第85話 竜哭の遺跡⑦ 残滓と残量
おはようございます。
前回は、ゴブリンの巣での挟み撃ちと、倒れた柱。今回は二日目の夜の野営です。少しゆるんだ空気と、焚き火のそばの小さな授業。
剣を鞘に戻しても、しゃり、という音は耳の奥に残っていた。
十本目の松明が短くなった夕方、カイゼルが野営に選んだのは、ゴブリンの巣のある左の柱廊からも、三層への階段からも離れた場所だった。縦穴から三十歩ほどの広間の壁に、小さな部屋の口が一つ開いている。奥に腰の高さの四角い石の台があり、壁には、柱と同じすり減った模様が刻まれていた。
「祭室だな。昔、誰かが何かを祈った場所だ」
カルヴァンが言った。入口は、人が一人やっと通れるほどの幅。中は、五人が横になっても少し余る。
「ここにする。入口をふさげ」
カイゼルの言葉で、ルーシーとケスディアは、広間の壁ぎわに崩れていた頭ほどの石を運んだ。ルーシーは両腕に一つずつ。ケスディアは弓を引く右腕をかばって、左腕に一つ。
三度目に戻ったとき、崩れた山の奥に、膝の高さほどもある平たい石が見えた。あれなら一つで入口の下半分がふさがる。下に指を掛けると、後ろからカイゼルの声が飛んできた。
「その大きさでいい。小さいのを積め」
「でも、これのほうが早いです」
「崩れたとき、大きいのは中の人間の上に落ちる」
ルーシーは、平たい石から指を離した。
(早いのは、積むときだけ)
積むのは、カイゼルだった。裂けた籠手を外したまま、右手だけで石を積み、隙間に小さな石をかませていく。胸の高さまでふさいで、その上の、頭の高さの隙間だけはわざと空けた。石の台の真上の天井は黒くすすけていて、その煤が、入口の上の隙間へ向かって一本の帯になって延びている。
「昔の連中も、ここで火を焚いてた。煙は抜ける」
カルヴァンがアイテムボックスから薪の束を出し、ルーシーの前に置いた。
火は、百を数えるほどで薪に移った。
セリナが、ルーシーを手招きした。
「肩、見せて」
襟をずらすと、右の肩の前が、手のひらほど赤黒く変わっていた。セリナは指で押して骨を確かめ、魔力は使わずに、膏薬を薄く塗った。
「治すほどじゃないから、治さないわよ。明日の分を残しておきたいの」
「はい。それで、いいです」
◇
夕食の前に、カルヴァンが言った。
「食料は、八日分ある」
セリナがうなずいて、ルーシーの椀に煮込みをよそった。
「ねえ。柱一本、いくらかしらね。ギルドから請求が来たら、あんたの取り分から引くわよ」
ルーシーは椀を置き、本気で指を折りかけた。
「柱は、一本、いくらくらいするものでしょうか」
(訓練場の杭は、串焼き四本分だった。……柱は、串焼き何本だろう)
矢羽を指でなぞりながら、ケスディアが目を上げずに言った。
「あれは、誰が当たっても倒れてた。根もとが、半分割れてた。カイゼルが当たっても倒れてた」
「……へえ」
セリナが、ケスディアの顔をのぞきこんだ。ケスディアの、矢羽をなぞる指だけが、少し速くなる。セリナはまた鍋をかき混ぜはじめた。匙を回す手つきが、さっきより軽い。
「……ありがとうございます」
「礼を言われることは、言ってない」
食事が終わるころ、カイゼルが地図の階段の印を指で叩いた。
「明日は三層に一日。左の柱廊には近づかない」
それから、ルーシーの腰の剣を見た。
「最後の一振り、聞こえたぞ」
「はい」
「帰ったら鍛冶屋だ。それまでは、力で振るな。置け」
ルーシーは柄に手を置いて、うなずいた。
◇
入口の石積みの向こうから声がしたのは、鍋を片づけ終えたころだった。
「あの……すみません」
若い女の声だった。カイゼルが立ち上がり、石積みの上の隙間から外をのぞいて、ルーシーを振り返った。
「灰狼団の魔法使いだ」
隙間の向こうに、ノーラが立っていた。手に小さな油の灯りを持っている。布を巻いた指先が、灯りに白く浮いていた。
「階段の手前で、野営してるんです。三人で。ダリルが、今夜はそこで休んで、明日の朝に下りるって」
ノーラは深く頭を下げた。
「昼間は、ありがとうございました。ちゃんとお礼を言えなかったので」
「いえ」
