第22話「お願い」
「ごめんなさい!」
環が動きを止めたことをいいことに、ヤエは溢れる言葉をまとめることなく口にする。
「子爵から向けられた目と環の目が、同じに見えて、でもそんなことないのに。環はいつもあたしのこと、考えてくれてて、優しいのに。傷つけたのに、話聞いてくれるし、だから環は優しくて、子爵とは全然違って」
夜の静寂をかき乱すようにヤエの声が響く。
冷たいはずの縁側も、日本庭園の厳かな雰囲気も、今は重くのしかかるだけの重荷だ。
「ヤエ、落ち着け」
拳一つ分空いた距離を詰めた環が、ヤエの頬に触れる。
子どもを落ち着かせるように頬を撫でられ、ヤエはようやく息を吸った。
呼吸を思い出したヤエを満足そうに環が見つめる。
「言いたいことは大まかだが理解した」
「え?」
「軍部で嫌なことがあったんだな?」
言葉を真綿に包み伝えられ、その気遣いにヤエは目尻を下げる。
頬に添えられた手に自身のそれを重ねれば、環が目を見張った。
「そうだけど、そうじゃないの」
「?」
環は意味が分からないと言わんばかりに首を傾げた。
そんな環の手にすり寄れば、彼の耳が僅かに赤らむ。
「環は違うから、大丈夫」
「……角山子爵になにされた?」
首を横に振れば、環はますます眉を顰めた。
目に見えて嫌そうな顔にヤエは思わず声を上げて笑ってしまう。
「環が子爵と違うって、分かったから」
「アレと同類扱いされるのはごめんなんだが……」
「うん。だから、ごめん」
「謝罪はいいから。何があったか、教えてくれ」
真剣な眼差しが刺さる。
だが、ヤエの口から説明するには、環の目に明らかな熱が含まれていたと本人に告げなければならない。
どうすべきかとヤエが頭を悩ませていると、環が砂糖を煮詰めたような笑みを浮かべた。
「このまま口づけするのもありだな」
「っ」
「初めての口づけだが、ここならいんじゃないか?」
夜寝られずに部屋を抜けだした先で初めての口づけというのは確かに物語の主人公のようだ。
しかし、ヤエにその覚悟はない。
「冗談、よね?」
「さぁ?」
美術品のように整った顔が近づいてくる。
絡まった視線を逃がせずにいれば、深海のような瞳の奥に、先ほどのような熱がないことに気がついた。
あるのはからかいの色だけだ。
「口づけする気、ないでしょ」
「ふっ。バレたか」
こつりと額同士がぶつかり、視界が環で埋まる。
切れ長の目や、長いまつげをじっと見つめていれば、くすりと笑われる。
「そんな目をされると本当に口づけしてしまいそうだ」
「それはだめ」
「なら、ちゃんと説明してくれ」
環はすんなりと離れるが、彼の手は名残惜しげにヤエの髪を掬う。
薄水色の髪がくるくると弄ばれるのを視界に入れながら、ヤエは軍部であったことを包み隠さずに告げた。
角山子爵とすれ違ったこと。
彼の目が気持ち悪かったこと。
子爵から婚姻を持ちかけられていたと知ったこと。
そして、環の目に見えた熱が、子爵のそれと同じだと感じてしまったこと。
聞き終わった環が髪から手を離し、そっと笑う。
環らしくない力のない笑みだ。
「確かにヤエから見たら角山子爵と俺は一緒かもな」
「絶対違う」
「そんなわけないだろ。アレと一緒で、私欲のためにヤエを嫁にした。俺はアレのために用意された婚姻届を横取りしたんだ」
「横取り……?」
「あぁ。それにアレの目と同じってことは、俺にも隠しきれない情欲があったんだろ? ヤエに一線引かれてもおかしくない」
「でも環は……」
「そこで俺を責めないのがヤエらしいな。幻滅したか?」
ヤエの言葉を遮るように声をかぶせてくる。
痛みを堪えるような顔に、ヤエは環の頬を両手で包んだ。
「バカね。あたしはそんなことで幻滅なんてしないわ」
「!」
「環が婚姻届を横取りしてくれなかったらあんな男に嫁いでたと思うと笑えないわ」
「……そうか」
「そうよ。だから、環。ありがとう」
ヤエがふにゃりと破顔すれば、環は目を瞬いた。
どうやらお礼を言われると思っていなかったらしい。
「俺は……」
「あと、あたしがいつ、環から向けられる欲が嫌って言った?」
「……は?」
「あたしが嫌だったのはあの男の目よ。履き違えないで」
「それは……新手の誘い文句か?」
「なんでそうなるのよ」
いつもの調子が戻ってきた環の顔から手を離す。
すると、彼の手が両手を掴んだ。
じとりと熱の籠もった瞳で睨まれ、ヤエは言葉選びを間違えたのだと悟る。
「期待するぞ」
低く掠れた声には背中をなぞられるような色気が含まれていた。
夜の風に晒されているはずの足先から頭のてっぺんに至るまでが一瞬で火照る。
「っ環」
「今名前を呼ぶのは逆効果。だが俺は我慢できる男だからな、これ以上はしない。ただし、一つだけ、俺の言うことを聞いてくれ」
嵐の海のような荒々しさの残る瞳に、ヤエはこくこくと頷くしかなかった。




