第38話「人魚姫は泡沫の初恋を歌う」
人魚の胸に飛び込んだヤエは、異能を発動する。
水が人魚を模しているのならば、ヤエの異能も効くはずだ。
力を込めると、怒りを表現するかのように煮え立っていた人魚の水が止まった。
どろりと人魚の顔から水の塊が剥がれ落ちる。
「え……?」
予想外のことにヤエは呆然と立ち尽くしてしまう。
目の前にいるのは、ヤエそっくりな女性だ。ただ似ているのは顔の形だけで、瞳の色や髪の色は全く違った。
海の波のように波打つ金色の髪。
伏し目がちに開けられた目は、太陽に照らされたような青色をしていた。
絵本で読んだ人魚姫そのものだ。
(綺麗な人)
真っ直ぐに彼女を見る。
ヤエはいつの間にか異能を使うことすら忘れ、魅入ってしまっていた。
彼女の桜色の唇が小さく呟く。
「歌を……」
言葉を発した途端、また水の塊が彼女を包み込んだ。
我に返ったヤエがもう一度異能を使うが、水は止まってくれなかった。
繰り返し異能を使うも効果はない。
(さっきは効いたのに、どうして……!)
狼狽の色が隠せないヤエの背に冷たいものが走った。
直感に従い体を捻れば、水の塊が針のように飛んでいく。
ヤエを襲ったのは主導権を握っていたはずの水だ。
地面に放置していた水が、ヤエに牙を剥く。
(これはちょっとまずいかも)
無力化していたはずの水が、人魚の元へ戻ってしまう。
水を使う攻撃であれば、元となるものを減らせばよかった。
そうすれば、童話喰ライの攻撃手段は少なくなり、制圧しやすくなる。
真っ白なこの空間では持っている以上の水は出せないと仮定していたからこその作戦だった。
(反則じゃない? どこから持って来たのよ、水)
目の前の人魚が膨れ上がる。
その元となっているのは、どこから調達してきたのか分からない水だ。
すでに原型を留めていないそれを見上げる。
ヤエの身長を優に超え、二階建てほどの大きさがあるそれは、もはや人魚でもなんでもない。
ただの化け物だ。
どうする、と頭の中で囁き声がする。
問うたところで答えが導き出されるわけもない。
ヤエは雑念を払い、童話喰ライを睨む。
(水はもう操れない。残る手段は……)
乱発できる異能では太刀打ちできない。
肥大化した童話喰ライが手を振り上げる。
今すぐ避けたとしても、避けきれない大きさだ。
足が震える。
自身の歯がカタカタと鳴っていたことにすら気がつかないほど、恐怖心に捕らわれていた。
焦りからか、鼓動が早鐘を打ちはじめる。
思考が渦を巻き、思い浮かべた解決策や感情を、洗濯でもするかのようにごちゃまぜにした。
焦燥感の洪水に身を任せられたらどれほどよかっただろう。
だが、激流がかき回した恐怖に呑まれてしまえば、二度と環には会えない。
そう確信があった。
ヤエの葛藤は瞬きを数回するほどの間だったが、その奔流が止んだ途端、視界が広がった気がした。
鈴を転がすような声が脳裏に蘇る。
『歌を……』
そう呟いた人魚姫の顔が泡沫のように浮かんだ。
それは最後の希望だ。
ヤエはそれを掴むように強く拳を握りしめる。
この状況を打開する手段はひとつしか残されていない。
(……代償がなんであれ、ここから出られなければ意味がない。たとえ記憶がなくなろうと戻ってみせる!)
ヤエが大きく息を吸い込む。
同時に童話喰ライの手が振り下ろされた。
その衝撃でヤエの髪の毛が舞い上がる。
潰される寸前。
軽やかな歌声が響いた。
口の中が甘酸っぱくなるような、そんな歌だ。
直後、童話喰ライの手が崩れる。
水であったはずのものが、ぼろぼろと剥がれていく。
断末魔のような叫び声にヤエは顔をしかめた。
不快な音が耳をつんざく。
それに釣られ、旋律を乱されそうになってしまう。
ヤエは声がひっくり返りそうになりながらも、歌い続ける。
しかし、大きくなった童話喰ライは簡単に倒れてくれない。
(倒すまで歌わないとだめね)
纏っていた水の鎧がなくなった童話喰ライはいつの間にか元の大きさに戻っていた。
しかし、それ以上小さくならない。
それどころか人魚はぼこぼこと怒りを露わに目を吊り上げている。
まるで全身で忌々しいと告げるように。
このままでは駄目だと頭の中で警鐘が鳴り響いた。
人魚姫の口から漏れ出た獣のようなうなり声が地を這う。
水の塊を作っては失敗しているようだが、諦める気配はなかった。
(もっと! もっと強く……!!)
ヤエは体中の力を使い果たす勢いで歌う。
汗が滲んだ。
疲れがヤエの体をじわじわと重くする。
喉が枯れそうなほど歌い続けると、目の前の童話喰ライから、鱗が一枚落ちた。
気がついたのはヤエが先だったのか、人魚姫が先だったのかは分からない。
人魚の視界にそれが入った瞬間。
断末魔以上の悲鳴が響いた。
耳鳴りのような声を発しながら、童話喰ライはヤエに近づいていく。
体を引きずりながら、ゆっくりと。体を零しながら。
一枚、また一枚と鱗が落ちる。
通った後を残すような鱗に、童話喰ライは奇声を上げ続けた。
ヤエは後退りながらも最後の力を振り絞り、歌う。
そのおかげか、歌と共鳴するように白い空間にひびが入った。
途端。空間ごと裂けるような地響きがヤエの体を揺らす。
力を使い果たしたのか、ヤエの膝が震えている。
(異能ってこんなに疲れるものだったのね)
ヤエの歌声が止まっても、ひびは止まらない。
崩壊の揺れに耐えられなかったのか、童話喰ライの動きが止まる。
すでに怒りや水の塊を出現させるような力は残っていないようだ。
(終わ、った?)
目と鼻の先の童話喰ライを視界に入れ、ヤエは大きく息をはいた。
力を全て使い切ったヤエは、立っているのもやっとだ。
疲労が体を包んでいるというのに、ヤエの顔は清々しい。
これは不愉快な疲れじゃない。
達成感と少し気が遠くなるような、色々なものが混じり合った倦怠感だ。
崩れゆく童話喰ライが最後の力を振り絞るようにヤエを誘う。
「一緒になりましょう?」
「いいえ。あたしはあなたと一緒にいられない。だって、あたしが一緒にいたいのは環なんだもの。あなたじゃない」
「裏切られるわ」
「いいえ。裏切られることなんてないわ」
「なんで……」
「あたしはあなたと違って強欲だから、風になって見守るだけじゃ満足できないの」
ヤエは胸を張り、微笑む。
ひび割れた向こう側からやわらかな風が吹き、薄水色の髪を攫った。
まばゆい光が差し込こむそこへ、ヤエは足を進める。
あと一歩で光の中へ入る直前。ヤエは後ろを振り返った。
「……さようなら。強くて、かっこよくて、でも可哀想な人魚姫」




