第86話 竜哭の遺跡⑧ 刃の色
おはようございます。
毎日更新は、今日でひと区切りです。そろそろストックが不安になってきたので、次回からは毎週月曜と金曜の夜9時に更新します。これからも、よろしくお願いします!
前回は、訪ねてきたノーラとの、焚き火での火の話。そして、縦穴の風が変わったところで終わりました。今回は三層へ。乾いた匂いのする、嫌な層です。
穴へ吸いこまれていく風は、それからしばらく続いた。ルーシーが蝋燭を囲ったまま百を数え、もう百を数えかけたころ、炎の先がゆっくりと起き上がり、また穴から離れるほうへ傾き始める。冷たい風が、もう一度、下から上がってきた。息を吸いこむような低いうなりも、いつのまにか聞こえない。
見張りの交代でカイゼルとケスディアを起こしたとき、カルヴァンは「朝に話す」とだけ言った。
◇
遺跡に入って三日目の朝、ルーシーは見た順にカイゼルへ話した。
カイゼルは地図の縦穴の丸の横に、上向きと下向きの矢印を二本書き足した。それから籠手を外し、縦穴の縁の石に手のひらを当てる。
「俺の手には、来ない。……だが、お前の足が拾った分は、書いた」
「吸って、吐いていました。息をするみたいに」
「それも書く」
入口の石積みは、いちばん上の石が二つ、内側へ落ちていた。一つは入口の脇で寝ていたルーシーの枕もとに転がっていて、外側の面に、細い爪で引っかいた白い筋が何本も残っている。
「夜中に落ちた。スカーヴァーだ。かじりに来ただけだ」
後半の見張りだったケスディアが言った。セリナが、枕もとの石とルーシーの顔を見比べる。
「……大きいのだったら?」
「顔の上だ」
「起きなかった私も、どうかと思います」
「図太いのよ。褒めてないわよ」
ルーシーは、ゆうべ指を掛けた平たい石のことは、口に出さなかった。
朝食のあと、ケスディアと二人で石積みを崩した。右の肩をかばって石を抱えると、ケスディアが横から一つ、ルーシーの分を持っていく。
「それ、私の分です」
「右をかばって抱えてんの、丸見えなんだよ。そっちのほうが遅い」
(ありがたい。……でも、言うと怒りそうだ)
カイゼルは裂けた籠手を布で縛り、また左腕に盾を通した。
「三層で決める」
◇
三層への階段の手前に、灰狼団の焚き火の跡が残っていた。冷えた燃えさしが三本と、黒パンのくず。ゆうべノーラに渡した半分のパンを、三人で分けたのだろう。
「ちゃんと食べたみたいね」
セリナが、くずを靴の先でよけた。
三層への階段は狭く、急だった。下りるにつれて、腐った肉と湿った獣の毛と、何かが焦げたような匂いが混じり始める。そのくせ空気は二層より乾いていて、吸うと喉の奥がかさついた。
三層は、広間ではなかった。石を積んだ壁に挟まれた通路が、いくつにも枝分かれしている。幅は、二人並んでやっと。床には壁から崩れた砂が薄く積もり、歩くたびに靴の下で鳴った。
階段を下りてすぐの右の脇道に、大きな獣の骨が積み重なっていた。脚の骨一本が、ルーシーの腕より太い。噛み砕いた跡が、新しい。
「ゴブリンの歯じゃないな」
カイゼルは脇道に入らず、松明を戻させた。この幅では、矢が横に通らない。並びは、一列に近くなった。
床の砂の上に、新しい足跡が三つ続いていた。大きいのと、中くらいのと、小さいの。
「灰狼団だ。小さいのは、ピップの足だな」
ケスディアがしゃがんで、足跡の縁を指でなぞった。
「新しい。砂が、まだ崩れてない」
足跡を踏まないように、壁ぎわを歩く。百歩ほど進んで、二つ目の角が近づいたときだった。
「止まれ」
ケスディアだった。弓を持った左手を、低く前へ出している。
「足もと。角の手前、二歩」
何もないように見えた。カルヴァンが松明を床すれすれまで下げると、くるぶしより低いところを、光の線が一本横切った。上げると、消える。
糸だった。髪の毛ほどの細さで、片方の端は壁の隙間に打ちこんだ木の楔に、もう片方は角の向こうへ延びている。角の先の壁の上、天井近くの出っぱりに、拳ほどの石が積み上げてあった。糸を引っかければ支えの棒が外れて、石が降ってくる。
「ゴブリンの罠か」
「にしては、張り方がきれいだ」
カルヴァンとカイゼルの声に、ケスディアが糸の下の床をあごで示した。
「足跡が、糸の下を通ってる」
灰狼団の三つの足跡は、糸のある場所を、まっすぐ抜けていた。止まった跡も、またいだ跡もない。
「あいつらが通ったあとで、張った奴がいる」
(……今も、見てる?)
