第80話 竜哭の遺跡② 入口の番所
おはようございます。
前回は、記録室で聞いた遺跡の話と、死亡同意書。今回は、いよいよ遺跡の入口へ。一層の回廊で、最初の戦いです。
地鳴り、という言葉は、宿の寝台に横になってからも、しばらく耳の奥に残っていた。
次に目を開けたのは、セリナに肩を揺すられたときだった。窓の外は、まだ暗い。
床に積んだ荷の前で、カルヴァンが小さな灯りを一つだけ点けて膝をついていた。宿の主人に縁までいっぱいに作らせた豆のスープの鉄鍋。湧き水を満たした小さな水樽が二つ。パンとチーズ、薪の束、麦の大袋が三つ。カルヴァンの手が触れるたびに、それが一つずつ消えていく。松明だけは六本、先に抜いて自分の背嚢に差してあった。
最後の大袋が消えると、カルヴァンは床に手をついたまま、しばらく動かなかった。それから窓ぎわの椅子に座り、水差しの水を一杯、ゆっくりと飲んだ。
寝台の上で髪を結びながら、セリナが言った。
「ずいぶん入れたわね。重くないの、それ」
「入れてしまえば、重さはない」
「入れるときは?」
カルヴァンは答えずに、二杯目を注いだ。
(入れてしまえば、は。……入れるときのことは、言わないんだ)
「歩く倉庫ね」
「倉庫は、文句を言わない」
「言ってるじゃない、今」
毛布から顔を出したケスディアが、二人を見比べた。
「朝から、うるさい」
「行くぞ」
カイゼルの一言で、五人は宿を出た。
東の門には、まだ暗いうちから、槍を持った門番が四人立っていた。カイゼルが申告の写しを見せると、門番は五人の顔を一人ずつ灯りで照らしてから、脇の小さな扉を開けた。
門の外は、乾いた丘だった。白っぽい土の道が、低い丘のあいだを東へ延びている。荷車の車輪の音も、馬の鼻息もない。聞こえるのは五人の足音と、剣や矢筒が揺れる小さな音だけだった。
(守る荷が、ない。……守るのは、自分たちだけ)
正面の丘の向こうから日が昇るころ、谷の底に、大きな石の門が見えてきた。左右に石を積んだ柱が立ち、上に渡した横長の石は、片方の端が崩れて斜めに突き出している。朝の薄明かりの中で、柱は竜の顎に、突き出した石は竜の鼻先に見えた。門の奥は、谷の斜面に開いた暗い口だ。
竜が一頭、地面から首だけを出しているようだった。
「あれが、竜哭の遺跡だ」
カイゼルが言った。
「……口、開けてますね」
「閉じてるよりは、ましだろ」
ケスディアが言った。
谷へ下りるにつれて、鳥の声が一つずつ消えていった。かわりに、焦げたものの匂いが風に乗ってきた。
◇
石の門の手前には、丸太の柵がめぐらされていた。柵の丸太の何本かは、切り口がまだ白い。石積みの番所が一つと、新しい布の天幕が三つ。槍を持った兵士は、数えただけで十人を超えていた。
柵の内側に、黒いものが人の背丈ほど積み上げてあった。焼いた骨だ。細い骨が多く、ゴブリンのものらしい頭の骨がいくつも混じっている。その脇で、若い兵士が長い鉄の熊手を使って、灰をかき寄せていた。
「中から、外まで出てくるんですか」
ルーシーが聞くと、兵士は熊手の柄に顎を乗せた。
「夜にな。柵まで来る。ゆうべで、三晩目だ。前は、門の外になんか出てこなかった」
「これが、全部……」
「出てきたのは、俺たちが焼く。中に残ってるのは、あんたらの仕事だ」
熊手の先で灰が崩れ、焼けた小さな骨が乾いた音を立てた。
番所の年配の兵士は、五人の名と戻る日を分厚い帳面に書き取った。期日を過ぎたら、捜索ではなく封鎖を考える、と言い慣れた調子で付け足す。
五人の名前の一つ上の行に、別の名前が三つ並んでいた。ダリル。ピップ。ノーラ。入ったのは昨日の日没後。戻る予定は、五日後。
兵士のペン先が、その行を軽く叩いた。
「止めはした。止めても入る者は、入る。こっちの仕事は、書いておくことだけだ」
「五日で六層って、あれ、本気だったのか」
ケスディアが、帳面の行をのぞきこんで言った。
「本気の顔してたわよ。魔法使いの子だけ、違う顔だったけど」
セリナが答えた。
カイゼルはその行から目を上げ、門の前に五人を集めた。
「並びは、俺が前。ルーシーが俺の後ろ。セリナ、ケスディア、最後がカルヴァンだ。中では、声は名前と指示だけにする。石の中は、音が奥まで響く」
それから、ルーシーを見た。
「脇道の口は、お前が見ろ」
「はい」
(ほかの三つは、外と同じ。……同じでいいのは、ありがたい)
カルヴァンが背嚢から松明を一本だけ抜いた。セリナが、松明を見上げた。
「一本だけ? 暗くない?」
「一層は風が動かない。何本も焚けば、煙がこもる」
右手の人差し指が、松明の先の布に近づいた。指の形が、わずかに変わる。声は聞こえない。松脂を吸った布の端に、ぽっと小さな炎が立った。
セリナは髪を、いつもより高い位置できつく結び直していた。
「湿気を吸うと広がるのよ。治すときに顔にかかるの」
