第36話「咎」
ずきりとした痛みに、ヤエは目を開けた。
(あれ、ここは……? あたし童話喰ライに呑まれて……)
環を庇ったヤエは、彼を巻き込まないため自ら手を離した。
そして童話喰ライに呑み込まれたはずだ。
しかし、ヤエは日の落ちた浜辺にいつの間にか立っていた。
海風が薄水色の髪をさらう。
少し冷たい空気が夢でないと言っているようだ。
どこか懐かしい景色に、ヤエは目を細めた。
知らないはずの光景だというのに、不思議と実家に帰ってきたような、奇妙な気持ちが湧く。
首を傾げながらヤエは海に視線を向けた。
そこには大型船がおり、探照灯で何かを探している。
(何を探して……)
「これは、体温が下がるといけないからで!!」
「……なるほどな。どうりで体が、動かしにくい」
大きな声に肩が揺れた。
鼓膜を震わせた子どもの声は、どうやら岩陰の向こうから聞こえてきたようだ。
聞き覚えのある声色に、ヤエは眉を寄せた。
(この声は……。いやそもそも、こんな時間に子どもの声がするのはおかしいわ)
すでに太陽は落ちきり、夜の闇が世界を包んでいる。
日が暮れる前には家へ帰らねばならない。
それはどこの子どもも口酸っぱく教えられるものだ。
疑問に思いながら、ヤエは足を進めた。
なぜか近づくほど胸が痛いほどに脈打つ。
(痛い……。でも、見ないといけない気がする)
痛む体を無視して岩陰からそっと顔を出した。
そこに広がる光景に、ヤエは息を呑んだ。
夜の砂浜に寝転んでいるが、ヤエには分かる。
それは、小さな自分と、小さな環だと。
幼いヤエはトンボ玉の付いた簪で神を結っているものの、襦袢姿でちぐはぐだ。
対する小さな環はほぼ全裸に近い姿をしているが、小さなヤエを見ないように視線を逸らしている。
小さな環の物と思われる着物がぐっしょりと濡れていることを思えば、その服装の原因も想像が付く。
(あたしが溺れてた環を助けたのかしら? じゃああの船が探しているのは環?)
一向に見つからない環を探す船に少し同情してしまう。
思考が変な方向に逸れそうだったが、耳に届いた幼い自分の声に、ヤエは我に返った。
「なにがあってもずっと王子を好きでいる人魚姫が好きなの。人魚姫は自分の好きを貫いたんだよ? ね、すっごく、かっこいいでしょ?」
「……そういう考えもあるのか」
人魚姫は女々しい。
そう告げた時、本当にそれだけか? と環に問われた。
当時は思うように答えられなかった。
しかし、過去の自分は人魚姫をかっこいいと言い切っていたらしい。
幼い二人の会話は続き、旧知の仲のように笑い合っている。
その様子をヤエは呆然と眺めていた。
不意に頭を締め付けるような痛みが脈打つ。
「っ、なにが……」
夜空に数多の星が煌めく。
神の祝福が目に見えるならば、まさにこれがそうなのだろう。
そう勘違いしそうになるほど、大量の流れ星が輝く空は美しかった。
幻想的な光景に感嘆が漏れる。
「美しいでしょう? でも、あなたにとって、これは悪夢の始まりだった」
耳元で囁かれた低い声に、ヤエは勢いよく振り返る。
水で模られた人魚が、そこにいた。
耳の代わりに魚のヒレがあり、弧を描く唇からはみ出した歯は獰猛な肉食獣のように鋭い。
出目金のような目が、ヤエを捉えた。
(あの時の――!)
環とのデヱトを邪魔した童話喰ライだ。
ヤエが初めて出会った異形でもある。
驚きのままヤエは後ろに下がるが、近づいてくる様子がない。
そのことに胸を撫で下ろす。
震えそうになる体を叱咤し、両手を胸元で握りしめる。
(ここに環はいない。あたしだけでどうにかしなきゃ)
初めて出会った時は、環が助けてくれた。
だが、ここに環は来ない。
童話喰ライに呑み込まれたのは、ヤエだけなのだから。
(でもこんなの見せて何が目的なの?)
