第84話 竜哭の遺跡⑥ 半歩のずれ
おはようございます。
前回は、二層の広間での大群と、灰狼団の救出。今回は広間の奥へ。「入れたいときは、入れろ」の続きの話です。
灰狼団の足音が消えてしばらくしても、ルーシーは柱の向こうの暗がりから目を離せなかった。手の中には、口をつけていない黒パンが一つ残っている。半分に割って片方を背嚢に戻し、もう片方だけを食べた。
「あんた、半分戻したわね」
水筒をしまいながら、セリナが言った。
「……夜の分です」
「えらいじゃない」
(ほめられたのか、からかわれたのか)
カイゼルが立ち上がり、盾を左腕に通した。
「午後は、スカーヴァーが来た方向を見る。出どころの顔だけ見て、戻る」
「来たのは、広間の左の奥だ」
弦を指で弾きながら、ケスディアが言った。
「午前に引いた群れも、灰狼団を囲んでた群れも、左の奥へ散った」
カルヴァンが、まだ白い二層の紙に、下りてきた階段と柱の列と、灰狼団を助けた柱廊を、炭の棒で手早く書き入れた。
◇
左の奥へ進むほど、床に落とし物が増えていった。かじられた革のきれはし、ほつれた布、歯形のついた木の柄。ケスディアが黙って指をさし、カイゼルがうなずく。
百歩ほど進んだところで、カイゼルが手を上げた。
床に、丸い穴が空いていた。大人が四、五人、手をつないで輪になれるほどの広さで、膝の高さの石の縁が囲んでいる。縁にも、柱と同じすり減った模様。穴の中は、縁から少し下までしか見えない。そこから先は、ただ暗い。井戸の口に顔を寄せたときのような冷たい空気が、ゆっくりと上がってきていた。松明の炎が、穴から天井のほうへ傾く。
「縦穴か。縁には寄るな。縁の石に、手をつくな」
カルヴァンが小石を拾い、穴の真ん中へ放った。
一つ、二つ、三つ、四つ。五つ目を数えかけたところで、遠い底から、かすかに乾いた音が一つ返ってきた。
「深いな」
「……今の、五つ?」
セリナが、穴から一歩離れながら聞いた。
「五つ目の途中です」
「数えなくていいわよ、そういうのは」
「下の層を、一つ二つは抜けてるだろ。風も、下から来てる」
ケスディアが言った。カルヴァンは地図に丸を書き、横に小さく「風、上へ」と書き足した。
縁から大きく離れて回りこむと、広間の左の壁沿いにも、天井の低い柱廊が続いていた。太い柱の外側に、細い飾りの柱が等しい間で並んでいる。飾りの柱は、天井に届いていない。上の端と天井のあいだに、指一本ほどの隙間があった。
柱廊の入口で、ケスディアが鼻にしわを寄せた。獣の匂いと、腐った肉の匂いと、古い焚き火の煙。
カイゼルが柱の陰から奥をのぞいた。ルーシーもその後ろから、そっとのぞく。
奥は、行き止まりの広い部屋だった。骨が散らばり、古い布や革のきれはしが巣のように積み上げてある。その上に、ゴブリンがいた。寝そべっているもの、骨をかじっているもの、棍棒を膝にのせて座っているもの。十を越え、十五を越え、二十を越えたところで、数えるのをやめた。天井の暗がりにはスカーヴァーが張りついていて、どちらも、相手をいないもののように扱っていた。
カイゼルが、後ろへ下がれと手で合図した。
そのとき、奥の一体が顔を上げた。鼻をひくつかせ、松明の届かない柱の陰を、まっすぐに見る。甲高い声で鳴いた。
部屋じゅうのゴブリンが、いっせいに立ち上がった。
◇
ゴブリンの群れが、柱廊の奥から押し寄せてきた。
カイゼルは、盾二枚ぶんの幅しかない柱廊の入口に盾を構えて、そこを動かなかった。並びは、ゆうべ床に引いた線のとおり。
