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人魚姫は泡沫の初恋を歌う  作者: 藤烏あや@『死に戻り公女は繰り返す世界を終わらせたい』発売中


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第32話「反撃」

 躓いて後ろへと倒れる。

 どうやら寝台に躓いてしまったようで、ヤエは布団に受け止められた。

 お姫様が寝起きするような風貌だが、ヤエに迫ってきた男は清らかさのかけらもない。

 倒れてしまったヤエを見下ろすのは情欲が隠しきれない瞳だ。

 鼻息の荒い角山子爵が帯に手をかけた。


「っ、離していただけますか」

「なぜだ? 寝台に寝転がったのはお主だろう? わしに身を任せるということではないのか」

「違います」


 子爵の腕を掴めば、覚悟していた以上に脂のりがよく思わず手を離しそうになってしまう。

 帯を解かれてはいけないと、意地で手を掴んでいれば、子爵のが舌なめずりをした。

 背筋から不快感が這い上がってくる。


「抵抗にしては力が弱いとは思わないか? 本当は抱いてほしいのだろう? ん?」

「~っ! どう勘違いしたらそういう思考になるわけ!?」


 被っていた淑女の仮面を打ち捨てたヤエは叫ぶ。

 我慢の限界だ。

 冷静に状況を確かめようと律していた反動か、ヤエの心に蓄積された反発心が決壊した。

 荒れ狂う感情のまま、近場にあった枕を掴み――


「あんたに抱かれるぐらいなら、ナメクジと口づけする方がマシよ!!」


 ――勢いよく叩きつけた。

 鳥肌が立つ視線を遮るように放った枕は、綺麗な直線を描き子爵の頬に激突した。

 突然の衝撃に子爵が後ろによろめく。

 ヤエは怯んだ隙に体勢を立て直し、寝台から降りた。

 呆然と頬を押さえる子爵から距離を取れば、波立った怒りも落ち着いてくる。

 予想外の抵抗だったのか、子爵はいまだ何が起こったのか理解していない。

 ヤエは勝気な笑みを浮かべる。

 握りしめた手に滲んだ汗には気付かないフリをして。


「ちゃんと鏡は磨かないと駄目よ?」

「なっ、な、な、なんだと……!?」


 ようやく我に返った子爵がわなわなと震え出した。

 頭に血が上っているのか、ヤエを睨む目に情欲はない。

 どうやら子爵の出鼻をくじくことが出来たようだ。

 子爵の真っ赤に染まった顔は、怒りだけではなく、恨みすらも孕んでいる。

 頭皮が見えそうな薄い髪すら逆立てて全身で苛立っていると言わんばかりだ。

 余裕のない子爵は唇を震わせて、はくはくと空気だけを押し出している。

 どうやら吐き出した以上の言葉すら出てこないらしい。

 ヤエはしたり顔で胸を張った。


「それで? まだあたしにドレス(それ)を着せたいの?」

「あ、当たり前であろう! 貴様はわしの理想そのものなんだぞ!!」


 子爵は肩を怒らせたまま唾を飛ばす。

 放たれた言葉に寒気を感じつつも、ヤエは目を細めた。


(この人、自分が何をしでかしたのか分かっているのかしら?)


 ヤエは華族の妻だ。

 同じ華族とはいえ、晴嵐家は華族の頂点に位置している。

 その妻を攫った自覚が、子爵にはない。

 今頃、櫻子(さくらこ)が助けを求め、捜索隊が出動していることだろう。

 時間を稼げば、ヤエは保護されるはずだ。


「理想、ねぇ」

「知っているか? 貴様は元々わしの妻となる予定だったことを」


 眉を吊り上げていた子爵が、苦し紛れに吐き捨てた。

 ヤエが黙り込めば、都合の良い解釈をしたのか捲し立てる。


「あやつはわしから妻を奪ったのだ! それがどれほどむごいことか、わかるであろう? 家と家の繋がりなのだからな。そもそも貴様に拒否権などなかったはずだ!! あるべきところに、あるべきものが帰るだけだ! 奪われたものを奪い返して何が悪い!!」