童話喰ライの中ということは、この光景を見せてるのも目の前の人魚だ。
目的が分からずじっと観察するように見つめる。
窺うように人魚を見ていると、笑った気配がした。
すっと空を指さされ、ヤエは示された方を向く。
「え、落ちてきた!」
幼い声が聞こえる。
小さな自分の言うとおり、降り注ぐ星々から一筋の光が落ちてきた。
それは吸い寄せられるように小さなヤエへ衝突する。
ヤエはその様子を食い入るように見つめることしかできなかった。
「おい……っ!」
慌てた声が呻き声に変わる。
後から降ってきた星が小さな環へとぶつかったようだ。
小さな環が意識を手放す寸前、彼は手元のトンボ玉を握りしめた。
見覚えのあるそれは、環がしていた首飾りと同じだ。
またずきりと頭が痛んだ。
「二人に吸い込まれたのは、あなた達人間を童話憑きたらしめる核」
「え?」
「だから、この記憶はあなたにとって悪夢。忘れたい記憶。あなたの奥底に眠っていた、忌々しい過去」
いつの間にか後ろを取られていたようで、水で作られた人魚の両手がヤエの肩に添えられる。
ぬるりとした不快な感触に体が跳ねるが、その手が離れることはない。
人魚がヤエを抱きしめるように密着する。
重さは感じないが、気分の良いものではない。
ヤエは不快感を眉間に寄せた。
肩に乗った顔が、にたりと歪む。
ヤエに言い聞かせるように、それは囁いた。
「あなたの願いが招いた結果。彼を助けなければ、彼も童話憑きになることはなかった」
「そんな……」
「あなたはとても恨まれているわ。只人を産んだはずの義母や童話憑きとは無縁の生活を送らせたかった義父に」
「っ」
人魚の言葉が重くのしかかる。
すでに鬼籍に入っている環のご母堂やにこやかな雅章の心は分からない。
だからこそ怖い。
唾を飲み込んだヤエをあざ笑い、人魚は続ける。
「王子だってあなたを恨んでいるわ。笑顔の裏で、ずっと復讐の機会を窺ってる。彼には王女がいるのに、お前がいるせいで結ばれない」
消えない頭の痛みがヤエを責めるように大きくなる。
しかしヤエの知る環との乖離に、強ばっていた力を抜いた。
何も言わないヤエの心が折れたと思ったのか、抱きしめられる水の腕から力が抜ける。
ヤエはすぐ傍でケタケタと笑う人魚へ視線を向けた。
「……嘘つき」
痛みを堪えながら絞り出すように告げる。
人魚は笑うことをやめ、ゆったりと首を傾げた。
心底分からないと言わんばかりに目を瞬く。
「なぜ? この惨状はあなたが逃げ続けた過去。童話憑きを忌み嫌ったあなたの咎よ? 彼を童話憑きにしてしまったあなたの……」
「そうね。でも過ぎたことをくよくよするのは、もうやめたの」
ヤエはそう言って笑う。
清々しいほど爽やかに、後ろ暗いことはなにもないと。
背筋を伸ばせば先ほどから痛んでいた頭も、気にならなくなった。
(まだちゃんと思い出せないけど、きっとこれは嘘なんかじゃない。あたしの過去だってなんとなく分かる)
見覚えのあるトンボ玉や、子爵邸でなぜか泳げるはずだと思っていたこと、環の人魚姫への思い。
それらが本当に起こったことだったと教えてくれる。
だからこそ、ヤエは下を向いていられない。
「なんで折れない」
「折れるわけないじゃない。あなたの嘘で」
「嘘? どこが嘘だというの?」
「環があたしを恨んでいる? それこそありえないわね。環はあたしが好きなのよ。王女と結ばれることなんて地球がひっくり返ってもないわ」
環を真似て強気な笑みを浮かべる。
彼からもらった想いは恨みなんかじゃない。
もっと温かく、心がそわそわしてしまような、そんなものだ。
(環はあたしを愛していると言った。恨みと両立できるような感情じゃないって、あたしは教えてもらったから。だから、絶対にありえない)
ヤエを睨み付けた人魚が悔しそうに顔を歪めた。
それの感情に呼応するように、体を作る水がぼこぼこと弾ける。
手から寒天のような液体が地面に垂れた。
途端。周りの景色が揺らめき、ぐにゃりと歪む。
「えっ!?」
瞬きをする間もなく、辺りが様変わりした。
そこにはもう海も、砂浜も、夜の闇もない。
あるのはただヤエと人魚だけだ。
先の見えない真っ白な空間に、取り残されたような気さえしてくる。
ヤエが状況を把握しようと目だけで周りを見回した、その時。
「私と一つになれば楽になれたのに。お馬鹿さん」
人魚の呟きと同時に、水の塊が飛んできた。




