第78話 カルディナへの帰還⑤ 二度目の笛
おはようございます。
前回は、低地のくぼみと、ルーシーがカイゼルに言えなかったこと。今回は、それを自分の言葉で伝える朝から、林の坂を上って、いよいよカルディナへ。
荷車のほうから、砂利を踏む足音が近づいてきた。
剣の柄に手をかけかけて、やめた。砂利を踏む重さで、カイゼルだと分かる。その後ろから、弓を左手に下げたケスディアが少し遅れてついてくる。
「時間だ」
その膝が焚き火の脇につくより先に、ルーシーは言った。
「蛙が鳴きやんだのは、足音の少し前です。水の筋の向こうを、蹄が一つ、東へ抜けていきました。灯りなしで」
カイゼルの目が、一度だけ東の暗がりへ動いた。
「……川で数えてた奴か」
ケスディアが丘の縁へ歩いていく。しばらくすると、水の筋のほうで、また一匹が鳴き始めた。
夜が明けてすぐ、ケスディアが丘の下から戻ってきた。
「靴の跡。一人。丘をぐるっと回って、西の下で止まってた。そっから、ラバと一緒に東だ」
「数えに来たな」
馬に轡をかけながら、ハロルドが言った。
カイゼルは丘の縁で、ゆうべ落としきれなかった盾の黒い土を、布でこすっていた。その前に立って、地面が一枚浅かった三か所を話した。カイゼルは布を置き、体ごとこちらを向いて、最後まで聞いた。
「次は、その場で言え。言われたら、俺は止める。外れでも止める。外れたら、そのときはお前が謝れ」
「はい」
それ以上は何も聞かずに盾を背中へ掛けると、カイゼルは荷車のほうへ向き直った。
「今日は林の坂だ。止まらずに抜ける」
◇
出発してから、カイゼルは路肩に足を置く前に、必ずそこを見た。ハロルドは御者台から路肩の土の色を確かめるようになり、セリナは自分の足もとを見るついでに、ルーシーの足もとまで見ている。
「……見られてます」
「見てるのよ。あんたの足が止まったら、私も止まるの」
(足が、合図になってる)
昼の少し前に、低地の東の縁に着いた。そこから先は、カルディナ側へ上がる坂だ。左右の雑木林が距離を詰めてくる。右は林の斜面がそのまま上へ続き、左は雑木の向こうで地面が切れて、沢へ落ちていた。荷車は、道から一歩も外れられない。
坂の中ほど、道から斜面を十歩ほど上がった所に、太い樫が一本立っていた。
根もとに、白いものが散っている。木屑だ。幹の道に向いた側に、楔の形の深い切り口。裏側にも一本、切りこみ。幹はわずかに道のほうへ傾き、高い所に結ばれた縄が、斜面の上から引き留めるように、木々のあいだへぴんと張って消えていた。
栗毛の両耳が、そろって右を向いた。
「カイゼル、右の上。木が――」
そのあとが、出てこない。
カイゼルが振り向いて、指の先を見た。一拍もかからなかった。
「切ってあるな。ハロルド、ゆるめろ。後ろ、詰めろ」
三台のあいだが、人ひとり通れるかどうかまで縮まった。最後尾のカルヴァンが、ベンノの荷車の脇まで上がってくる。
「止まれば、木の下で囲まれる。抜けるほうが早い」
止まらずに、隊列は坂を上がっていった。
◇
斜面の上の、樫より高い木々の陰に、男たちが伏せていた。
真ん中にいるのは、白髪まじりの髭の、年かさの男だった。首に細い革紐で、小さな木の笛が下がっている。ヴァルドは、坂を上がってくる三台の荷車を、黙って見下ろしていた。
隣で、川でラバに水を飲ませていた男が、指を折りながら言った。
「五人。前は七人でした。弓の小僧は、矢筒を腰に回してる。腕が上がらねえんです。魔法使いは、杖なし。真ん中は――前の、剣を地面に刺した女です。段で、荷車を肩で止めてました」
「……グレインか。今度は、五人だな」
眼下で、隊列が急に詰まった。
「詰めたな。木を見られた」
「どうします、頭。挨拶にしときますか」
「挨拶は、一度でいい」
ヴァルドは、指を一本ずつ折って数え直した。手下は十八。前に三人、弓に四人、木の縄に二人。
「真ん中に七人だ」
そこで一度、言葉を切った。
「……あの女は、一人に数えるな」
折った指の横で、もう一本、指を折った。
