第26話「病室にて」
しばらくされるがままに抱きしめられていたが、途端に恥ずかしくなって身じろぎをする。
しかし母はヤエを離してはくれなかった。
静まり返った病室で、母のぬくもりを感じながら、ヤエの心は冬の海辺のように冷え切っていた。
母に抱きしめられたまま、ヤエは震える声で問いかける。
「……どうして、怒らないの? あたしは……異能でお母さんを傷つけたのに」
「そんなこと? 私はあなたの母だもの。なんてことないわ」
微笑みながら母は胸を張った。
だがそれだけで心の中の霧は晴れない。
ヤエは母の胸を押し返し、顔を上げる。叱られた子どものように眉を下げたまま。
「でもっ」
「いいのよ。それよりも、ヤエちゃんが今何をしてるか知りたいわ。あの美丈夫はヤエちゃんと関係があるのかしら?」
「美丈夫……?」
唐突に出てきた単語に首を傾げる。
頭に思い浮かぶのは環の顔だ。しかし、そんなわけがないと頭を振る。
海凪家が母の病院を決めていたはずだ。
残念ながらヤエに入院先が教えられることはなかったが。
(環なわけない)
ヤエの心中を知ってか知らずか、母はゆったりと笑った。
昔と同じ優しい微笑みに、懐かしさで胸が苦しくなってしまう。
今にも鼻歌を歌い出しそうな母から答えが差し出される。
「晴嵐環様よ。私をここに転院させてくれて、治療もしてくれたわ。前の病院では治すことはできなかったから」
「……環が」
告げられた名を復唱し、噛み締める。
簡単に予想を裏切ってくる彼は、どれだけヤエを喜ばせれば気が済むのだろう。
緩みそうな頬を引き締めて、ヤエは疑問で頭を満たした。
(どうして環が母の病室を知っているの?)
頭を悩ませるヤエに、母が追い打ちをかける。
黒い瞳を細める母は追求する気満々だ。
「その顔は知り合いなのね」
環は一度も母のことを口にしたことはなかった。
だというのに、環は母を見つけ出し、ヤエに会わせるために奮闘していたのだろうか。
胸の内からじわじわといたたまれなさや気恥ずかしさ、そして、少しの喜びが沸き上がる。
様々な感情が入り交じりった顔で、ヤエは声を絞り出した。
「彼は、なんて……?」
「ヤエちゃんの良い人になりたい男、って言ってたわ」
「その紹介は……どうなの」
予想の斜め上をいく返答に、ヤエは肩を落とした。
夫だとなぜ告げなかったのか、不思議でしかたがない。
きちんとした紹介をすればヤエが説明をする必要もなかった。
(こんな不意打ちをしなくても、言ってくれればよかったのに)
母を助けたとなればヤエは環に深く感謝するだろう。
彼が対価を望むなら、この身を捧げることだって厭わなかったはずだ。
そうすれば無理矢理にでもヤエを簡単に手に入れられだろうに。
(まさか、それを嫌って……?)
行き着いた答えにヤエは思わず拳を握り込んだ。
元々、結婚をする気はなかったと言っていた。
ヤエの心が手に入ってから婚約し、段階を踏んでからだとも。
環にとってこの善行はヤエの心を掴む第一歩なのかもしれない。
(……ずるい人)
ヤエの心にはするりと入り込んでくるくせに、己が心には触れさせない。
王子でありながら人魚姫であるヤエに懸想する、強く優しい人。
それが晴嵐環だ。
(環の顔が見たいわ)
無性に彼が恋しい。
高ぶる感情のままに会えばからかわれると理解しているが、それでも会いたいと思った。
なんとも形容しがたい感情と戦っていると、母が懐かしげに笑う。
目を細める母は、ヤエの心の内を見透かしているようだ。
「あのね、あたしの名前、晴嵐ヤエっていうの」
母の目が零れてしまいそうなほど大きく見開かれる。
当たり前の反応に、ヤエは苦い笑いをこぼす。
普通、良い人になりたいと言っていた男がすでに夫だとは思わない。
しかしすぐに衝撃から戻ってきた母は、また目元を潤ませ微笑んだ。
「そう、あの人が、ヤエの旦那様なのね」
「……うん」
「素敵な人ね」
「……そう、ね」
旦那様という言葉に心がそわそわする。
少し頬が熱いのは気のせいだろうか。
母の楽しげな視線から逃げるため、ヤエは寝台に頭をつけた。
母の匂いが鼻孔をくすぐる。
くすくすと笑われ、頭のてっぺんから首元まで赤くなったのを自覚した。
何も言わずにいるとゆったりと頭を撫でられる。
細い手に違和感を覚え、ヤエは穴に入りたくなった。
(環と比べてしまうなんて……)
喋らないヤエを不思議に思ったのか、母が首を傾げる。
「ヤエちゃん?」
「環は……あたしを助けてくれて、それに、お母さんまで助けてくれた」
「あらあら。親子二代でお世話になっちゃったわね」
「うん。環はなんてことないみたいに色々してくれるけど、あたしに返せるものなんて……」
「あら、そうかしら?」
反射的に顔を上げる。
目に飛び込んできたのはにんまりと笑う母だ。
その表情をヤエは知っている。ヤエをからかう気満々の環と同じ顔だ。
嫌な予感が頭を掠めつつも母の言葉を待つ。
「あなた、旦那様へ想いを告げてないのでしょう?」
「っ」
「でしょうね。じゃなきゃ『良い人になりたい男』だなんて言わないわ」
大きくため息をついた母が、ヤエの頬を両手で包み上を向かせる。
静かな冬の夜空のような目は全てお見通しだといわんばかりだ。
咥えられた子猫のように身を縮こまらせていれば、母の真剣な表情が崩れた。
「自分でも理解しているんでしょう? ならちゃんと向き合わないと」
「でも、環は……人魚姫の王子なの」
「それが?」
「えっ……。だって、人魚姫は王子に裏切られて泡に……」
「そうね。でもお母さん、あの人がそんな不義理をするような人に見えないわ」
母が言うならそうなのだろうと胸にすとんと落ちる。
しかし、恐怖が消えるわけではなかった。
「あたしは、泡になりたくないの」
「えぇ。私も泡になってほしくないわ。お母さん、童話憑きじゃないからあまり分からないのだけれど、絶対大丈夫」
「お母さんまで……。根拠のない自信はどこからくるの……?」
「ふふっ。勘よ」
「えぇ?」
意味ありげな目に、ヤエは素っ頓狂な声を上げた。
簡単に運命が変われば、童話憑きたちは苦労していない。
お茶目に片目を瞑りながら、母は言葉を続けた。
「って言うのは半分冗談」
「残り半分は?」
「確信。だって王女様は――」
遮るようにコンコンコンと来客を告げる音が響く。
間髪入れずに扉が開き、失礼しますと鈴を転がすような声が聞こえた。
草履の音が近づいてきて、西洋人形のような女性が顔を覗かせた。




