第79話 竜哭の遺跡① 帰らない記録
こんばんは。
前回、一行は林の坂の襲撃を退けて、カルディナに着きました。今回から、「六層から先は誰も帰ってこない」遺跡の話が始まります。まずはギルドの記録室から。
竜哭の帳面を見に行く朝は、宿の食堂から始まった。
「午前はギルドで帳面だ。午後は城門の外で、ルーシーの出し方を確かめる。夕方までに、十日分の食料と矢を買う」
カイゼルの段取りは、黒パンを一つ食べ終えるあいだに済んだ。
「十日分」
セリナが繰り返した。
「全員分で、十日だ」
「ルーシーの分も入れて、十日?」
「……入れて、十日だ」
答えが、半拍遅れた。
(今、数え直しましたね)
向かいで、ケスディアが右の肩を回している。肩の高さを越えたところで、回す手がわずかに止まった。
朝のカルディナのギルドは、前と同じように混んでいた。掲示板のいちばん目立つ真ん中に、赤い縁取りの札が何枚も並んでいる。街道沿いのヴァルの群れの追い払い。東の丘の見回り。竜哭の遺跡の一層と二層の、魔物の間引き。前にいたころは、赤いものは端の北回りの欄にしかなかった。
窓口のハンナが、ペンを止めないまま、ルーシーに目礼をした。
「肩の記録は、まだ閉じていません」
「動きます」
「なら、閉じます」
そのあいだも、ペンは一行ぶん進んでいた。
カイゼルが、エドガーから預かった推薦状を窓口に置く。
「竜哭の遺跡に入りたい。帳面を見せてもらえるか」
ハンナは封を確かめ、中を読んだ。読み終えると推薦状を帳面のあいだに挟み、奥へ続く扉を指さした。
「記録室へどうぞ。記録係が、帳面を出します」
◇
記録室は、ギルドのいちばん奥の、窓の小さな部屋だった。壁という壁が棚で、背の厚い帳面が隙間なく並んでいる。インクと古い紙のにおい。部屋の真ん中の大きな机の向こうに、白髪の痩せた老人が座っていた。背は少し曲がっているが、ペンを持つ指は細く、まっすぐだ。
「記録係のネイサンだ」
老人は棚の一角からひときわ古い帳面を一冊抜き、机に置いた。表紙の革から、乾いた埃が薄く舞う。竜哭の遺跡、とある。
「竜哭は、全部で六層とある。地図があるのは、五層までだ」
古い紙に、細い線で通路と部屋が描かれていた。ページをめくるごとに線が込み入っていき、五層の最後のページには、大きな広間の奥に、下へ向かう階段の印が一つだけ。
次のページが、六層の欄だった。地図はない。紙の上半分は白いままで、下のほうに短い記録が何行か。どの行も、パーティの名と日付と人数のあとに、同じ言葉で終わっている。
到達の申告あり。
その下に、ネイサンの細い字で、一行だけ書き足してあった。
帰還の記録はない。
その一行を、二度読んだ。ネイサンの指が、いちばん古い行を、端から端までなぞった。日付は、二十年と少し前。指は行の終わりで一度止まり、ほかの行より少しだけ長くそこにあってから、離れた。
「六層まで下りたと、誰かが言いに戻ってきたことは」
「ない。五層の階段の前で引き返した組なら、何組も書いてある。下りていった組は、一組も戻っていない」
「最後に五層まで行って戻ったのは」
「ひと月半前。Bの四人組とある。五層で一人が足を折って、階段の前で引き返した。……引き返したから、四人とも戻った、と書いた」
引き返した、という言葉を、ネイサンはほかの言葉と同じ重さで言った。
ページが戻された。一層と二層の欄は、この一か月で行が倍に詰まっていた。ゴブリンと、革をかじるスカーヴァー。撤退、撤退、負傷一名で撤退――そのあいだに一行だけ、期日を過ぎて閉じられた記録。
閉じられた一行を見たまま、ケスディアが聞いた。
「……その、帰らなかった連中のことも、全部書いてあるのか」
「書いてある。それに、名前は全部覚えている。帳面を開かなくても言える」
ネイサンは帳面から目を上げなかった。
引き出しから、紙の束が出てきた。
「竜哭は赤だ。六層には帰還の記録もない。だから、ここは決まりが一つ多い。入る者には、一件ごとに、これを書いてもらっている」
机に並べられた五枚は、エルデンでCに上がった日に書いたのと同じ書式だった。いちばん上にだけ、「竜哭の遺跡」と書きこまれている。
ペンが一本置かれた。誰も、すぐには手を伸ばさない。
ルーシーがペンを取った。