隣で、ケスディアが弓の弦を指ではじき、張りを確かめている。
「入るぞ」
カイゼルが盾を前に回し、竜の口の中へ足を踏み入れた。
◇
石の階段を二十段ほど下りると、そこが一層だった。
四角い石を積んだ回廊が、まっすぐ奥へ延びている。幅は大人が三人並べるほど。天井は、カイゼルが手を伸ばせば届きそうな高さにある。壁にも床にも、緑の苔が厚く生えていた。
空気が、重い。湿って、冷たくて、動かない。松明の煙は炎の上でまっすぐ立ちのぼり、天井に当たって薄く広がった。
床の苔を踏むと、靴底がぬるりと沈んだ。苔と石のあいだに、水が染みている。その下の石は、土の上で拾っていた一枚の浅さを一度も返さず、どこを踏んでも同じ固さで押し返してきた。
「滑るぞ。足を置いてから、体を乗せろ」
最初に来たのは、四体のゴブリンだった。正面の暗がりから、棍棒を持った影が苔を蹴って走ってくる。ルーシーの肩ほどの背丈で、腕が長い。
「ルーシー、左の脇道」
左の脇道の口に入った。正面の四体を、カイゼルの盾が受ける。
ゴブリンは、盾にまっすぐぶつかってこなかった。一体が盾の正面を叩くあいだに、別の一体が縁へ回りこむ。どこを抜ければ後ろに届くのかを、考えている足だった。
盾の縁をすり抜けた一体が、脇道の口へ飛びこんできた。
剣を振った。刃は、肩から脇へまっすぐ抜けた。手ごたえが、軽すぎる。抜けた刃が、勢いを残したまま脇道の壁へ向かう。
(――壁)
石を叩けば、音が鳴る。その音が、奥の暗がりを全部呼ぶ。
止めた。苔の表面まで、指一本分の手前。
止めた勢いが、全部手首に返ってきた。骨の奥が、じんとしびれる。踏んばった右足が、苔の上を横へ滑った。左足で、どうにか体を残す。
(木剣なら、指一本手前で止められた。……刺す地面のない真剣だと、全部、手首に来る)
正面では、カイゼルが盾の縁から短い剣を突き出し、残りを一体ずつ片づけていた。
後ろから、セリナがルーシーの手首をのぞきこんだ。
「大丈夫?」
「しびれただけです。壁も、刃も、無事です」
「心配するところ、そこなの」
「刃は、新しいので」
「あんたの手首は、古いの?」
答えを探しているうちに、カイゼルが「進む」と言った。
刃が止まったところの苔に、細い線が一本、うっすらと入っていた。
◇
次は、右の角の向こうから来た。苔を蹴る足音が、いくつも重なって近づいてくる。
「五体」
ケスディアが言った。弓は構えない。狭い回廊で外れた矢は、前の仲間のそばを抜けていく。
ルーシーはカイゼルの斜め後ろに立ち、足もとを見た。石と石の継ぎ目のところだけ、苔がはがれて角がむき出しになっている。そこへ右のつま先を掛けた。石の角が、靴底に食いつく。
それから、頭の中で、刃の通り道を先に引いた。右上から左下へ。止めるのは、膝の高さ。
角から飛び出してきた三体目が、盾の脇を抜けてルーシーの前へ跳んだ。
引いておいた線のとおりに、刃が通る。膝の高さで止まる。返ってきた力は、手首を素通りして、つま先の下の石の角へ抜けていった。
足は、流れない。
カイゼルが、振り返らずに言った。
「次からは、どの口かだけ言う」
後ろから、セリナが小声で聞いた。
「今の、さっきと何が違うの」
「止める所を、振る前に決めておきました」
「……手首は?」
「半分です」
「じゃあ、次は四分の一ね」
(目標が、勝手に決まった)
継ぎ目のない苔の上では、振らずに剣先を置いた。剣先を見ただけで、ゴブリンの足が盾のほうへ曲がる。
松明が二本目になった。指で点けたのは最初の一本だけで、二本目からは、燃え尽きかけた一本から火を移している。
四度目の群れを片づけたあと、ケスディアが壁ぎわでかがみこみ、苔の上から矢を一本拾い上げた。
羽は灰色に染めてあり、軸の根もとに、灰色の細い帯が一本巻いてある。
「新しい。羽が、まだ湿気を吸いきってない。ゆうべか、今朝のものだ」
「灰色の、帯」
灰狼団。昨日、矢の店でピップが抱えていったのと、同じ長さの短い矢だった。
ケスディアは矢を手のひらに載せて、一度だけ転がした。矢は、揺れずに転がった。
「……まっすぐだ」
「ケスディアが選んだ矢ですね」
「黙れ」
その矢は矢筒には入らず、矢筒の脇の革紐に差しこまれた。近くには、血のあとも、焦げたあとも見当たらない。
(……よかった)
セリナが杖を握り直して、息を吐いた。
「まだ来るの」
カルヴァンが松明を高く上げた。通路の奥の暗がりに目を据えたまま、口の中で数え直す。
「二十倒した」
掲げた松明の、光の縁に、小さな目が並んでいた。右にも、左にも、正面の奥にも。入ってきたときと、同じだけ。
カルヴァンは、松明を下ろさなかった。
「減ってない」
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