ノーラは顔を上げたが、灯りを持った手を、胸の前で握ったままだった。
「あのとき、火を止めてって言われて。止めなきゃって、思ったんです。でも、止め方が、わからなくて」
布を巻いた指が、灯りの柄を握りしめた。
「わたしの火って、点けるとすぐ大きくなって、煙もいっぱい出て。小さくしようとすると、消えちゃうか、もっと大きくなるかで。……あのとき止まったのも、止めたんじゃないんです。怖くて手を引っこめたら、消えただけなんです」
焚き火の前に座ったまま、カルヴァンがルーシーのほうを顎で示した。
「そいつに聞け」
「私、ですか」
「お前のほうが、最近までそいつと同じ失敗をしてた」
(窪地の朝の、熾火……)
カルヴァンは、薪を一本足した。
ルーシーには、ノーラのような火の魔法は使えない。見せられるのは、目の前の焚き火だけだ。石積みの隙間から火が見えるところまで、ノーラに顔を寄せてもらい、自分は火の前に膝をついた。
足したばかりの薪は、まだ炎に包まれきっていなかった。熱せられた木の端から、白っぽい煙が細く上がっている。炎も、さっきより一段高い。
「煙は、燃え残りです」
ルーシーは、足されたばかりの薪の、まだ燃えていない端をつかんで、ゆっくり引き抜いた。上に渡っていた薪が沈み、下から空気を吸っていた隙間が、一本ふさがる。
炎が、一段低くなった。揺れが収まり、白い煙の筋が細くなって、やがて見えなくなった。
ノーラは息を止めてそれを見ていた。それから、おそるおそる聞いた。
「それ、どれくらいで覚えたんですか」
「火を点けるのは、ずっと前からです。火の番は……八日前からです」
「……八日。八日で、それですか」
「八日もかかりました」
「八日……。わたし、八日前、何してたんだろう」
部屋の中で、ケスディアが小さく鼻を鳴らした。
しばらくして、ノーラがぽつりと言った。
「……わたし、魔力だけは多いって言われるんです」
ルーシーは少し迷ってから言った。
「私は、ギルドの器具に何も出ませんでした」
「……じゃあ、さっきの火は」
「火打ち石です」
ノーラは焚き火を見たまま、布を巻いた指を握ったり開いたりした。
「多いと、火が大きくなるんです。みんな、すごいって言うんですけど、自分たちのロープを燃やしてたら、すごくないですよね」
顔を上げて、まっすぐにルーシーを見た。
「あの……どうしたら、ルーシーみたいに、強くなれますか」
ルーシーは、困った。少し考えてから、大まじめに答えた。
「よく食べて、よく寝ることです」
ノーラは真剣な顔でうなずき、腰の袋から小さな帳面と炭の棒を取り出した。灯りを石積みの上に置いて、一字ずつ丁寧に書きつける。
よく食べて、よく寝る。
部屋の奥で、水筒の水を飲んでいたカルヴァンがむせた。
ノーラは何がおかしかったのかわからない顔で、帳面を開いたまま待っている。カルヴァンがようやく咳を止めて、口もとをぬぐった。
「……間違っては、いない」
ノーラがあわてて炭の棒を握り直した。
「火はな、待てる奴の言うことしか聞かん。魔力の多い奴が最初に覚えるのは、育つのを待つことだ。腹が減っていると、待てない。眠いと、待てない」
ノーラが書き終えるのを待ってから、カルヴァンは続けた。
「それから、毎日だ。親指の先ほどの火を、揺らさず、消さず、保て。大きくしようとするな。小さいまま、長くもたせろ」
ノーラは、親指の先ほど、と口の中で繰り返しながら書き、帳面を大事そうに袋へしまった。
「ありがとうございました。やってみます」
帰りかけて、ノーラは足を止めた。
「ダリルは、明日のうちに四層まで行くって言ってます。三層は、地図があるから一日で抜けられるって。……ピップは、何も言わないんですけど」
ノーラの目が、ルーシーの顔をうかがっていた。灰狼団の行き先を決めるのは、ダリルだ。
「下で火を使うときは、天井の低いところでは使わないでください。煙は、上からたまって下りてきます」
ノーラは唇をきゅっと結んで、うなずいた。
ルーシーは背嚢を開け、昼に半分にして戻しておいた黒パンを取り出した。石積みの隙間から差し出す。
「これ、三人で。少しですけど」