(……二枚目)
――生きて帰れよ。
訓練場で聞いた声を思い出しながら、名前の最後の一画を引き、日付を書いた。手は止まらない。
セリナが書き、ペンをケスディアの前へ置いた。最初の一画で、筆先が一度だけ震えた。インクの小さな点が、名前の頭に一つ落ちる。ケスディアの目は、紙ではなく、机の上の帳面に向いていた。
息を止め、ケスディアは残りの字を一息に書いた。最初の点のほかには、どこにも震えはない。
カルヴァンが書き、最後にカイゼルが書いた。ネイサンは五枚を集め、一枚ずつ名前を確かめてから、紐で綴じた。
「引き返す線を、先に決めておく」
カイゼルの指が一本、折られた。
「セリナの魔力が、三分の一を切ったとき」
二本目。
「ケスディアの矢が、二十本を切ったとき」
三本目。
「食料が、帰り道の分だけになったとき」
四本目。
「誰か一人でも、自分の足で歩けなくなったとき」
四本の指を折ったまま、カイゼルは続けた。
「どれか一つでも当てはまったら、その場で引き返す。誰が言い出してもいい。言われたら、理由は聞かない。目標は五層だ。その先は、五層で決める。以上」
机に立てかけた盾の縁の、打ち直した金具を、カイゼルの親指が一度だけなぞった。
ネイサンが、一層と二層の欄の増えた行を、指で叩いた。
「お前さんがたが、増えた出どころを見たら、書いて持って帰ってくれ。この帳面に足りないのは、それだ。……申告は、夕方までに。入る日と、戻る日を書いておく」
◇
昼過ぎ、五人は城門を出て、街外れの草地へ行った。
ルーシーが三か月、毎朝通った場所だ。大きな木の幹には、刻み傷の梯子が九十本、そのまま残っていた。草地の端には古い杭が二本と、あとから打ち直された、ひと回り太い樫の杭。その頭は、浅い刃の跡で埋まっている。
(……ただいま、です)
街道とのあいだの丘に人の姿がないのを確かめて、カイゼルが盾を草の上に置いた。カルヴァンがルーシーの前に立つ。
「入れて、戻す。遺跡の中で初めて試して、戻らなかったら、誰が担ぐ」
答えを待たずに、カルヴァンは続けた。
「……数える前に戻せ」
「数える前、ですか」
「入れたら、頭の中で一つ、二つと数えろ。三つを数え終わる前に戻す。三つ数えてしまったら、それは戻したんじゃない。切れただけだ」
胸の奥の扉を隙間ほど開けては閉めながら、草地の端から端までを十往復した。カルヴァンが手を上げた。
「次は、一段だ」
草地の真ん中に立った。いちばん近い古い杭までは、ふつうに歩けば三歩。剣を抜き、刃を寝かせて、平らな腹を杭へ向ける。斬るのではない。叩くだけだ。
息をお腹の底へ落とし、グレイヴに教わった順に、外へ出ようとするものを一本にまとめる。
胸の奥の扉を、一段だけ開けた。
体の中を、熱いものが一息に通る。草の揺れが、ゆっくりになった。杭の表面のひび割れが、一本ずつ見分けられる。
一つ。
三歩ぶんを、一度の踏みこみで詰めた。右足は、草の段のときのように、つま先から土へ刺す。体がそこで止まり、止まった体の勢いが、そのまま剣へ抜けた。
剣の腹が、杭の胸の高さを打った。茂みから、小鳥がいっせいに飛び立つ。杭が根もとから折れ、土の上に出ていたところがそっくり、草の上へ倒れていった。
二つ。
扉を閉めた。開けたときと同じ道を逆にたどり、熱いものを胸の奥へ引き戻す。草の揺れが、元の速さに戻った。
剣を下ろして、息を吐く。首筋から、湯気が立っていた。
踏みこんだ右足の下の土が、靴の形にえぐれて、前へ小さな山を押し出していた。
(……杭に、三敗目)
カルヴァンが折れた杭の断面に指を当て、それから振り返った。
「戻したな。数える前に」
戻ってきたカルヴァンの指の背が、ルーシーの右の肩を軽く叩いた。
「戻す途中、ここはどこにあった」
思い返す。扉を閉めるとき、肩が耳のほうへ寄っていた。
「……上がっていました」
「熱が肩でつかえて、首へ逃げた。次は、下げたまま戻せ」
盾のそばで、カイゼルはえぐれた土だけを見ていた。
「上の連中の出し方だ。……外の人間の前では、やるな」
「はい」
返事をしてから、膝の奥が震えているのに気づいた。セリナが干し肉を一枚、手に押しつけてきた。
「膝、笑ってるわよ。座って食べなさい。立つのはそのあと」
