第83話 竜哭の遺跡⑤ 声を張る
おはようございます。
前回は、遺跡での初めての夜と、床の下から来る震え。今回は二層へ。ルーシーが、仲間に向かって声を張ります。
竜哭の遺跡の二層へ下りる階段は、大人が二人並べるほどの幅の、すり減った石の段だった。段の真ん中だけが、浅くくぼんでいる。先頭のカイゼルが盾の下の縁で一段ずつ足もとを確かめ、ルーシーはゆうべ決めたとおり、その右斜め後ろを同じ速さで下りた。
下から上がってくる空気には、一層の苔の湿り気がなかった。乾いた石と、古い埃の匂いがする。
最後の段を下りきると、目の前が急に広くなった。
柱の広間だった。大人が二人で腕を回してやっと届くほどの石の柱が、左右に何列も並んでいる。柱と柱のあいだは、馬車が通れるほど空いていた。天井は見えない。松明の光は柱の中ほどまでしか届かず、その上は、どこまでも暗い。足音が柱に跳ね返って、遅れて遠くから戻ってきた。
床石は乾いていて、苔はない。靴底が、しっかりと石をつかんだ。
「広すぎる。どこから来るか、わからねえな」
ケスディアが、柱の上の暗がりを見上げて言った。
「わからないなら、全部から来ると思っとけ」
カルヴァンが、松明を高く掲げ直した。
カイゼルは入口で足を止めて柱の列を見渡し、それから、ルーシーにだけ聞こえる声で言った。
「ここに外の目はない。入れたいときは、入れろ」
「……はい」
(任されるほうが、怖い)
カイゼルは盾を前へ回した。
◇
最初に気づいたのは、耳だった。
二十歩ほど進んだところで、頭の上の暗がりから、かりかりという細かい音が降ってきた。小さな爪が何十も、いっせいに石を引っかいている。右の柱からも、左からも、前からも。
カイゼルが、右手を肩の高さに上げた。
柱の中ほど、松明の光が届くぎりぎりに、影が現れた。灰色がかった硬い毛の、ずんぐりした獣だ。短い脚の爪で柱の表面をつかみ、頭を下にして這い下りてくる。柱という柱に、同じ影が張りついていた。
(カルディナの浅層の、灰色の)
「スカーヴァーだ。斬るな。引きつけるな。流すだけだ」
カイゼルの声と同時に、獣たちが床に落ちはじめた。ぱたぱたと軽い音を立てて着地し、床すれすれを走ってくる。
「数えるか」
「数えるな。きりがない」
ケスディアの問いに、カイゼルが答えた。群れの後ろには、背の低いゴブリンが三体、身をかがめてついてきていた。
ルーシーは右の二本の柱のあいだに立ち、剣先を膝の高さに斜めに置いた。
剣先の手前で、流れが割れた。割れた流れは柱のあいだを避けて、右の奥へそれていく。浅層のときと同じで、ルーシーの足もとには一匹も寄ってこない。
「あんたの前だけ、避けてくわね」
後ろで、セリナが言った。
「さあ」
(浅層でも、レインハルトに同じことを聞かれた。……答えは、まだ持っていない)
左では、カイゼルの盾がゴブリンの棍棒を受け、返す剣で手首を打っていた。落ちた棍棒に、すぐにスカーヴァーが群がって、握りの革をかじりはじめる。逃げていくゴブリンの足には、一匹も向かわない。
右の奥の高いところで、短く鋭い鳴き声が一つ聞こえた。
右へそれていた群れの一部が、急に向きを変えた。柱の外側を回りこみ、後ろのケスディアとセリナへ抜けようとしている。十ほど。
見上げる。三本目の柱のてっぺん近くで、小さな光が二つ、松明の火を返していた。もう一度鳴くと、床の群れがまた向きを変えた。
口が、先に開いていた。
「右の柱から十。セリナ、薬袋を胸に。指示役は右奥、三本目の柱の上です」
自分の声が、柱に跳ね返って広間に響いた。
(……今の、私? 全部、言った)
後ろで、セリナが腰の薬袋を外し、両腕で胸に抱えこむ気配がした。
「ケスディア。……撃て」
カイゼルの声に、ケスディアが腰から上を後ろへ反らせた。弦は、頬の手前までしか引かれていない。光る二つの点を、一呼吸だけ見つめる。
弦が鳴った。
柱のてっぺんの光が消え、小さな体が、石の表面を転がり落ちてきた。床で一度跳ねて、動かなくなる。
「当たった?」
「当てた」
セリナの問いに、ケスディアは次の矢を番えながら答えた。
回りこもうとしていた十匹が、行き先を失って渦を巻いた。一つだった流れが、いくつもの小さな渦に崩れていく。