「残りの二人は、あの女の後ろに伏せておけ。動いたら、空いた真ん中を取れ」
ヴァルドは、首の笛を口にくわえた。
◇
ぴい、と、乾いた笛が一つ鳴った。
とん、とん、とん、とん。ハロルドの馬の鼻先の土に、矢が四本、横一列に突き立つ。
馬の前脚が浮きかけた。ハロルドが手綱を低く押さえつけ、そこへカイゼルが盾を回して割りこむ。続けて来た二本が、盾の面で鈍く鳴って落ちた。
後ろで、ばきり、と木の裂ける音がした。樫が傾いていた。縄がたるみ、引き留めるものをなくした幹が、道のほうへ、ゆっくりと、それから一気に。
どう、と地面が揺れる。樫は、三台目のすぐ後ろの、空いた道に横たわった。枝先がベンノの荷台の後ろ板をがりがりとこすって止まる。荷車のあいだを詰めていなかったら、二台目と三台目のあいだに落ちていた。
「後ろ、ふさがれたぞ!」
「前へ行く荷車に、後ろは要らん」
カルヴァンが、振り向きもせずに言った。
今度は、誰も「通行税を払え」とは言わなかった。
ぴ、ぴい、と笛が二つ。右の斜面の落ち葉が、いっせいに鳴った。木々のあいだから、男たちが下りてくる。七人。短剣と、棍棒と、鉤のついた縄。向かう先は、真ん中の、クライヴの荷車だ。
前の道にも三人が出てきた。真ん中の一人が、胸を張る。
「荷を置いていけば、命までは――」
カイゼルは最後まで聞かずに、一歩だけ出た。
三人が同時にかかってくる。盾で一人目を押し返し、剣の腹で二人目の短剣を叩き落とし、三人目の踏みこみを盾の縁で止める。そこから先、カイゼルは一歩も下がらず、一度も振り返らなかった。
斜面の木の陰からは、矢が来る。動いた者の足もとと、荷台の縁を射て、そこで止める。弓は四つ。
ルーシーは、二台目の外側から動かなかった。真ん中の、穴埋めの場所だ。
下りてきた先頭の男が、ルーシーの顔を見て目をむいた。
「おい、あのときの、剣を地面に刺した女か!」
覚えのある声だった。飾りか、と笑った、あの男だ。
「今日は刺さねえのか」
「今日は、刺しません」
男は舌打ちをして、斜面を数歩駆け上がって振り返った。
「来いよ、姉ちゃん!」
「行きません」
追えば、真ん中が空く。男の後ろの木の陰で、別の二人が、ルーシーが動くのを待っていた。
後ろで、ベンノの声が裏返った。荷台の上で、二の腕を押さえている。ゆるんだ縄を締め直そうと立ち上がったところを、矢がかすめたのだ。裂けた袖の下に、赤い筋。
セリナが荷台に飛びつき、ベンノの帯をつかんで三台目の陰へ引きずり下ろした。両手で、傷を包む。
「動かないで。一分よ。動いたら二分」
「数えるなよ!」
「数えないと、あんた動くでしょ」
ベンノは口を閉じ、動かなくなった。
斜面から下りてきた二人が、栗毛の轡へ走る。剣を抜いた。振りはしない。寝かせた刃を、二人の胸の高さに置く。先頭の男が刃の前で踏みとどまり、後ろの男がその背中にぶつかった。
そのすきに、三人目が荷車の前へ回りこんでいた。短剣が光り、引き綱が一本、ぷつりと切れる。
片側の綱だけが急に軽くなって、栗毛が首を振り上げた。
「クライヴさん、頭を下に!」
最初の笛で、クライヴは御者台を下りて轡を取っていた。草の段で引きずられかけた手が、今度は轡の下の革をつかんで離さず、体の重さを全部かけて、栗毛の頭を引き下ろす。栗毛は二度足踏みをして、そこで止まった。
刃の前の二人と綱を切った男が、そろって斜面へ下がる。
三台目のほうで、枝の折れる音。縄を放した二人が倒れた樫を乗り越えて、荷台に取りついていた。一人が、封をした染料の小箱を胸に抱えて飛び降りようとする。
その箱に、カルヴァンの指が触れた。箱が消える。男の腕は空を抱いたまま、落ち葉の上に転がった。
「……い、今の、どこに行った」
「中だ」
もう一人は、それを見るなり枝を越えて斜面へ逃げていった。
「ケスディア。斜面の弓。撃て」
前から、カイゼルの声。振り向きもしない。
「撃つ! 斜面の中ほど、右の木!」
