第25話「613号室」
翌朝。
眠気の残る眼を擦りながら、温かな布団から起き上がった。
文机に飾られた母の写真に朝の挨拶をして、着替えを始める。
初めのうちは手触りの良さに驚き、帯を結ぶことすら恐る恐る行っていたというのに、慣れとは怖いものだ。
帯を結びながら昨夜に告げられた今日の予定を思い出す。
(帝国病院に何があるのかしら? 環のお父様は元気だし……)
悶々と考え込んでいても手がかりになるような記憶はない。
ヤエは身だしなみを整えると、そっと自室から出た。
◇◆◇
磨り硝子のはまった窓口で名前を告げれば、613号室への順路を教えられる。
真っ白な院内の奥へと進めば、入院患者たちの病室が並ぶ区画に様変わりした。
きょろきょろと部屋番号を見ながら歩いていると小さな声が耳に届いた。
どうやら風通しのために扉が開け放たれた病室からのようだ。
ヤエは思わず足を止める。
ちらりと目をやると、小さな兄妹が一生懸命絵本を読んでいた。
「――人魚姫は泡になって消えてしまいました。おしまい」
「人魚姫ってかっこいいのね!」
「毎回毎回、意味分かんねぇ。かっこよくないだろ。ただの悲恋じゃないか」
「お兄ちゃんったら、全然分かってないのね。王子様を守って死んだのよ? それにお兄ちゃんの好きな騎士様だってお姫様を守るじゃない」
「騎士は守っても生きてるだろ」
「むー」
兄が膨れてしまった妹の頬をつつく。
そんな様子を見ながら、ヤエはなぜか懐かしい気持ちになった。
(人魚姫がかっこいい、なんて環と同じこと思う人もいるのね)
環の顔が浮かぶと同時に、つきりと頭の奥が痛む。
それはまるでヤエを責めるような痛みだ。
人魚姫を女々しいと告げた時の、環の顔が脳裏に焼き付いている。
(王子を守った、か)
確かにそれはかっこいいかもしれない。
すんなりと心に落ちた感想に、ヤエは拍子抜けするほどあっさり納得した。
考え方が変わったのは誰の影響か、口にするまでもない。
病室から出てきた兄妹がヤエの横を通り、本棚へと一目散に向かって行く。
微笑ましい光景を眺めながら、ヤエは本来の目的を思い出した。
(早く行かなきゃ)
足早に辿り着いたのは、院内の一番奥にある病室だ。
ヤエは表札に名前がないと内心訝しみながら、扉に手をかけた。
「失礼します」
からからと音を立てて引き戸が閉まる。
飾り気のない板張りの病室だ。
その代わりか大きな窓が設けられており、病室特有の辛気くささはない。
開け放たれた窓からは庭で咲き誇っている白梅がよく見えた。
扉と寝台を隔てるように立てられた衝立は一つで、この病室が一人部屋なのだと悟った。
衝立に映った影が起き上がる。
「どなた?」
か細い声で問われ、息を呑んだ。
忘れないようにと思い出しては掠れていく声色と重なり、目を見張る。
名乗ろうと口を開くが、乾いた喉から言葉は零れてはくれない。
床に張り付いてしまった足を無理矢理動かし、衝立の向こうへと向かった。
耳の奥で耳鳴りがする。
6尺ほども離れていないというのに、永遠かと思えるほど長い距離に感じてしまう。
浅い呼吸を繰り返しながら、ヤエはとうとう寝台に辿り着いた。
真っ白な布団に座るのは、目尻に年を重ねた女性だ。
薄水色の髪を横に流し、まとめている。
ヤエを映した黒色の瞳に驚愕が宿る。
「ヤ、エ……?」
「っ」
踵を返そうとしたが、母の悲痛な「待って!」という声に、足が縫い止められてしまった。
機械仕掛けの西洋人形のように、ぎこちなく振り返る。
記憶よりもやつれた母と目を合わすことができず、視線を彷徨わせる。
真っ白な病室で目を引くのは大きな花束だ。
寝台の横に置かれた小さな洋卓にこぢんまりと置かれている。
ヤエの心に渦巻く怯えなど知らないと言わんばかりに、赤と白、そしてピンクの花々が咲き誇っていた。
「ちゃんと顔を見せてちょうだい?」
「……うん」
丸椅子に腰掛ければ、痩せ細った両手で顔を包まれる。
確認するように頬を撫でられ、ついその優しい手つきにすり寄ってしまった。
何気ない仕草だったが、母は目尻に涙を溜め、嗚咽を漏らす。
「っ、こんなに、大きくなってっ」
掻き抱くように背中に手を回され、ヤエはしばらく呆然とされるがままになっていた。