前と後ろの暗がりを、順に見た。足の裏は、何も拾わない。
「切りますか」
「切れば、張った奴に、気づいたと知らせることになる。帰りに通るなら、そのときに切る。……一人ずつ、またげ。膝を高く。砂を蹴るな」
カイゼルが先にまたいだ。続いて、右足を高く上げて糸の向こうへ下ろす。後ろの左足を抜こうと、膝を折って腰を沈めた。
「鞘、下がってる」
ケスディアの低い声がした。
腰の後ろで、鞘の先が砂のほうへ下がっていた。左手で鞘をつかみ、腿へ引き寄せる。鞘の先は、糸から指二本のところだった。
(戸口の枠なら、当てないのに)
左足を抜いた。セリナ、ケスディアの順にまたぎ、最後にカルヴァンが、松明を高く掲げて糸から光を離したまままたいだ。糸は、一度も揺れなかった。
またぎ終えたところで、セリナがケスディアの背中に指を一本立てた。
「ケスディアの一。これで一対一ね」
「当たり前だ。目は俺のほうがいい」
「ルーシー、追いつかれたわよ」
「数えられていると知ったのが、おとといなので」
「知らなくても数えるのよ」
◇
三つ目の角の手前で、壁の向こうの小さな音を、耳が拾った。
砂を踏む音。一つではない。
「角の陰、何体か。待ってます」
カイゼルは盾を構え直し、そのまま角へ踏みこんだ。待ち伏せは、知られた時点で待ち伏せではない。
ゴブリンが四体、飛び出してきた。そのうち二体の短い刃が、松明の光を鈍く返す。鉄の灰色ではない。緑がかった黒が、べっとりと塗ってある。
「毒だ! 刃は受けるな。柄を払え!」
一体目の棍棒が、カイゼルの盾を叩いた。その陰から二体目が低く出て、盾の下の縁へ黒い刃を突き上げる。カイゼルは盾の縁を横に振り、刃の根もとの柄を外から払った。
三体目が、ルーシーに来た。錆の浮いたふつうの刃を、上から肩へ。半身に開いて筋から外し、振り抜けた手首を剣の腹で叩く。刃が床に落ちた。
「一つ、落としました!」
四体目は、角のさらに奥から来た。
右は壁。左はカイゼルの盾。すぐ後ろに、セリナ。
膝の高さに構えた黒い刃が、胸の高さへ、まっすぐ突き上がってくる。
かわせば、刃は後ろのセリナの胸を通る。剣は、さっきの手首を叩いたまま下にある。
左の前腕を上げた。
一呼吸で、寄せる。
二層の柱のあいだでは、三呼吸かかった。今は一息で温かさが傾き、前腕の中身がぎゅっと詰まる。
刃が、籠手を裂いた。刃先が皮膚に当たって――そこで止まった。
ゴブリンが体重をかけて押す。前腕は動かない。負けたのは刃のほうだった。粗い鉄の刃先が、ぱきりと欠けて砂に落ちる。
膝が、抜けかけた。
半分だけ。右の膝がかくりと沈み、途中で止まる。
「背中!」
ケスディアの声だった。
振り向くより先に、背中のすぐ後ろで空気が動いた。ふっ、と短く息を吹く音。続けて、乾いた小さな音。
曲がってきた角の上、人の背丈より少し高い壁の窪みに、もう一体がうずくまっていた。口に細い木の筒。片方の耳が、根もとから欠けている。
その筒の先とルーシーの背中のあいだに、ケスディアの右の前腕があった。セリナの肩の横から一歩出て、肘から先だけを振り出している。
指の長さほどの吹き矢が一本、壁に当たって床に落ちた。
ケスディアの顔が、ゆがんだ。
矢の先の細い針が、籠手の継ぎ目を抜けていた。手首と前腕の革を綴じたところに、小さな血の点がにじんでいる。
カイゼルが一体目を盾で壁に押しつけ、剣で仕留めた。ルーシーは前腕の硬さをほどきながら、四体目の柄を剣の腹で払う。刃の欠けたゴブリンは武器を捨てて角の奥へ逃げ、残りの二体も続いた。耳の欠けた吹き矢持ちは、もう窪みの奥の穴へ消えていた。
