第37話「攻防」
飛んできた水の塊を、ヤエは間一髪で避ける。
それがぶつかった衝撃で煙が上がった。
恐る恐るそちらへ目を向けると、先ほどまでヤエの立っていた地面はえぐれていた。
人魚を模した水に視線を移す。
ケタケタと笑う口から獣のような歯が見える。
魚のヒレをした耳を上下に揺らし、楽しんでいるようだ。
出目金のような目が三日月に歪む。
同時に人魚の周りには複数の水の塊が浮いた。
(あれがもしさっきと同じ威力だとしたら……?)
背筋に氷を入れられたかのように悪寒がする。
一度でも当たれば大怪我では済まないだろう。
深海にでもいるような重圧に、息が止められているようだ。
命を狙う人魚の目は本気だ。
何を言っても止まることはないと、一目でわかってしまった。
(あたしを始末しようとするのは、意識があると邪魔だから? 体を取り込んでも、心までは取り込めないってこと?)
現状の把握と仮定で頭が埋め尽くされる。
打開策が見つからない限り、この場から離れることはできない。
だが、ヤエの意識があるかぎり、童話喰ライに取り込まれることはない。
(そう考えればなんとかなる気がしてくるわ)
この場所が童話喰ライの中だとしたら、目の前の人魚を倒すことで環の元へ帰ることができるかもしれない。
窮地に立たされていても、思い出すのは環の顔だ。
まだヤエにはやりたいことが数え切れないほどある。
カラスの濡れ羽のような環の髪を触ってみたいし、はしたないと怒られるかもしれないが彼の腕で抱きしめられたい。
環の笑顔を見たい。
(欲を言えるのなら、環の隣にいるのはあたしがいい)
環を思えば、多少の無茶もできる気がした。
(まずはこの状況をどうにかしないと)
肌を突き刺すような殺気に、頬に冷や汗が垂れる。
ぽつりと地面に落ちた汗が、針のようになってヤエへと戻ってきた。
ヤエは目を見開きながらものけぞった。
頬に痛みが走るが、気にかけている余裕はない。
生温かな赤がヤエの頬を伝う。
また同じような攻撃が来るかと思いきや、血はそのまま地面に広がった。
(操れるのは水っぽいものだけ……?)
仮説を立てていると、また水の塊が飛んできた。
なんなく避けるヤエに、人魚はけたたましく奇声を上げる。
「お前は! 人魚姫は!! 泡になるのが定め!!!」
「人の運命を勝手に決めないで」
「お前はここで泡になるのよ!!」
人魚の体が分裂し、水の塊を作る。
それは彼女を構成する水がなくなるまで攻撃が止まないことを示していた。
何もないこの空間では、水を調達するすべはない。
環に不意打ちを与える寸前だった童話喰ライは、潜口から飛び出していた。
(もしかして水がなくなれば、攻撃ができなくなる……?)
かすかな可能性を感じながらヤエは水の塊を避けた。
攻撃に使われたそれはどうなったのかと視界の端で盗み見る。
抉られた地面にまだ水の塊が残っていた。
それはうぞうぞと地を這い人魚の元へと戻っていく。
永久機関のような仕組みにヤエは舌を鳴らした。
(あぁもう、対策済みってわけ!)
攻撃の手が休まることはなく、水の塊が何度もヤエへと襲いかかる。
どれほど時間が経ったか分からない。
数分か、数十分、数時間とも感じる終わりのない攻防にヤエの息はすでにあがっていた。
(逃げ回っていても事態が好転するわけじゃない。環が助けに来てくれるなんて、甘い考えじゃだめ)
そもそも童話喰ライに襲われた人間は死亡扱いだ。
環が言っていたように核が童話憑きを童話憑きたらしめるなら、まだ勝算はある。
ヤエは意地をむき出しにして前を向く。
(あたしが、どうにかしなきゃ)
攻撃手段である水を絶つ以外の弱点がないかと目を凝らす。
しかし、焦る心をあざ笑うかのように、弱点らしきものは見つからなかった。
環のように一瞬で蒸発させる術を、ヤエは持っていない。
逃げ回っていても体力を消耗するだけだ。
息を吐くのも、吸うのも苦しい。
喉が渇く。
肩で息をしているものの、酸素が足りないのか頭が上手く回らない。
退路も、助けも、なにもない状況が、ヤエを確実に追い詰めていた。
(あぁ、もう! 足が重い……!)