少し離れたところで、ケスディアが弓を構えていた。矢は番えず、弦だけを引く。肩の高さを越えるところで一度止まり、それから最後まで引ききった。腕が、かすかに震えている。ゆっくりと弦を戻した。
セリナがそばへ行き、右の肩に手を当てた。少しのあいだ目を閉じて、離す。
「引けるわね。速くは引かないこと。続けて撃つのは、三本までにして」
「……わかった」
答えながら、ケスディアは自分の右手を、握って開いた。
◇
市場は、ギルドの裏手から城門のほうへ延びる長い通りにあった。
矢の店で、ケスディアは棚の矢を一本ずつ取っては、台の上で転がしていた。まっすぐな矢は、音もなく転がる。曲がった矢は、転がるたびに先が小さく跳ねる。跳ねた矢を棚に戻していく手つきを見て、店の主人は黙って次の束を出した。
戸口の脇の、安い矢を立てた樽の前に、小柄な若者が身をかがめていた。ゆうべのピップだ。こちらに気づかないまま、樽から短い矢を一束つかんで、主人のほうへ差し出す。
ケスディアが横目でその束を見た。手を伸ばして二本を抜き、台に転がす。二本とも、こつこつと跳ねた。
「曲がってる」
「……安かったんだ」
ピップが耳の後ろをかいた。
ケスディアは答えずに、樽から短い矢を一本ずつ抜いては転がし、跳ねたものは戻し、音もなく転がったものだけを脇へよけていった。樽の底が見えかけたころ、脇の矢は五本になっていた。銀貨を一枚、主人の前に置き、五本を台の上でピップのほうへ押しやる。
「やる」
「曲がった矢が飛んでくのを見ると、腹が立つんだ」
ピップは五本の矢を両手で抱えるように取ると、深く頭を下げて、戸口から駆け出していった。
セリナがルーシーの袖を小さく引いた。
「今の、見た?」
「見ました」
「見るな」
こちらを見ないまま、ケスディアは自分の矢を台の上に転がした。
◇
夕方のギルドは、仕事を探す者より、戻ってきた者のほうが多かった。
記録室へ続く廊下で、若い四人組とすれ違った。先頭の男は盾を持っておらず、左の腕に巻いた布に、乾いた血がにじんでいる。最後尾の少年は、空の矢筒を紐をほどいたままぶら下げていた。四人とも、靴から膝まで、緑色の苔の汁で汚れている。
「数えてたら、きりがなかった」
すれ違いざまに、一人が小さく言った。隣の者は答えず、四人は角を曲がって消えた。
帳面の「撤退」の一行が、今ここを歩いていった。
記録室には、先客がいた。ネイサンの机の前に、灰狼団の三人が立っている。
「入る日は、今日。戻る日は……五日後だ」
ダリルの胸の銀のプレートが、窓からの夕日を受けて光っていた。ルーシーの胸の銀と、たいして変わらない新しさだ。それなのに、その声は遠く聞こえた。
「五日で、六層まで行く。地図を描いて、戻ってくる」
ネイサンはペンを置き、帳面の一層と二層の欄を指で押さえた。
「この一か月、二層の手前で引き返した組が、これだけいる。申告は、帰ってこられる日数で書くものだ。期日を過ぎた行を閉じるのは、わたしの仕事でね。四十年やって、いちばん嫌いな仕事だ」
声は大きくなかった。
ダリルは一瞬黙り、すぐに笑った。
「なら、閉じさせなきゃいい。五日だ」
ネイサンのペンが動き、五日、と書いた。ダリルの横で、ノーラがネイサンに向かって深く頭を下げる。ピップは窓の外の空の色を見ていた。
「今から出れば、夜のうちに入口に着く」
「中に入れば、昼も夜も同じだ」
三人は記録室を出ていった。出ていくとき、ノーラがルーシーに気づいて会釈をした。ルーシーも返した。焦げた袖口が、扉の向こうへ消えていく。
呼び止めようとして、言葉が見つからなかった。魔法の火を、ルーシーはまだ一つも灯したことがない。扉の向こうの足音は、もう聞こえない。
ルーシーたちの申告は、短く済んだ。入る日は明日の夜明け。戻る日は、十日後。五人の名前。ネイサンは、ダリルのときと同じ速さで書いた。
「行くぞ」
カイゼルが言って、五人は記録室を出た。扉に手をかけたルーシーの背中に、帳面を閉じながらつぶやくネイサンの声が届いた。
「グレインから、街道のくぼみの行が回ってきた。……名前の由来の地鳴りな。この半年、また聞こえる日がある」
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