カルヴァンが床の吹き矢を布でくるんで拾い、針の先の匂いをかいだ。
「しびれ草だ。刺さった所から、しびれが上へ回る。量が多ければ、息が止まる」
セリナはもう薬袋を開けていた。何本もある小瓶の中から、迷わず一本を抜く。
◇
セリナはケスディアを壁ぎわに座らせ、籠手の留め紐をほどいた。針の跡は、小さな赤い点だった。まわりが、もう腫れ始めている。
「指は」
「……しびれてる。先から」
「全部飲んで。苦いけど」
ケスディアは小瓶を飲み干して、顔をしかめた。
「毒は、魔法じゃ消せない。回るのを遅らせるだけよ。……動かないで」
セリナが針の跡を両手で包み、目を閉じる。ルーシーは角の奥へ剣を向けて立った。
目を閉じたままのセリナに、左の腕に線が一本、と先に言っておいた。
ケスディアは額に汗を浮かべたまま、右手の指を握っては開いていた。その目が、ルーシーの背中を見ていた。
◇
昼の休みは、その場でとった。セリナが手を離したとき、腫れはもう広がらず、しびれは指先に残るだけになっていた。
ケスディアは右手を目の前にかざし、指を一本ずつ曲げた。
「同じ腕かよ」
「森で骨まで裂いた腕ね。今日は、針の穴一つで済んだわ」
「済んでねえよ」
ケスディアは弓を左手に取り、矢を番えずに、右の指で弦をつまんだ。頬の手前、いつも引いているところまで引く。弦がきしむ。戻す。もう一度引いて、戻す。
「……引ける」
弓を膝に置き、通路の奥を見たまま言った。
「……さっきの角。耳はずるいだろ」
「ずるくは、ないと思います」
セリナが水筒の栓を閉めて、指を二本立てた。
「耳の分で、ルーシーが二。ケスディアが一」
「背中のは」
「あれは見つけ物じゃなくて、仕事でしょ」
ケスディアは舌打ちをして、干し肉をかじり始めた。
ルーシーは口を開きかけた。背中のこと。腕を差し出してくれたこと。けれど、ケスディアの目はもう通路の奥の暗がりに向いていた。ルーシーは口を閉じた。
(お礼は、一度言いそびれると、どんどん言いにくくなる。……前の職場でも、そうだった)
食べ終えると、左の籠手の裂け目を予備の紐で縫い寄せた。二層の歯の跡が三つ並んだ、その隣だ。縫いながら、角での四体を思い返した。
「カイゼル。毒の刃を持っていたのは、二体だけでした。ほかより半歩後ろで、柄を低く握って、下から突いてきました」
カイゼルは干し肉を噛むのを止め、角のほうへ目をやった。
「……半歩後ろ、か。次は、盾をそっちへ向ける」
「はい」
カルヴァンが地図の三層に、糸の罠と窪みの場所をばつ印で書き入れた。
昼の休みが終わり、一行はまた歩き出した。ケスディアはルーシーの斜め後ろについて、ときどき右の指を握っては開いている。
午後に入って、二つ目の分かれ道を過ぎたときだった。床石が、足の下で一度沈んで、戻った。
短く、重い。少し間があって、また一つ。
「前から、何か来ます。重いです」
言い終わる前に、ほかの全員の耳にも届いていた。カイゼルが盾を構え直す。布で縛った左腕に、盾の重さがかかった。
「ケスディア。引けるか」
「引ける」
ケスディアはもう矢を番えていた。右の指が、弦の上で一度握り直される。
通路の奥の暗がりから、ゆっくりとした重い足音が近づいてくる。一歩ごとに、両側の壁から細かい砂がさらさらとこぼれ落ちた。松明の光の中で、こぼれた砂が細い滝のように光っていた。
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