もつれそうになる足を必死に動かす。
回避が少しでも遅れると攻撃の餌食だ。
一度でも当たれば、ヤエに勝機はない。
飛んできた水の塊を避けようと足に力を込める。
しかし、膝がかくりと地に着いてしまった。
「っ!」
迫り来る攻撃を、転がって避ける。
すぐさま次の水の塊が襲いかかり、立つ間もない。
ごろごろと転がり、人魚から距離を取る。
僅かに攻撃の手が緩んだ。
不自然な間。
罠かと考える余裕もなく、ヤエは立ち上がる。
明らかに誘い込まれた隙だったが、水の塊が飛んでくることはなかった。
大きな音を立てて軋む胸に酸素を送り込む。
色々な場所をぶつけてしまったようで、あちこちが痛い。
環に借りたままの軍服と襦袢の裾は引き裂かれ、すでに使い古された雑巾のようにボロボロだ。
乱れた髪を払い、ヤエは人魚へ目を向ける。
まだだと、まだ絶望していないと言わんばかりに、人魚を睨め付けた。
すると彼女は心底不思議そうに首を傾げる。
「そろそろ降参したらどうかしら?」
「……嫌よ」
「勝ち目がないのに?」
ヤエは大きく息を吐き、頷いた。
目に決心を宿したヤエは、凜とした声で言い放つ。
「えぇ。あたしは環の元に帰る」
人魚がヤエを無力なくせに大口を叩く小娘だと思い込んでいる今が勝機だ。
これを逃せば、ヤエに勝ち目はないだろう。
ぐねぐねと形を変えていた人魚が忌々しげに顔を歪める。
よほどヤエの返答が気に入らなかったらしい。
「そう。なら、死んでもらうわね」
水の塊が人魚の周りを埋め尽くす。
今までで一番数の多いそれに、ヤエは息を呑んだ。
心の臓が嫌な音を立てて軋む。
今度、足が動かなくなれば、仕舞いだ。
のしかかる殺気がそう告げている。
二度目はない。
水の塊が打ち出されると同時。
足裏に力を込めてヤエは飛び出した。
ヤエが向かってくるとは思っていなかったのか、人魚が一瞬慄いた。
ほんの数秒の硬直。
その数秒が、ヤエを救った。
ほんの僅かに狙いから逸れた水の塊は、ヤエの横を通り過ぎ、足下へ落ちた。
避けきれなかった薄水色の髪がはらりと舞う。
人魚へと戻ろうとする水の塊へ手を伸ばし、意識を集中させた。
途端、ヤエの手に光が集まる。
「あたしの言うことを聞け……!」
戻ろうとする人魚の一部の動きが止まる。
主導権を奪えたことにヤエが胸を撫で下ろした。
(使えるか、一か八かだったけど……)
眼前に迫った水の塊を寸でのところで止め、地面へ軌道を逸らす。
それは足下に水たまりを作るだけで、人魚へと戻ることはなかった。
驚きに目を見開いた人魚が忌々しげに吐き捨てる。
「異能っ!?」
「あたしも人魚姫だもの。あなたが使える技ぐらい使えるわ」
「なぜいまさら異能を使う!! 逃げ続けていたくせに! どうして諦めない!」
ヤエは意地で足を動かし、人魚との距離を詰める。
そして、
「もう逃げないって、決めたから!!」
手を伸ばしたヤエは、人魚姫の胸へと飛び込んだ。




