第82話 竜哭の遺跡④ 床の下の声
こんばんは。
日間ランキング入り(異世界転生/転移〔連載中〕73位、総合244位)のお礼の、今日3話目の投稿です。応援、本当にありがとうございます。
前回は、減らない群れと、壁の新しい裂け目。今回は遺跡で初めての野営です。ルーシーが熾す火と、夜番の静かな時間をどうぞ。
裂け目から流れてくる気配は、通路を一つ曲がったところで、もう届かなくなった。
何も追ってこないのを確かめてから、カイゼルはようやく前を向いた。カルヴァンが松明を掲げたまま、地図の写しを片手で広げる。
「二層への階段は、一層のいちばん奥だ。南の回廊を回れば、北東の前は通らずにすむ。遠くなるが」
「それでいい」
南の回廊の床は、ゴブリンの足で踏み荒らされ、厚い苔がところどころめくれていた。その踏み跡が、回廊の半ばでふいに途切れた。
前の床に、大きな石が一枚、回廊の幅いっぱいに敷かれている。長さは大股で五歩ほど。その一枚の上だけ、苔が一面にそろって厚い。手前はあれほど荒れているのに、踏み跡が一本もなかった。
カイゼルの右足が、その石の手前で上がった。
「カイゼル、その石――」
声のほうが先に出た。上げたカイゼルの足が、下りなかった。
「誰も、踏んでいません」
カイゼルは足を下ろさず、ゆっくりと引いて、元の場所へ戻した。
ルーシーは石の縁に膝をつき、腰の小刀を抜いた。柄頭で苔の上から叩いても、ぼそ、ぼそ、と苔が音を吸うだけだ。刃で苔を手のひらほど削り、むき出しの石を叩く。
こん。硬く、澄んだ音。
手のひら一枚ぶん右へずれて叩く。ごと、と鈍い音。左も、ごと。真ん中に戻ると、こん。その先も、こん。澄んだ音は、進む向きにまっすぐ一本だけ続いていた。
(浅層で、レインハルトが壁に白墨で数を書いていた。……白墨、借りてくればよかった)
後ろから、カルヴァンが松明を寄せた。
「落とし床だ。真ん中に軸が通っている」
「線の上を行く」
カイゼルが言った。
ルーシーは削った跡の真ん中に右足を置き、そっと体を乗せた。石は動かない。先の苔を削っては叩き、澄んだ音のしたところに次の足を置く。五歩で、向こうの端に着いた。振り返ると、厚い苔の上に、手のひらほどの黒い印が一列に並んでいた。
「一人ずつ。足は、黒い印の上だけに置け」
最初はセリナだった。ローブの裾をたくし上げ、一つ目の印に、そろそろと爪先を下ろす。
「落ちたら、一生恨むわよ」
(一生は、困る)
「真ん中だけです。真ん中だけ、踏んでください」
「わかってるわよ。……わかってるけど、言って」
二つ目、三つ目。セリナが渡りきると、次のケスディアは、印をほとんど見なかった。両腕を横に広げて、すたすたと五歩。渡りきって腕を下ろし、何でもない顔をする。
「今の腕、何」
「釣り合いだ」
「鳥みたいだったわよ」
カルヴァンは松明を体の真ん中に立てて、一つずつ確かめるように渡ってきた。
最後が、カイゼルだった。盾を腕から外して胸に抱え、一歩ごとに足を止める。印の真ん中に、かかとから静かに体重を下ろしていく。誰よりも遅い。
セリナが腕を組んだ。
「一番危ないの、あなたじゃない?」
「知ってる」
四つ目の印にカイゼルの足が下りたとき、後ろの暗がりで、苔を蹴る足音が三つ起こった。まっすぐこちらへ走ってくる。
カイゼルは急がなかった。五つ目に足を置き、向こうの床へ下りてから、盾を後ろへ向けた。
飛びこんできたゴブリンが三体、黒い印の列には目もくれず、その左側へ固まって踏みこんだ。
石が、ぐらりと傾いた。沈んだ端と壁のあいだに黒い溝が口を開け、三体は苔ごと滑り落ちて、短い声を残して消えた。傾いた石の上で、黒い印の列だけが、同じ高さのまま並んでいた。
石はゆっくりと元へ戻り、溝を隠した。
「古くからここにいる奴なら、知ってる。知らなかったのは、新しい奴らだ」
カルヴァンが言った。セリナが、指を一本立てた。
「今日の見つけ物は、ルーシーの一ね」
「苔なら、俺も見てた。言うのが遅かっただけだ」
「言わなかったら、数えないわよ」
ケスディアは舌打ちをして、矢羽を指でなぞった。
(いつのまにか、数えられることになっている)
十一本目の松明が手の長さほどに短くなったころ、一層のいちばん奥の小部屋に着いた。燃え尽きた松明が一本で、およそ一時間。日の届かない遺跡の中で、カルヴァンはそれで時間を数えていた。
