第24話「夜の庭園で」
厳かな日本庭園にオルケストラが響く。
中島へと続く朱の橋の上で、ヤエはステップを踏んでいた。
朱の橋の両端には火が灯っているものの、 夜の帳が下りる庭園では足下がよく見えない。
その上、洋装ではないため足さばきが思うようにいかなかった。
ドレスであればもう少しマシなのだと、ヤエは内心弁解してしまう。
だが拙い足取りをものともせず、環はヤエをリードしてくれる。
「意外だな」
「何が?」
「ちゃんと踊れている」
「……ここで、教えてもらったから」
淑女教育をやり直している最中のヤエにとって、学びから経験に変えるいい機会だ。
踊る相手がいてこそのダンスを一人で練習するのには限界があった。
真剣な表情でステップを踏むヤエの目に、環は映っていない。
面白くなさそうにヤエを見つめる環が、何かを思い付いたと悪戯な笑みを浮かべていることにすら気がつかないようだ。
環の腕に力がこもる。
だが、ヤエの瞳が環を映すことはなかった。
自身に触れている手の力加減にも意識が向かないほど、ヤエの意識は下を向いている。
ヤエが次のステップを頭の中で反復していると、勢いよく回された。
「ひゃっ!?」
「ふはっ」
ヤエを追うように薄水色の髪が円を描く。
よほどヤエの驚いた様が面白かったのだろう。
ヤエを回した張本人は肩を揺らして笑っていた。
環を見上げれば、少し涙目になった濃藍色と視線が絡んだ。
楽しげな瞳にヤエは頬を膨らませる。
「環がやったのに笑うなんて、どうかと思うわ」
「悪い悪い」
口から出る謝罪とは裏腹に、腰に回る手に力がこもった。
二人の間にあった空間を埋めるように引き寄せられる。
ヤエが嫌がればすぐにでも離れてしまうような、絶妙な力加減だ。
耳の先まで赤くなったヤエが責めるように口を開く。
「悪いと思ってないでしょ」
ヤエを見つめる温和な瞳から視線を逸らす。
黒髪から覗く目はいつだってヤエを気遣っていた。
しかし、今夜は違った。
「多少は思っている。だが、まぁ、ヤエが俺を見ないから少し意地悪をしたくなった」
「へ?」
離れかけた目線がまた引き寄せられてしまう。
艶の帯びた色気を孕んだ濃藍色の瞳から目が離せない。
熱に浮かされたような、そんな気分だ。
甘く絡んだ視線がほどけることはなく、互いを見つめ合う。
早鐘を打つ鼓動が聞こえてしまいそうだ。
数秒か、数分か分からない沈黙を破ったのは環だった。
思わず頬が緩んでしまったような気の抜けたように笑みで環は指摘する。
「ダンスは互いの顔を見ながらするものだろ? 足下を見ていたって楽しくない」
「そういうもの?」
「そういうものだ」
神妙に頷く環に、思わず笑みがこぼれた。
その場でくるりと反転すれば、着物の袖がヤエの後を追って半円を描く。
ヤエの黒曜石のような色の瞳にはもう環しか映っていない。
和らげられた目尻が少し気恥ずかしさを感じさせる。
「淑女教育は楽しいか?」
「楽しいわ。とっても」
「そうか」
環が満足そうに微笑む。
それだけでヤエの胸に温かなものが広がった。
先ほどまでの甘い雰囲気は消え去ってしまったが、二人が気にする様子はない。
笑顔の花を咲かせるヤエに、環は眩しそうに目を細める。
普段よりも一段と甘い表情に、ヤエの心臓は高鳴りっぱなしだ。
そっと様子を窺えば、月明かりに照らさた黒髪がステップに合わせて揺れた。
ヤエの視線に気がついた環は、ん? と目だけでどうしたと問いかけてくる。
なにもないのだとヤエが首を振れば、環は不思議そうに目を瞬いていた。
しばらく流れる音楽に任せて踊っていると、環から問いかけられる。
「勉強が嫌いなわけじゃないなら、なぜ異能教育から逃げた?」
「それは……」
「言い辛かったら言わなくていい。変な事を聞いたな」
すぐに質問をなかったことにした環は、言い淀んだヤエに気を遣ったのだろう。
先回りすればヤエがこれ以上傷つかないと思って。
しかし、逃げてばかりだった頃の自分ではないのだと、ヤエは黒色の瞳に決意を宿した。
「あたしね、怖かったの」
「怖かった……?」
「そう。異能を使ってしまったら、童話憑きであることを認めてしまう気がして……。怖かった」
「そうか。自分が悲恋の主役だなんて、信じたくもないよな」
静かに微笑んだ環だったが、眉が少し下がっており悲しそうな顔を隠しきれていない。
しかし、瞬く間にいつもの表情に戻ってしまった。
わずかな哀調を帯びた声も、聞き間違えかと疑ってしまうほどの代わり身だ。
「環はそう思ったりしなかった?」
「俺か? そうだな……。俺は人魚姫を幸せにできると喜んでいた」
「ふふっ。環らしいわね」
「あぁ。努力の甲斐あって今、ヤエは俺の手の中にいる」
強気な笑みに、ヤエは先ほどの表情はやはり見間違いだったのだろうと結論づける。
しばらく無言で踊っていれば、オルケストラの音がゆっくりと止まった。
どうやら一曲終わってしまったらしい。
「喋りながらこれだけ踊れたら十分だな」
「あ、ありがとう」
「夜風は体に沁みるからな。そろそろ戻るか」
朱の橋まで来た時の事を思い出し、ヤエの喉から変な音が漏れた。
予想していた通り、軽々と抱き上げられてしまい、ヤエの心臓はバクバクと大きな音を立てる。
冷たい夜風に負けないほど熱い体に、全身から火が出るかと錯覚しそうだ。
縁側へ進みながら環は静かに口を開いた。
「俺は王子とは違う」
「? 前も言っていたわね」
「あぁ。人魚姫を娶ろうとして別の女に目が眩んだ男とは違う」
「言い方……」
「あ? 事実だろ?」
苦笑を零せば、環は心底嫌そうな声色で吐き捨てた。
環の言いたいことは理解できる。
しかし、人魚姫の王子は元々王女こそが自身を救った女性だと思っているのだから、目が眩んだとは言わないのではないだろうか。
唐突に振られた話題の意図が分からずヤエは首を傾げる。
「それで? 王子とは違う環は何が言いたいの?」
「ヤエは俺が必ず幸せにする」
「人魚姫じゃなくて?」
「あぁ。人魚姫じゃない。ヤエをだ」
いつだったか同じやり取りをした。
その時とは何かが違うと感じるのは、ヤエの心が環に傾きつつあるからだろうか。
濃藍色の双眸は、本当に叶えてしまいそうな力強さがある。
「明日、帝国病院の613号室へ行け」
「へ?」
脈絡もない命令に、ヤエは瞬いた。
目を白黒させていると環は念を押すように圧をかけてくる。
「わかったな?」
「う、うん。わかった」
「いい子だ」
こつりと額を合わせられ、ヤエは顔を真っ赤に染めた。