「それがどうしたの?」

「……なに?」

「あなたに嫁がされる寸前だったこと、あたしが知らないと本当に思ったの? そんなこと、とっくの昔に知っているわ」


 忌々しげに睨まれる。子爵の食いしばった歯から音が聞こえそうだ。

 本来であれば、ヤエの耳に入ることはなかった。

 環はヤエが知ることのないよう上手く隠していたのだから。

 強引に婚姻を結んだのも、子爵と契りを結ばせないためだろう。

 婚約者でとどまっていれば、子爵と海凪家は手を組み、勝手に用意した婚姻届を提出しかねない。

 色々な可能性を考慮した上で、環は結婚を決断した。

 好きな女と暮らしたいと戯れ言でお茶を濁していたのも、全てはヤエのためだ。

 その優しさが、今、とても恋しい。


「ならなぜわしの元にこない!!」

「? 行く意味がないからではないかしら?」

「貴様の夫はわしだ!! 妻が夫とともに暮らし、(ねや)を共にするのは当たり前だろう!!」


 吐き出されたのは、父と子ほど年の離れた相手に向けるものではない言葉だ。

 怪訝さを隠さずヤエは眉を顰めた。

 ヤエの表情が濁ったことにも気がつかず、子爵は続ける。


「このさいだ。初物でないことには目を瞑ってやる」


 このまま聞いていれば耳が腐り落ちそうなねちっこい声色に、ヤエはますます嫌悪感をあらわにする。

 夫婦の務めではあるが、環にそれを求められたことはない。

 それどころか彼はヤエの心が伴わなければ意味がないと言わんばかりだった。


(こんな男と環を比べるのが間違いね。環の方が、ずっといい男だもの)


 聞き流しているつもりでも不快感は心の隙間に入り込む。

 それでも下を向かなかったのは、環のおかげだ。

 環からもらった優しさが、ヤエの顔を上に向かせていた。


(そろそろ環の顔が見たいわ)


 ちらりと窓の外へ目を向ければ、見覚えのある車が洋館の前に止まった。

 それはいつの日かに見た軍用の車だ。


(きた……!)


 ぐるりと敷地を囲む背の高い柵に阻まれているらしい。

 使用人が正門へ向かっている。だがそれは十中八九追い返すためだろう。

 車からヤエとの距離を考えると、窓越しに存在に気がつくことは難しい。

 そもそも軍人が民家へ突入するなどありえない話だ。

 警察であっても正式な手続きを踏まなければならない。

 一朝一夕に許可が出るものではないと、子爵も理解しているのだろう。

 任意のお願いは、否と言えば強行されないのだから。


(なら、()()()()()()()()()()()()()()()()


 ヤエは静かに覚悟を瞳に宿らせる。

 目的に気がつかれないよう、口を開いた。


「それで、言いたいことはすべて?」

「は?」

「ならあたしはそろそろお暇させていただきたいのだけれど」

「わしが是と言うとでも?」

「許可なんていらないわ」


 勝ち誇ったように微笑み、ヤエは出窓に足をかけた。

 窓台に上った拍子に緩んでいた帯の先が床に付く。

 目を見開いていた子爵だったが、ヤエが何をしようとしているのか思い至ったらしい。

 慌てた様子でヤエへと手を伸ばす。

 一足早く窓を開け放てば、突風に薄水色の髪に攫われる。

 風から顔を守るように歩みを止めた子爵は、もう間に合わない。

 そう確信して、ヤエはそこから飛び降りた。

 忌々しいと言わんばかりの子爵の怒号と侍女の悲鳴が鼓膜を揺さぶる。

 もくろみ通り逃げ出せたと、ヤエは笑みを崩さない。

 太陽に手を伸ばすかのように帯がたなびく。

 落ちていく視界で見えたのは、車から降りてきた黒髪だった。

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