二台目の後輪の陰で、ケスディアが片膝をついた。右腕は、肩より上げない。かわりに腰から上を後ろへ反らせ、肩の高さのまま、弓の角度だけを斜面の上へ向ける。
弦が鳴った。木の陰で、弓を持った手が跳ねる。もう一度。二つ目の弓も落ちた。どちらも、手首を射抜かれていた。残る二人の弓手が、木の陰へ頭を引っこめる。
三台目の陰で、セリナが両手を離した。ベンノの腕の赤い筋は、もう広がっていない。
「はい、一分」
「……ほんとに数えてたのかよ」
今度は、縄が飛んできた。斜面の三人が投げた鉤が、二台目の荷の縛り縄に食いこむ。三人が引くと、布の束が荷台の縁へずるりと寄った。いちばん下で縄を握っているのは、さっきの、あのときの男だった。
鉤の手前で、縄をつかんだ。引っぱり合いはしない。
――一巻きすりゃ、子どもでも荷車を止められる。
三人が足を踏みかえて引き直す、そのひと息のゆるみに、縄を荷台の角の柱へ一巻きかけた。柱がきしむ。三人の引く力を、柱が受けた。柱から鉤までの縄がゆるみ、剣先で鉤を外す。外れた端を、左手で持った。
縄の向こうで、三人が声をそろえて引いた。手に来たのは、水を半分入れた桶ほどの重さだけだった。三人が、体をいっぱいに後ろへ倒す。
手を離した。
縄が柱の上を走る。三人は自分の引く力のまま斜面に尻もちをつき、いちばん下の男は濡れた落ち葉の上を背中で滑って、道ばたの溝まで下りてきた。
溝の男の胸に、剣先を置いた。
「動かないでください」
男は剣先とルーシーの顔を見比べて、空を仰いだ。
「……前より、ずっと面倒になったな、あんた」
目の端で、別の男の手がマーサの腰へ伸びた。帳面の入った袋だ。マーサが両手で抱えこむ。男の肩の筋が締まった。右手の刃物が、下から上がり始める。スクリットの腿が縮むのを見たのと同じ目で、それが見えた。
溝の男から剣先を外す。二歩で詰めながら、柄を四分の一だけ回した。刃が寝て、平らな腹が前を向く。その腹で、上がってくる男の前腕を、横から打った。
ぽき。
乾いた音だった。刃物が落ち葉の上に落ちる。男は短くうめいて膝をつき、おかしな角度に曲がった腕を抱えこんだ。
「……帳面は、渡せません」
袋を抱えたまま、マーサが言った。
剣を握った自分の手を見た。
(……こんなに、軽い音で)
初日に裂いた縁板のほうが、まだ重い音を立てた。手が、それを覚えた。
振り返ると、溝の男はもういなかった。落ち葉の斜面を、四つん這いで上っていく背中が見える。追わなかった。
真ん中は、一度も割れなかった。
斜面の上の木々のあいだに、白髪まじりの髭の男が出てきた。荷を見ない。護衛の数も数えない。ルーシー一人を数え直すような目で、ひと呼吸だけ、こちらを見た。垂らした左手の指が、一本ずつ折れていく。
「頭! 割に合いません!」
「知ってる」
男は首の笛を口に当てた。ぴいいい、と、長く下がっていく笛。
とん、とん。カイゼルの靴の先の、指二本ほど手前に、矢が二本並んで突き立った。とん、とん。ルーシーの靴の先にも、同じように二本。
追うな、という矢だった。
二台目の後輪の陰で、ケスディアが弦を引いていた。矢の先が、斜面の上の髭の男に向いている。引いたまま、ケスディアはカイゼルの背中を見た。
背中は、動かない。
髭の男が、木々のあいだに消えた。一味は、手首を射抜かれた弓手と、腕を抱えた男に肩を貸して、尾根の向こうへ越えていく。
ケスディアが弦をゆるめた。
「……撃てた」
「撃てたな」
カイゼルは剣を鞘に戻した。マーサが帳面を開く。
「笛の盗賊、十五、六人。撃退。荷の欠けなし。御者一名、腕に浅手、治療済み」
カルヴァンが三台目の脇から歩いてきて、手のひらを上に向けた。封をした染料の小箱が、そこに戻っている。
「染料一箱、護衛の魔法使いが預かり、返却」
マーサがもう一行書き足した。カルヴァンのこめかみを、汗の粒が一つ流れていった。坂を上ってきただけの汗には、見えなかった。
「進む」
ハロルドが切られた引き綱を結び直し、ベンノは腕に布を巻いたまま御者台へ上がった。
