↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/20

12.青の名画

ブラック伯爵に極秘の鑑定を依頼してから、ちょうど一週間が経った。


アヴァリスにとって、これほど長く感じられた七日間はこれまでなかった。


初日は、まだ余裕があった。指折り数えながら、鏡の前で優雅に微笑む練習までする余裕が。


だが三日目を過ぎたあたりから、その余裕は音を立てて崩れ始めた。


「院長様、礼拝堂の掃除が終わりました」


若い修道女が息を弾ませて報告に来ると、アヴァリスは床を睨みつけたまま、扇子の先で祭壇の隅を指し示した。


「ここ。ここに埃が溜まっているじゃない。目が節穴なのかしら、それとも私への敬意が足りないのかしら? もう一度、跪いてやり直しなさい」


翌日は、オルガン奏者の番だった。


「音程がズレているわ」


「は……。申し訳ございません、院長。どこの音でございましょう」


「分からないの? それが分からないから、あなたは万年見習いのままなのよ」


さらにその翌日、告解に訪れた老いた信者にまで、アヴァリスの矛先は向かった。


「神は、その程度の懺悔で満足なさると思って? もっと深く、心の底から悔い改めなさい」


老信者はしどろもどろになりながら、何度も同じ懺悔を繰り返す羽目になった。アヴァリスはその様子を薄目で眺めながら、内心では全く別のことを考えていた。


(王都からの報せは、まだなの? ブラック伯爵は、いったい何をぐずぐずしているの!)


七日目の朝、アヴァリスは自室で聖書を開いていたが、一文字も頭に入ってこなかった。指先で同じ行を何度もなぞりながら、心臓だけが妙に早く脈打っている。


コンコン、と院長室の扉が叩かれる。


その音だけで、アヴァリスの背筋がぴんと伸びた。


「院長、ブラック伯爵がお見えです。至急お伝えしたいことがあると……」


「すぐにお通ししなさい! 早く!」


アヴァリスは手にしていた聖書を机に放り出し、勢いよく立ち上がった。椅子が大きな音を立てて後ろに倒れたが、気にする余裕すらなかった。


部屋に入ってきた伯爵は、いつもと違ってどこか緊張した面持ちで、手にした封書をそっと机の上に置いた。その様子だけで、アヴァリスの胸は期待に引き裂かれそうになる。手のひらに汗が滲むのを感じた。


「院長……来ました。王都の最高権威の鑑定院から、正式な報告書です」


「それで!? じらさないで頂戴、あの青い粉は一体何だったのですか!」


アヴァリスは身を乗り出し、伯爵の手から奪い取るようにして封書を開いた。指先が震え、封蝋を開くのにも手間取る。中から現れた上質な紙には、格式高い紋章とともに、流麗な文字でこう記されていた。


『提出された絵の具の成分を詳細に分析した結果、純度極めて高き天然のラピスラズリ――すなわち本物のウルトラマリンであることを証明する。また、このような希少かつ高価な顔料が絵の端の下地に使用されている場合、その上層の絵は偽装であり、下層に別の貴重な歴史的名画が隠されている、いわゆる二重絵である可能性が極めて高いと判断する』


文字を追うアヴァリスの目が、行を追うごとに大きく見開かれていく。報告書を握る手が、歓喜と興奮で小刻みに震えだした。


「本物……。やはり私の目に狂いはなかったわ!」


声が、抑えきれずに弾んだ。


「あの古ぼけた肖像画の下には、歴史を覆すような名画が眠っているのよ! お人好しのシドニーが魂が吸い込まれると怯えていたのも、名画が放つ本物のオーラを感じ取っていたからに違いないわ!」


心臓が、これまでの人生で一番激しく脈打っていた。頭の中では、数万枚の金貨が眩い音を立てて降り注いでいる。この一週間の苛立ちも、八つ当たりも、すべてはこの瞬間のためにあったのだと、アヴァリスは確信していた。


「……えっ…シドニー?…まさか、スウィンデル家のあの絵だったのですか!? 全く気付かず、お恥ずかしい。院長の洞察力には恐れ入りました」


伯爵は悔しそうに顔をそむけてみせたが、アヴァリスはそんな彼の様子など全く目に入っていなかった。


「しかし、院長。のんびりしてはいられませんよ」


伯爵が急に声を潜めた。


「ヨハンナ夫人が昨日、ギルバート氏に宛てて内々に手紙を送ったそうなのです。やはり美しいギルバート氏の力になりたいらしく、王都からの名義変更の手続きを待たずに、手持ちの金貨千五百枚を支払ってあの絵を買い取ると……」


「な、何ですって!?」


アヴァリスの顔から一気に血の気が引いた。指先の震えが、今度は喜びではなく、別の何かに変わっていく。


「ギルバートは五千枚を要求していたはずでしょう!?」


「スウィンデル家は明日のパン代に困るほどの困窮ぶりです。ヨハンナ夫人が熱烈に迫れば、千五百枚でも首を縦に振ってしまう可能性は十分にあります。いや、むしろ今すぐにでも売ってしまうでしょう。すでにヨハンナ夫人は、その金を袋に詰めてスウィンデル邸へ向かっていると思われます」


耳鳴りがした。頭の中を占めていた輝かしい金貨の山が、一瞬で、誰か別の手に攫われていく幻影に塗り変わる。


(駄目、駄目よ。あれは私が見つけた宝なのよ。あの馬鹿な未亡人なんかに――)


アヴァリスは自分でも制御できないほどの怒りが喉からせり上がってくるのを感じた。この一週間、あれほど自分を苛んだ苛立ちの比ではない。


「私の見つけた名画を横取りするなんて、絶対に許さないわ!」


報告書を机に叩きつけ、椅子を跳ね飛ばすようにして立ち上がる。頭に血が上り、目の前がちかちかと点滅した。今すぐスウィンデル邸へ行き、あの絵をヨハンナ夫人よりも先に、何が何でも自分の手中に収めなければならない。


血眼になって部屋を飛び出すアヴァリスの背中を、修道女たちが怯えたように見送る。強欲院長の暴走が、ついに始まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。