入口の両脇の石には、長い線がうねりながら下へ向かう模様が彫られていた。何の形なのかは、わからない。部屋は昼の小部屋より広く、扉はない。入口の向かいの壁の先に、二層への階段の口があると、地図には描いてある。
カルヴァンは松明を掲げて四隅を回り、三つ目の隅で足を止めた。炎が天井の隅へ引かれ、煙が、石の継ぎ目の割れ目に吸いこまれていく。
「ここから抜ける。火は、この下で焚く。大きくはしない」
隅の下の苔をこそげ落として乾いた石を出すと、カルヴァンは腰のポーチから、よく乾いた細い薪の束を一つ出した。紐をほどいて、ルーシーの前へ押しやる。
「熾せ」
◇
ルーシーは、薪の束の前に膝をついた。
セリナが鍋を抱えたまま、少し離れて見ている。入口の脇のケスディアは回廊のほうを向いていたが、背中がこちらの気配を聞いていた。窪地の朝に、熾火を吹き散らしたのを、二人とも覚えているのだ。
削りくずから細い枝の順に組み、いちばん上に、手首ほどの薪を二本渡す。腰の袋から、家から持ってきた自分の火打ち石を出した。倉庫のおかみに習ったとおりに、離れの竈で毎朝打っている石だ。その角に、ハロルドに分けてもらった焦がし布の火口を、親指で押さえる。
しゃっ。
火花が散り、黒い布の上に、針の先ほどの赤い点が灯った。家の竈で打つときより、火花が少ない。少なくていい。
火口を、組んだ薪のいちばん下へ差し入れる。顔は寄せすぎない。吐く息を細く短くして、赤い点の根もとにだけ送った。
削りくずの端が黒く縮れて、ふっと小さな炎が立った。炎が、焚きつけに移る。
(点いた――)
胸の奥で弾んだものが、次の息に乗ろうとした。
(喜ぶのは、燃料)
弾んだ分を、吐く息と一緒に、腹の底へ落とした。外へ吹く息は、細いまま。
焚きつけの火は、あおられずに、自分の速さで燃え広がっていった。細い枝に移り、指ほどの枝に移り、上に渡した薪の下側を、ゆっくりと舐めはじめる。手のひらを広げたくらいの大きさで、炎はそれ以上大きくならなかった。煙は細い筋になって、天井の隅の割れ目へ吸いこまれていく。
乾いた木の燃える匂いが、部屋に広がった。苔と濡れた石の匂いしかしなかった一日の終わりに、それはずいぶん懐かしかった。
セリナが鍋を抱えたまま、ぽつりと言った。
「……今日は、吹き飛ばさないのね」
「今日は、腹に落としました」
「何を」
「喜んだ分を」
セリナは、わかったような、わからないような顔で、鍋をカルヴァンに渡した。カルヴァンはルーシーが背負ってきた水樽の水を注いで、火の上に吊るした。炎の大きさを一度見て、薪は足さずに、鍋の脇に腰を下ろす。
入口の脇で、ケスディアが、膝の上の弓を焚き火から遠いほうへ置き直した。それから、何かに気づいたように、元の場所へ戻した。
鍋が煮えるのを待つあいだ、セリナが両手を火に向けて広げた。カイゼルも籠手を外して、冷えた指を一本ずつ火にかざしている。五人の影が、入口の彫り物の上で、同じように揺れていた。
◇
夕食の麦の粥のあいだ、裂け目の話は一度だけ出た。
「わからないものは、わからないまま記録係に渡す」
カイゼルがそう言って、それで終わった。もう一度口を開いたのは、セリナだった。
「灰狼団の三人、あの裂け目の前を通ってないといいけど」
「矢を拾ったのは、入口から一時間の回廊だ。北東じゃない」
ケスディアが、矢筒の脇の灰色の矢に目をやった。
前半の見張りは、ルーシーとカイゼルだった。三人が毛布にくるまると、カイゼルは入口の脇に回廊を向いて座り、ルーシーは焚き火と入口の両方が見える斜め後ろに座った。
しばらくして、カイゼルが回廊を見たまま聞いた。
「今日、何回振った」
「振ったのは、十四回です。振らずに剣先を置いたのは、二十二回でした」
「数えてたか」
「数えないと、見ていられないので」
カイゼルの肩が、一度だけ揺れた。森で、カイゼル自身が言った言葉だった。
「明日の二層は、広い。地図の写しに、柱が何本も描いてある」
カイゼルは焚き火の脇から燃えさしの枝を一本取り、黒い先で床の石に線を引いた。自分の位置。その後ろに、ルーシー。さらに後ろに、ケスディア。
「広いところでは、ケスディアの矢が使える。だが、俺の真後ろにお前がいると、ケスディアからは、俺とお前が一列に見える。射つ筋がふさがる」
燃えさしの先が、ルーシーの印を一つ右へずらした。
「二層では、俺の右後ろだ。俺とお前の間に、射つ筋を一本通す。セリナは、ケスディアの左」
「わかりました」
「お前の右は、お前が見ろ。見えたものは、言え」