坂を上りきる手前で、ハロルドが林の奥へ折れていく古い木こり道に目を止めた。浅い轍が二本、新しく刻まれている。
「空の荷車を待たせてた。帰りは重くするつもりだったんだ」
片方の轍の内側にかかとを置き、つま先、かかと、と足を継いで、もう片方の内側まで数えた。
六足と、半分。
マーサが、それを帳面に書いた。
◇
その夜は、坂から離れた、見通しのいい丘の上で野営した。
日が沈みきる前、ハロルドが馬の首を撫でながら、北の山並みを顎で指した。いちばん高い頂だけが、まだ夕日を受けて赤い。
「あそこには、羊飼いも上がらねえ」
「険しいんですか」
「草はいいそうだ。それでも、上がらねえ。昔から、そういうもんだ」
赤かった頂は、見ているうちに灰色に沈んだ。
焚き火のそばで、右の靴を脱いで膝に載せた。段でほつれた縫い目は、坂でもう二目裂けて、靴底の縁が指二本分浮いている。針に自分の糸を通していると、焚き火の向こうから、ハロルドが蝋を引いた麻糸の束を放ってよこした。
「その糸じゃ、切れる。こっちを使え。引っぱるな。寄せろ。指一本ぶんでいい」
蝋の糸は、指のあいだで少しねばった。一目通して、寄せる。指一本ぶん。昼の、ぽき、という音が一度だけ指の中で鳴って、寄せる力をもう少し弱くした。
糸は一度も切れずに、最後の縫い穴まで締まった。
「……縄の一巻き、使わせてもらいました」
「見てた。子どもより、ずいぶん上手だった」
ハロルドはそれきり、手綱の手入れに戻った。
靴を履き直していると、ケスディアがカイゼルに向き直った。
「なんで、撃たせなかった」
カイゼルは答えない。盾の革紐を締め直す手も、止まらない。
かわりに、カルヴァンが聞き返した。
「頭を射たら、残りの十何人は、どう動く」
ケスディアの指が、弦の上で止まった。
「……ばらばらに、か」
「誰の計算でも動かなくなって、林に残る。ああいう連中は、場所を変えて、また来る。笛は覚えておけ」
ケスディアは、弦を指で一度はじいた。
目を閉じて、昼の笛を順に並べ直した。
一つ。矢が並んで、木が倒れた。
二つ。人が下りてきた。
長く、下がっていく。引いた。
目を開けると、ケスディアが矢筒の焦げた覆いを、指でなぞっていた。
「数えたんなら、数え直せってんだ」
誰に言ったのかは、分からなかった。
迂回で失った半日のぶん、カルディナに着いたのは、七日目の昼前になった。
◇
ゆるい丘を越えると、道の先に灰色の城壁が現れた。門の前の広場には、入街を待つ荷車と旅人が並んでいる。門番が、前の倍いた。
列の脇を、二頭立ての低い平台の荷車が、並ばずに門の内側へ通されていった。荷台に、長い鼻先のヴァルの死骸が積まれている。
いちばん上の一頭は、背中から脇腹にかけて、毛がまだらに抜け落ちていた。刃物で剥いだのではない。病気の犬の毛が抜けるように、根もとから抜けたあとだ。荷車が揺れて、首がこちらへ傾く。開いたままの片目が、煮た魚の目のように白く濁っていた。もう片方は、ふつうの獣の目の色をしていた。
列を見ていた若い門番が、ルーシーの顔を見つけた。
「あ、呼吸の――」
隣の年配の門番に肘で突かれて、慌てて槍を持ち直した。
(……まだ、そう呼ばれてるんだ)
エドガーが林の坂のことを伝えると、年配の門番は、初めて列からこちらへ目を向けた。
「笛の連中か。このひと月で、三度目だ」
内庭の隅の机でプレートを受け取っていたのは、左の腕に臨時の門番の白い布を巻いた剣士だった。プレートを見るより先に、声が裏返った。
「ルーシー!」
レインハルトだった。三か月、草地の修行を毎朝のように見に来て、競走ではルーシーに勝った人だ。左腕の盾は、まだ少し大きすぎる。
「戻っ――あ、いえ。通行の確認です。了解です!」
まだ、何も言っていない。
レインハルトは咳払いを一つして、声を落とした。
「ルーシーが発ったすぐあとに、浅層が閉じられたんです。そのあと、灯り持ちで下りました。壁に『二』を書いた、あの角の先です。床の下に、かがんで通れる穴が横に延びてました。東へ――竜哭のほうへ、です」
