第33話「たゆたう」
どぼん。
重力に従って落ちた体が叩きつけられる。
予想以上の衝撃に、ヤエは目を見開いた。
口を開かなかったのは奇跡に近い。
空気を求め開きそうになる口を、意識して歯を食いしばることでやり過ごす。
(上手く水泳場に飛び込めたけど、思ってたより深い……!)
ヤエの身長をゆうに超えた深さにヤエは内心舌打ちをした。
ヤエの薄水色の髪がゆらゆらとたゆたう。
浮かび上がるのは髪だけで、ヤエの体は水底に引きずり込まれていく。
(あぁ、もう邪魔……!)
体にまとわりつく着物がやけに重い。
すでに底に根を張っている帯は、緩みきっている。
ほどけた帯を自身が回転することではずした。
しかし、ヤエの体の重さはごくわずかにしか変わらない。
(っ、こうなったら)
襦袢以外を脱ぎ捨てれば、随分と身軽になった。
ヤエは瞳に安堵の色を滲ませる。
(これで、やっと)
緊張の糸も一緒にほどいてしまったのか、途端に息苦しさが襲い来る。
水を蹴るように足を動かす。
浮上するための動きとは反対に、体は沈んでいく。
波打つ水面に映る陽光へ手を伸ばすが、届かない。
(な、んで……! 泳げたはずなのに!)
頭に浮かんだ疑問に、ヤエははたと気がつく。
物心ついてから泳いだ経験はなかった、と。
しかし、ヤエの脳裏には泳げた頃の記憶がちらついていた。
嵐の夜の光景。
それが人魚姫のものなのか、ヤエのものなのか分からない。
人魚姫が人間になった代償は、美しい声と泳ぐ能力だったなと、思考が逸れる。
(も、息が……)
早く息をしなければと気持ちばかりが急いてしまったからか、空気を求めた体が口を開かせた。
駄目だと思うよりも先に、口内に水が浸入する。
ごぽりと僅かな空気までもが居場所を失ってあふれ出した。
酸素を求めた体が水を飲み込む寸前。
「ヤエ!!!」
力強い腕に引き上げられた。
突然肺に入り込んできた酸素に、ヤエはむせる。
言葉を出そうとするが止めどなく続く咳で阻まれてしまう。
涙で霞む視界で見上げれば、艶やかな黒髪から水が滴った。
深海のような色の瞳が心配そうにヤエを見つめている。
「げほっ、た、環。ありがと」
「お前な……俺の寿命を縮める気か?」
環の手が顔に張り付いた薄水色の髪を払いのけながら、存在を確認するように頬をなぞった。
添えられた節くれだった手にすり寄る。
彼の体温を感じられ、ヤエのささくれ立った心が落ち着いていく。
耳に届く鼓動はとても早く、環の焦りが感じられた。
不謹慎だと感じつつもヤエの頬は緩んでしまう。
「そのおかげでここに入ってこれたんでしょ?」
「人魚姫は泳げない。知らなかったわけじゃないよな?」
すっと目を逸らす。
しっかり忘れていたことを指摘されてしまう。
ヤエは言い返せず口を閉ざした。
ぎこちない沈黙と環の視線が痛い。
(忘れてたって言ったら絶対に怒られるもの)
何を言っても無駄だと判断したのか、環はわざとらしくため息をついた。
「はぁー。私兵も集まってきてるようだからな、お仕置きは後だ」
「ひゃっ」
強い力で引き寄せられると同時に風が二人を覆う。
ヤエの目を丸くさせたのは、目の前に広がる光景だ。
水が二人を避けるようにぽっかりと口を開けている。
「え、え?」
二人を避けるように渦巻く水と環を交互に見る。
そんなヤエをよそに、環がぎょっと目を見開いた。
彼のらしくない反応に首を傾げる。
「ヤエ、お前……」
「?」
環は軍服を脱ぎ、ヤエへと羽織らせる。
水泳場の底にまき散らされた着物を視認し、ヤエは尻尾を踏まれた猫のように体を跳ねさせた。
(今、あたし、襦袢……!!)