「はい」
ルーシーは床の線を頭の中に写してから、膝の上に剣を置いた。柄の革巻きを端からほどく。革には、四本の指の腹の形が浅く沈み、汗を吸っては乾いて、硬くなっていた。いつのまに、こんな形がついたのだろう。革を外すと、芯の木が出てきた。指の当たるところだけ、へこんでいる。
剣を逆さに持ち、刃の根もとと柄の境目をつまんで、そっと左右に揺すった。
動いた。指先でやっとわかるくらいの、がたつき。
「刃の根もとが、少し動きます」
カイゼルが初めてこちらを振り返った。剣の根もとを見て、また回廊へ顔を戻す。
「茎の留めだ」
「なかご、ですか」
「刃の、柄に差しこんである所だ。留めが緩むと、振るたびに柄の中で鳴る」
少し間を置いて、カイゼルは言った。
「鳴ってたな」
(手のひらでしか、聞こえないと思っていた)
「出るまでは持たせろ」
「はい」
背嚢から予備の麻紐を出した。革巻きを柄に戻し、その上から麻紐を、隙間を空けずに巻いていく。刃の根もとに近いところは、とくに念入りに。引っぱらずに、寄せる。ハロルドに靴の糸で教わったやり方だ。
巻き終えて握ると、紐の目が手のひらに食いこんだ。悪くはない。けれど軽く揺すると、がたつきは、まだ指先に残っていた。
◇
夜が深くなり、明かりは隅の焚き火だけになった。薪を足すときは、炎の大きさを一度見てから、細いものを一本だけ。眠っている三人の寝息が、規則正しく続いている。
ルーシーは両足の裏を床にぴったりつけて座っていた。見張りのときは、いつもそうする。足の裏でも、外を聞くためだ。
その足の裏に、何かが来た。
薪が崩れたのかと思った。崩れていない。
床の下からだった。低い、とても低い震えが、石の奥から上がってくる。耳には何も聞こえない。焚き火の脇の椀の水面に、細い輪が一つ立って、消えた。
次を待った。来た。深く吸って、ゆっくり吐くくらいの間を置いて、また来る。強くなって、弱くなって、消える。床の下で、何か大きなものが、ゆっくりと息をしているようだった。
「カイゼル」
三人を起こさない声で呼ぶと、カイゼルが振り返った。
「床の下から、何か来ています。足の裏にだけ。息をするくらいの間で」
カイゼルは左手の籠手を外して膝に置き、素手の手のひらを床に当てた。
薪が小さく鳴る。寝息が続く。ルーシーの足の裏には、また来た。カイゼルの手は、動かない。
三度目で、カイゼルの眉が寄った。
「……来た。間が、同じだ」
「はい」
右か、左か、前か、後ろか。足の裏で探っても、わかるのは下からということだけだった。床全体が、同じように、ゆっくりと鳴っている。
竜哭。竜が、哭く。
カイゼルも同じ名前を思っているのが、横顔でわかった。二人とも、口には出さなかった。
震えは何度か来て、少しずつ弱くなり、やがて来なくなった。カイゼルは手のひらを床から離し、指を一本ずつ握って開いてから、籠手をはめ直した。
「よく言った。朝、カルヴァンにも、お前の口で言え」
◇
朝は、カルヴァンが松明を新しく点けたことでわかった。ルーシーは毛布から起き上がって、ゆうべのことを話した。鍋に水を張りかけていたセリナも、こちらを向いた。
「後半の見張りのときは、何も聞こえなかったぞ」
毛布をたたみながら、ケスディアが言った。
「聞こえないものだそうだ」
カイゼルが答えた。ケスディアは自分の足もとの床を、つま先で一度踏んだ。
「聞こえないものを、どうやって聞くんだよ」
「足の裏で、です」
「俺の足の裏には、靴しか聞こえない」
カルヴァンは、ルーシーが座っていた場所に膝をつき、床に右の手のひらを置いた。何も言わずに立ち上がる。どうでしたか、と聞く間もなかった。
熾火に砂がかけられ、鍋が背嚢にくくりつけられる。ルーシーが水樽を背負い直すあいだに、カイゼルは盾を前へ回していた。入口の向かいの壁の先で、二層への階段の口が暗く開いている。一層より乾いた、冷たい空気が上がってきていた。
「降りる。並びは、ゆうべ決めたとおりだ」
ルーシーはカイゼルの真後ろから、一つ右へずれた。振り返ると、床には焚き火の跡と、五人分の寝床の跡と、燃えさしで引いた並びの線が、うっすらと残っていた。床は、もう鳴っていない。
最初の段に足を下ろしたとき、いちばん後ろで、カルヴァンが初めて口を開いた。
「街道の残滓とは、手触りが違う」
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