、あの莫大な富を手にしなければ。
伯爵は一瞬、驚いたように目を見張ったが、すぐに口元に微かな笑みを浮かべて深く一礼した。
「なるほど、慈善活動のため、ですか。素晴らしい行動力だ。承知いたしました。では、私は外で馬車を準備してお待ちしております。遅れないように」
伯爵が去ると、アヴァリスは周りに誰もいないことを確認し、狂ったように地下金庫へと駆け下りた。石段を踏み外しそうになりながら、震える手で鍵を開ける。錠前がかちりと音を立てて外れた瞬間、心臓が痛いほど跳ねた。
棚に並ぶ大きな麻袋を二つ、貪欲に両腕で抱え込む。中から響くのは、ずっしりとした本物の金貨の擦れ合う、何よりも美しい音だった。
その音を聞いた瞬間、罪悪感などという感情は、彼女の中でとうに消し飛んでいた。
「おーほほほ! これで私の勝ちよ! 待っていなさい、スウィンデル家のお宝!」
麻袋を抱えたまま石段を駆け上がるアヴァリスの息は、もはや荒く乱れきっていた。だが彼女の頭を占めていたのは、疲労でも、罪悪感でも、まして冷静な計算でもない。ただ、名画を独占し、再び王都の社交界の女王へと返り咲く――いや、女王を超え、聖女として崇められる自分の姿という、際限なく膨れ上がった妄想だけが、強欲な院長を奈落の底へと突き動かしていた。