軍服を両手でぎゅっと閉じれば、ぎりぎり太ももまで隠すことができた。
「このままでは風邪を引く」
「そ、そんなことはいいから……!」
「よくない」
目敏く小刻みに震える体を見つけたらしい。
痛ましげに眉に力を入れた環の周りに温かな風が吹く。
すると瞬く間に軍服から水分が抜けていく。まるで洗濯したばかりのように乾いてしまった。
髪の毛もすでに乾ききっており、風邪を引く心配はしなくて済みそうだ。
(温かい……)
環の体温と合わさって、肩から力が抜けていく。
ヤエが感じていた以上に不安だったらしい。
環の顔をみると、不思議と心に余裕が生まれた。
「あ、ありがと」
「あぁ。早く帰ろう。俺たちの家に」
「うん」
環の言葉に、ヤエは迷いなく頷いた。
迷いそうなほど広い日本家屋を思い浮かべる。
もう環の住む家が自身の家だとヤエは自覚していた。
「ちゃんと捕まっておけよ」
「わかった」
聞こえた忠告に、ヤエは環の首に手を回す。
突然の密着に彼の喉が鳴った。
(捕まれって言ったのは環なのに、変なの)
ヤエがそっと笑う。
顔をくすぐる黒髪も、困惑する環も、全てが心地いい。
「ったく」
呆れたような環がヤエを抱き直した瞬間、二人は重力に逆らいふわりと浮く。
水泳場を過ぎ去り、正門の中に止められた車が見えた。
ゆっくりと地面に環の足がつく。
壊れ物を扱うようにヤエはそっと降ろされる。
踏みしめた硬い感触にヤエは安堵の息を吐いた。
環の首から腕を放す。
「乗れるか?」
「うん」
振り返り、車へ一歩足を進める。
しかし、すぐに制止の声をかけられた。
「ちょっと待て。ヤエ、お前裸足じゃないか」
「これくらい大丈夫だよ?」
「だめだ」
「え、ひゃっ!」
ヤエは返事をする暇もなくまた抱き上げられてしまう。
突然宙に浮かされたヤエは思わず彼の首にしがみついた。
軽い笑い声が鼓膜を打つ。
文句の一つでも言おうかと逡巡するが、適切な言葉が出てこない。
そうこうしているうちに車の扉が開けられ、優しく降ろされた。
ヤエが腕から力を抜けば、環は名残惜しそうに離れて行く。
頬を掠めた黒髪がくすぐったい。
「ありがと」
「裸足だともう少し早く気付けばよかったんだが……」
「平気。昔は砂浜とか走り回ってたもの」
懐かしげに細められた濃藍色にずきりと頭が痛んだ。
わずかにしかめたヤエを目に入れた環の顔色が変わる。
今にも子爵達へ飛びかかりそうな怒りを滲ませているが、息を吐くことで理性を保っているようだ。
明らかな怒気を含んだ目をしていても、環がヤエに触れる手は優しい。
そっと土の付いた足裏を払われ、問われる。
「どこか痛むか?」
「ううん、大丈夫」
「あいつに何かされたか?」
「ん?」
今にも噴火しそうな環に告げれば確実に爆発してしまうだろう。
そっと目を伏せる。
何かをされたかと問われると難しいところだ。
押し倒され、着物を脱がされそうになった。しかし、未遂で終わったことだ。
実害と言えば少し帯が緩んだことと、手にまとわりついた汗が気持ち悪かったぐらいだろうか。
(なんて言えば環は納得するかしら)
窺うように環を見上げる。
ヤエの答えを待つ彼の目には、静かな怒りが揺らめいていた。
実害があまりなくとも人を殺してしまいそうな冷たい表情に、ヤエは咄嗟に嘘をつく。
「なにもされてないよ」
ヤエは自身の返答が火に油を注ぐ行為だと気がついていなかった。
眉をぴくりと反応させた環の手がヤエの後頭部を掴む。
強引に引き寄せられたかと思うと、同時。
環の顔で視界が埋め尽くされた。