その中の一匹が、ルーシーの背中側の柱から、真下へ飛び降りた。
左の前腕に、重さ。
獣が、籠手にしがみついていた。黄色い細い前歯を、革に突き立てている。欲しいのは腕ではない。籠手の革だ。歯が革を削る音が、骨に響いた。
「ルーシー、腕!」
「動きません。そのままで」
振り払えば、柱のあいだから一歩出る。出れば、ここに穴が空く。穴の向こうには、薬袋を抱えたセリナがいる。
動かないことに決めた。左の前腕に、寄せる。
一呼吸。まだ足りない。歯が、革の半分まで入ってきた。
二呼吸。前腕の中身が、詰まりはじめる。
三呼吸。
かちり。
歯の先が、皮一枚のところで止まっていた。獣が顎に力をこめると、前歯の先が欠けて、かけらが床に散った。獣は籠手から口を離して床に落ち、首を振って、暗がりへ逃げていった。
膝が抜けた。右の肩を柱に預け、剣先だけは下げずに残す。その前の空きを、半歩右へずれたカイゼルの盾がふさいだ。
「立てるか」
カイゼルは前を向いたまま聞いた。
「……三呼吸、ください」
「やる」
カイゼルは盾をそこに置いたまま、ルーシーのほうは一度も見なかった。
三呼吸かけて、寄せた温かさをほどく。前腕の硬さが抜けるのと入れかわりに、脚に力が戻ってきた。立ち上がったときには、盾はもう元の位置へ戻っていた。
左の籠手には、細い歯の跡が三つ並んでいた。
◇
群れは指示役を失ってから数を減らし、やがて広間の奥の暗がりへ引いていった。
カイゼルが盾を下ろしかけたとき、右の柱の列の向こうから、咳きこむ声が聞こえた。一人ではない。
広間の右の端に、天井の低い柱廊が続いていた。その奥で、橙色の光が揺れている。
光の下に、人影が三つ。剣を振り回すダリル。弓を抱えて咳きこむピップ。両手を前に突き出したノーラ。そのまわりを、別のスカーヴァーの群れが取り巻いて、袋に飛びつき、靴の革をかじっていた。ノーラの両手の炎は、人の頭ほどにふくらんでは揺れている。
ダリルの袋に巻いた綱が、燃えていた。脂を染ませた綱から黒い煙が立ち、低い天井に当たって横へ広がる。行き場のない煙が、厚い層になって、上から下りてくる。三人の頭は、もうその層のすぐ下にあった。ピップが、膝をつく。
(獣が欲しいのは、人じゃない。袋だ)
「火を止めて。袋を捨てて離れて。煙が下ります、三人とも低く!」
ノーラがはっとこちらを見た。両手の炎が、迷うように揺れる。
「でも、止めたら、寄ってきます!」
「寄ってくるのは、袋にです! その子たちが欲しいのは、袋です!」
「近寄るな! こいつらは、俺たちが――」
ダリルが剣を振り回しながら叫び、その声が咳に呑まれた。炎の向こうで、ピップがまた咳きこみ、床に両手をついた。
「詰める。ルーシー、前。ケスディアは柱の陰から。カルヴァン、火を下げろ。全員、袖で口を覆え」
カイゼルの声で、五人は柱廊へ進んだ。カルヴァンが松明を腰の高さまで下げる。焦げた脂の匂いが鼻を刺し、目の奥がちりちりと痛んだ。
先にダリルが動いた。燃えている自分の袋の肩紐を、剣で断ち切る。ピップとノーラも、袋を背中から落とした。ノーラの炎が、ふっと消える。
獣たちが、いっせいに袋へ向かった。燃えている綱の袋だけは避け、残りの二つに、灰色の毛が山のように重なっていく。三人と五人のあいだを、袋へ向かう獣が川のように横切った。
ルーシーは剣を返し、平たい腹で、床をなでるように流れの端を押し分けた。獣は軽い。当たった何匹かは、怒りもせずに転がって、袋のほうへ走っていく。反対側へも、もう一度。人が一人這って通れるほどの筋ができた。
その筋の口に、剣の腹を置いた。ここから先へは、入れない。
「こっちです! 低いまま!」
煙の下で、三人が這いつくばった。最初にノーラ。涙を流して、膝と肘で這ってくる。その後ろにピップ。最後に、ダリルが続く。三人の頭の上、手を伸ばせば届くところまで、黒い層が下りてきていた。
途中で、ピップが止まった。咳きこんだ拍子に、頭を上げかけたのだ。
「ピップ、頭を下げて!」
手を伸ばせば届く距離だった。けれど、ここを離れれば、空けた筋に獣が戻る。ルーシーは剣の腹を床に置いたまま、足を動かさなかった。