「後ろ!」
カルヴァンの声だった。
広間のほうから、別の七、八体が走ってきていた。柱廊の外側を、柱の列に沿って回りこんできたのだ。
前と後ろから、挟まれた。
「右」
「セリナ、寄れ」
「ケスディア、二」
「どっちの二だ!」
「左から二!」
ケスディアの矢が、左から二体目の喉に入った。
ルーシーは真ん中で、盾の脇から入りこもうとする一体ごとに剣先を置き、振り上げられた手首を剣の腹で払った。斬るより、払う。剣を鳴らさないためだ。
後ろが、薄い。後ろの群れとセリナのあいだにいるのは、松明と短剣しか持たないカルヴァンだけだった。先頭の一体が、松明の炎をよけて、柱の反対側からセリナへ回りこんでいく。棍棒を振り上げている。距離は、四歩。
胸の奥の扉を、一段開けた。
周りが、半拍遅れる。棍棒が、頂点で止まりかけている。
床石を蹴った。
乾いた床が、靴底を逃がさなかった。
四歩と測った間合いが、三歩目で尽きる。
棍棒を握る腕を斬った。けれど、体は半歩先へ出た。
右肩が、柱を打った。
鈍い音。体が柱から跳ね返され、床に片膝をついた。肩から腕へ、重い痛みが抜けていく。
柱は、跳ね返らなかった。
根もとの古いひびが、口を開けた。柱は、肩が押した向きのまま、ゆっくりと傾いていく。上の端が天井をこすり、砂がぱらぱらと降った。
(止まれ――止まらない)
傾きが、途中から急に速くなった。
柱が、倒れた。
轟音が、広間じゅうに響いた。柱は床石の上で三つに割れ、破片が床を転がっていく。その先には、誰もいない。押した向きは、仲間のいる側と反対だった。それでも、背中が冷たくなった。
割れ口から、白い粉塵が煙のように吹き出した。カイゼルが「口」と言うより早く、全員が袖で口を覆っていた。午前の煙を、誰の体もまだ覚えている。
ゴブリンたちが、止まっていた。前の群れも、後ろの群れも、一瞬だけ。
それから、倒れた音が返ってきた。低い天井と床のあいだで何度も跳ね返り、広間の高い暗がりへ抜けていく。広間の遠くで、別の鳴き声が一つ、二つ、三つ。
「下がれ」
カイゼルの声で、扉を閉めた。二つ数えるあいだに、周りの動きが元の速さに戻る。右の肩が、どくどくと脈を打っていた。
立ち上がり、自分が抜けたせいで空いていた、カイゼルの右後ろへ戻った。
◇
寄ってきた群れで、数はさらに増えた。前は柱廊の奥から、後ろは柱のあいだから、途切れずに押してくる。カイゼルの盾が、続けざまに鳴った。盾の縁の下を狙って、低く刃を突き出してくるものもいる。
鳴き声のたびに、群れが動いた。鳴いて、寄る。鳴いて、また寄る。
「指揮が二。奥の右と、後ろの左」
「撃て」
ケスディアの矢が、骨の首飾りをつけて鳴いていた奥の一体の喉に入った。
二本目は、来ない。後ろの指揮役とのあいだに、粉塵がまだ白い幕になって垂れていた。
「見えねえ!」
「見えなくていい。……ルーシー」
ルーシーは体を半分だけ後ろへ開き、剣先を向けた。セリナへ寄ってきていた後ろの群れが、剣先を避けて、三つに割れた柱の破片のほうへ曲がり、詰まった。
前の群れは、鳴き声が止んだところで、もうばらけていた。押す力がなくなり、柱廊の奥へ逃げていく。それを見て、破片のあいだで詰まっていた後ろの群れも、指揮役の声を置き去りにして、暗がりへ散った。
舞い上がっていた白い粉塵が、松明の光の中をゆっくりと下りてくる。
カイゼルが盾を下ろした。
左腕の籠手の、手首に近いところが、ぱっくりと裂けていた。裂け目から血があふれ、指先から床へ落ちている。