ノーラは両手で受け取り、もう一度深く頭を下げて、階段のほうへ戻っていった。小さな光が、柱のあいだを揺れながら遠ざかる。
(強くなるには、って。……ハンナに答えたのと、同じことを言ってしまった)
振り返ると、カルヴァンがルーシーの抜いた薪を拾って、炎の端へ戻していた。
「あとは、あの娘が毎日やるかどうかだ」
◇
夜番は、ルーシーとカルヴァンだった。三人が寝静まると、カルヴァンが縦穴の縁を見ておきたいと言った。
「私も、見たいと思っていました」
「なら、灯りはお前が持て」
カルヴァンはアイテムボックスから、指の長さほどに短くなった太い蝋燭を一本出して、ルーシーに渡した。
広間は暗かった。遠く、三層への階段のあたりに、小さな橙色の明かりが一つ見える。灰狼団の焚き火だろう。
石積みの陰にしゃがみ、火打ち石を打った。二度目で、赤い点が火口に移る。木くずで小さな炎にして蝋燭の芯へ移し、残りの木くずは靴の裏で踏み消した。蝋燭の炎は、親指の先ほどで立った。左の手のひらを丸めて、風から囲う。
縁の五歩手前で、二人は足を止めた。
カルヴァンは縁に歩み寄って膝をつき、右の手のひらを縁の石の上にそっと置いた。目を閉じる。
縦穴の中から、冷たい風がゆっくりと上がってきていた。蝋燭の炎が、穴から離れるほうへ傾いている。
長い時間だった。ルーシーは、蝋燭を持つ自分の手だけに気持ちを置いた。炎の大きさは決められない。決められるのは、手のほうだ。
カルヴァンが目を開け、腰のポーチに入れた指を、閉じて開いた。手のひらに、親指ほどのガラスの小瓶が載っている。荷札のない、あの小瓶だ。中には、街道のくぼみの縁の黒い土が一つまみ。
カルヴァンは小瓶を縁の石の上に置き、右の手のひらで、まず小瓶に、それから縁の石に触れた。何度か、それを繰り返す。
「似ている」
「何が、ですか」
「残り方だ。焚き火の灰と同じで、薪が同じでも、組む者が違えば積もり方が違う。街道の土と、この縁は、積もり方が似ている。……ただ、土と石だ。まだ、同じとは言えん」
ルーシーは蝋燭を囲ったまま、縁に近づいた。カルヴァンは、止めなかった。
縁の三歩手前で、足の裏に、あの浅さが来た。下ろしたかかとのまわりで、床石の継ぎ目の砂が一筋、すっと沈む。街道のくぼみの縁と、同じ種類の浅さだった。
けれど、何かが違う。もう一度、ゆっくりと右足を下ろした。
「……似てます。でも、向きが違う気がします。街道のは、下へ抜けていく感じでした。ここのは、下から持ち上がってくる感じです」
「線は、どこだ」
浅さが始まるところで、つま先で床を指した。カルヴァンは短剣を抜き、その床石の端に、刃先で短い線を一本刻んだ。縁を回りこんでもう一か所でも確かめさせ、そこにも刻む。二本の線は、縁からほとんど同じ、三歩の距離にあった。
「明日、カイゼルにも見せる」
カルヴァンは縁の模様の溝に短剣の刃先を当てて、こするように削った。灰色の粉と、爪の先ほどのかけらを、別の空の小瓶に入れて栓をする。
そのとき、蝋燭の炎が揺れた。
とっさに自分の手を見た。震えていない。炎の大きさも、変わっていない。
変わったのは、傾く向きだった。
さっきまで穴から離れるほうへ傾いていた炎の先が、今は、穴のほうへ傾いている。下から上がってきていた冷たい風が、止まっていた。代わりに、ルーシーの背中のほうから、広間の空気が穴の中へ、ゆっくりと吸いこまれていく。
カルヴァンが顔を上げた。
穴の奥のずっと下から、かすかな音が上がってきていた。空気が細い隙間を通り抜けていくような、長く低いうなり。息を、ゆっくりと吸いこむときの音に似ていた。
ルーシーは蝋燭を囲ったまま、動かなかった。炎は傾いたまま、大きさを変えない。
光の中に浮いていた細かい埃が、いっせいに穴のほうへ流れはじめた。光の粒が縁を越え、風に運ばれる雪のように、暗がりへ吸いこまれていく。怖いより先に、きれいだと思ってしまった。
二人は黙ったまま、穴の暗がりのほうへ傾いていく小さな炎を見つめていた。
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