「下げろ、ピップ! 頭だ!」
後ろから、ダリルがピップの腰を押した。ピップは額を床にこすりつけるように頭を下げ、また這い出した。
ノーラが、ルーシーの足もとを抜けた。ピップが抜けた。ダリルが抜けた瞬間、ルーシーは一歩下がって、筋の口をふさいだ。
広間へ戻って振り返ると、柱廊からあふれた煙は、高い暗がりへ昇りながら薄くなっていった。
誰も倒れていない。誰も血を流していない。ピップは仰向けで、胸を大きく上下させていた。ダリルだけが、立ったまま柱廊の奥をにらんでいる。
「……鍋が」
「鍋は、また買える」
カイゼルが言った。ダリルは返事をしなかった。
床に座りこんだノーラが、咳の合間に顔を上げた。
「あ、ありが……」
「しゃべらないで。吸って、吐いて。ゆっくり」
セリナがノーラの背中に手を当てた。
ルーシーは袖を口から離し、ひとつ咳をした。喉の奥が、煙と、叫んだせいで、ざらざらしていた。
「お前も、吸って吐け」
カルヴァンが、水筒を投げてよこした。
◇
昼の休みは、柱廊からいちばん遠い、広間の左の壁ぎわでとった。セリナは灰狼団の三人を順に座らせて、喉と目を見ていく。ノーラの指先が赤くなっていたが、魔力は使わず、膏薬を薄く塗って布を巻いただけだった。
「やけどは浅いわ。咳は、しばらく続くけど」
それからルーシーの前に来て、外させた左の籠手を裏返した。内側の革まで、細い歯の跡が三つ通っている。その下の前腕には、赤い点さえない。
「……穴、空いてるわよね、これ」
「はい。腕のほうを、固くしました」
「固く」
「言いました。治っていても、言うので」
セリナは籠手を裏返したまま、小さく息を吐いた。
「……よろしい」
水筒の栓を閉めながら、カルヴァンが言った。
「三呼吸。動かずに、もったな」
「膝は、抜けました」
「抜けても、穴は空けなかった」
カイゼルは何も言わずに、盾の革紐を締め直していた。
干し肉をかじっていると、ケスディアが、自分の干し肉の先でこちらを指した。
「お前、戦ってる最中に、あんなに長く喋れたのか」
「前は、言葉を探しているうちに、終わっていたので」
「長い」
干し肉の先が、右の柱の列へ向いた。
「『右の柱から十』は、いい。『指示役は右奥、三本目の柱の上です』は、長い。俺が撃つのに要るのは、『右奥、三本目、上』だけだ」
「です、は」
「要らない。撃ってから聞く」
「では、撃ったあとで足します」
「足すな」
セリナが吹き出した。
「後払いなのね、あんたの『です』」
(です、の後払い。……前の職場では、一度も通らなかった決裁だ)
ケスディアは干し肉を口に押しこみ、噛みながら言い足した。
「それと、数を言うなら、どっちから数えたかも言え。右からか、左からか」
「はい」
灰狼団のダリルが立ち上がった。二十歳になるかならないかの、肩幅の広い若者だ。頬に煤がつき、髪の先が焦げている。カイゼルの前まで来ると、まっすぐに頭を下げた。
「助かった。礼を言う」
それから、ルーシーにも小さく頭を下げた。ルーシーもパンを持ったまま返した。
「袋は」
カイゼルが聞いた。
「二つは、齧られた。食い物も、ほとんど持っていかれた。燃えたほうには、綱と鍋が入ってた」
他人事のような言い方だった。
「でも、剣はある。弓もある。俺たちは先に行く」
ピップがダリルの顔を見上げた。ノーラは膝の上で、布を巻いた指を握っている。
「決めるのはお前だ」
カイゼルは、それだけ言った。
ダリルはうなずいて、仲間のほうへ戻った。ノーラが立ち上がり、ルーシーに深く頭を下げる。何か言いたそうに口を開いたが、ダリルに呼ばれて、そのまま背を向けた。ピップは最後まで、ルーシーの手の中のパンを見ていた。
ルーシーはパンを差し出しかけて、引っこめた。
(一つじゃ、帰れない。……帰れる気にだけ、させてしまう)
迷っているうちに、ピップはダリルに肩を叩かれて、向きを変えていた。
三人は、広間の奥の、三層への階段のほうへ急いだ。三つの背中はすぐに柱の向こうへ消え、ピップの止まらない咳だけが、しばらく柱に跳ね返っていた。
帰り道の分を詰めた袋は、もう、あの三人の誰の背中にもなかった。