「カイゼル」
セリナがすぐに駆け寄った。
「籠手を外して。早く」
籠手の下の前腕に、深い切り傷が斜めに走っていた。盾の縁の下から突き出された刃が、継ぎ目を裂いて入ったのだ。いつ受けたのか、ルーシーにはわからなかった。柱に跳ね返されて膝をついていた、あの数呼吸のあいだだったのかもしれない。
セリナは床に膝をつき、カイゼルの前腕を自分の膝の上に載せた。布で血をぬぐい、両手のひらで傷を上下から包む。目を閉じる。
「囲め」
治療を受けながら、カイゼルが言った。
「背中は見えないから。頼んだわよ」
目を閉じたまま、セリナが言った。
「はい。一歩も、出ません」
ルーシーはセリナの背中側に立った。ケスディアは右、カルヴァンは左。
さっきは、一歩が深すぎた。今は、出ない。逃げ遅れの一体が、セリナの背中を狙って戻ってきた。ルーシーの剣先を見て、暗がりへ引き返していく。剣は、一度も鳴らなかった。
百を数えても、セリナは目を開けなかった。額の汗が、顎の先から落ちる。目を開けたとき、カイゼルの前腕の傷は、赤い一本の線になってふさがっていた。
「指、動かして」
カイゼルが指を一本ずつ握り、開いた。全部、動く。
「中の筋まで切れてた。つないだけど、今日はその腕で盾を受けないで。明日の朝までは、引きつると思う」
「わかった」
セリナは床に座りこんだ。ルーシーが水筒を差し出すと、三口飲んで返してきた。手が、震えていた。
◇
倒れた柱のそばで、ルーシーは割れた根もとを見下ろしていた。
割れ口の半分は、何年も前から割れていたように黒ずみ、土埃がこびりついている。残りの半分だけが、真新しい白。ルーシーの肩が割ったのは、白い半分だった。
カルヴァンが隣に来て、柱が立っていたところの天井を、松明で照らした。上の端がこすった白い傷が一本あるだけで、ひびも、落ちかけた石もない。
「飾りだ。天井は支えていない」
松明を下ろし、靴の先で床石を一度叩く。
「入れたのは、合ってた。お前が行かなければ、セリナのところに一体届いてた。……測ったのが、古い体だ」
「……床も、昨日の苔とは逆でした。滑らなくて、余りました」
「両方だ。次は、入れた体で、先に測れ」
ルーシーは右手を見下ろした。指を握る。開く。
(柱で、よかった)
次に半歩深く入ったとき、そこにいるのが仲間だったら。握った指を、ゆっくりと開いた。
「肩は」
「動きます。痛いですけど」
右腕をゆっくり回してみせると、座りこんだままのセリナが、こちらをにらんだ。
「今の、私にも言いなさいよ」
「セリナ。言います。右の肩を、柱にぶつけました。動きます」
「聞こえてたわよ、あの音。……あとで見る。今は、手がいっぱい」
カイゼルは少し離れたところで、裂けた籠手を手に持っていた。
「その傷、私が柱のところにいたときですか」
「盾の下は、俺の受け持ちだ」
カイゼルはそれ以上言わず、籠手の留め紐を結んだ。
腰の剣に手をやった。柱に当たったときも、手は剣を離さなかった。剣は、勢いの乗った体ごと、柱へ運ばれていた。
剣を抜き、誰もいないほうへ向けて、軽く一度振ってみる。力は入れない。手首を返して、空気を切るだけ。
しゃり、と音がした。
今朝までの、指先でやっとわかるがたつきとは違う。柄の中で、鉄と鉄がこすれ合う音だった。
剣を止めたまま、もう一度、そっと手首を返した。
しゃり。
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