五人がこれから入る、中級のダンジョンだった。
内庭の入口から、年配の門番がレインハルトを呼んだ。歩き出しかけて、振り返る。
「床の音は、聞いといてください。それと――約束、遺跡のあとでいいので!」
返事をする前に、背中はもう人ごみの中だった。
(戻ってきたら、また見る。……遺跡のあとで)
荷を納めたグレイン商会の倉庫では、オーウェンが戸口で待っていた。白墨の粉のついた太い指で、ルーシーを指さす。
「次の四皿目は、人に回すなよ」
「今日は、荷を納めに来ただけです」
「だから、今日は出さん。次だ。次は、自分で食え」
オーウェンはマーサの帳面をたどり、一行ぶん空けてあるくぼみの行を指で押さえた。
「これは、記録係にも回しとく」
次に指が下りたのは、「縁板一枚、補修。……護衛の手による」の行だった。オーウェンの目が、戸口の柱の、裏返しの荷札へ行く。『割らない』の字が、まだそこにあった。
「……割らない、じゃなかったのか」
「割っていません。裂きました」
マーサが帳面を引き寄せ、その下に、真顔で書き足した。
「古い板でした」
エドガーは護衛料と、ギルドあての推薦状をカイゼルに渡し、それから小さな革袋を一つ、机に置いた。インクの染みた指が、袋の口を押さえる。
「坂の分は、別に払う」
◇
日が落ちてから、一行はギルドから二本裏の通りの、嘴の欠けた黒い鳥の看板の酒場へ行った。壁ぎわの長い卓に、骨ごと刺した羊肉の串焼きが山になって届くころには、隣の卓の若い三人組が、もう賑やかだった。
「だから、六層だって。俺たちが最初に描くんだ」
真ん中の、日に焼けた若い男だった。胸に下げたCの銀のプレートが、まだ傷ひとつなく光っている。
「ダリル、声」
隣の少女が袖を引いた。十五か十六くらいで、腰に短い杖を差している。ダリルが気にせず話し続けるのを見ると、少女はまわりの卓に向かって、ぺこりと頭を下げた。
「すみません。うるさくして、すみません」
頭を下げた袖口が、ところどころ茶色く焦げていた。前髪の先も、縮れている。思わず、自分の前髪に手をやりかけた。
(……同じ縮れ方)
向かいの、小柄で身の軽そうな若者が、こちらへ顔を向けた。腰の後ろに、短い弓。その目が、ルーシーの前に並んだ十本の骨と、三つの空の椀の上で止まった。
「……それ、一人で?」
次の串を取りながら、まじめな顔で答えた。
「まだ前菜です」
少女が両手で口を押さえた。セリナが自分の串を皿に置いた。
「この子、本気で言ってるからね」
「俺たちは灰狼団だ。ダリル。こっちがピップで、こっちがノーラ。……なあ、門で聞いたんだけどさ。林の坂で笛の連中を追い返した便って、あんたらか。あんたらも、潜るのか」
「仕事だ」
串を取りながら、カイゼルが答えた。
物足りなさそうに、ダリルはまた六層の話に戻った。ケスディアだけが、ダリルの胸の傷ひとつない銀のプレートを、しばらく見ていた。
ダリルとピップが酒を頼みに立つと、ノーラがこちらへ体を寄せてきた。
「あの……」
ノーラの目が、ルーシーの束ねたこげ茶の髪から、背中へ下りていく。
「背が高くて、座ってても背中がまっすぐで。かっこいいなって、ずっと思ってました」
手に持っていた串を、落としかけた。
(……かっこいい、って、私が?)
「……ありがとう、ございます」
顔が熱いのは、炉の火のせいだけではない。ノーラは真っ赤になって自分の卓へ向き直り、焦げた袖口を膝の上で握った。
横で、セリナが串をくわえたまま、にやにやしていた。
「よかったわね。かっこいいって」
「……聞こえてたんですか」
「聞こえる距離だったもの」
店の灯りが落とされはじめたころ、カイゼルが言った。
「明日は、ギルドで竜哭の帳面を見る。六層の欄もだ」
隣の卓では、ノーラがまたまわりに頭を下げていた。ダリルの声だけが、まだ大きい。ケスディアが空の椀を卓に置いたとき、その声が、ひときわ大きくなった。
「――誰も地図を持って帰ってない階だぞ」




