第77話 カルディナへの帰還④ 足裏の違和感
こんばんは。
前回は、帰り道の二日目と三日目。枝の練習と、火打ち石と、小さな戦いでした。今回は低地へ下りる四日目。足の裏だけが気づいた違和感の話です。
その匂いは、風が吹くたびに戻ってきた。東の空の底が白むまで、ルーシーは焚き火の脇で膝を抱えたまま、東と北の暗がりを見ていた。隣のカルヴァンの火は、夜明けに合わせるように、少しずつ低くなっていった。
朝の粥が済むと、カイゼルが盾を背中に掛けた。
「低地は止まらずに抜ける。合図は前から出す。止まれと言うまで、荷車の間を空けるな」
「日が高くなる前に、下りきるぞ」
ハロルドが地図を懐にしまった。
◇
木立を回りこむと、道はゆるやかな下りになった。その先に、低地が広がっている。背の低い草がどこまでも続き、ところどころに水の光る筋。葦の群れが風の通り道に沿って傾き、遠くの端には朝の靄がたまっていた。
坂を下りきると、湿った土と踏まれた草の匂いが急に濃くなった。表は柔らかいが、その下はしっかり締まっている。一歩ごとに靴底が土に食いついて、また離れる。半月前と同じ手ごたえだった。
一時間ほど、何も起きなかった。
先頭で、ハロルドの背中が伸びた。カイゼルが合図を出すより先に、ハロルドが自分で手綱を引いた。クライヴが遅れ、栗毛の鼻先が前の荷車の後ろ板にぶつかる寸前で止まる。
前をのぞいた。まっすぐ続いていた二本の轍が、ある所から先で、ぼやけて消えている。その先の地面が、くぼんでいた。
荷車二台分ほどの幅で、道の真ん中から北の草地へかけて、ゆるやかに沈んでいる。深さは膝より浅い。くぼみの中の草は枯れていない。立ったまま、根ごと沈んでいた。轍はくぼみの中でほとんど形を失い、土が一度どろりと流れて、ならされたように見えた。
ハロルドが御者台から下りて、縁にしゃがみこんだ。土を指で押す。指が、第二関節まで沈んだ。抜いた穴は、水を含んだ土が自分で埋めていくように、ゆっくり閉じていく。
「……半年前は、こんなもの、なかった」
――知らない跡に、靴は入れないこと。
Eのころ、ギルドの廊下で、マレーナに言われたことだった。縁の手前で、足を止める。
少し迷ってから、口を開いた。これは、目で見たことだ。
「半月前に、エルデンへ戻る護衛でここを通りました。そのときも、なかったと思います」
最後尾から来たカルヴァンが、横で足を止めた。
「なかった。俺も、その護衛にいた」
カイゼルが盾を前へ回した。くぼみにではなく、その向こうの平らな草地全体に向けて。
「全員、そこで止まれ。カルヴァン」
くぼみの縁で、カルヴァンが膝をついた。ローブの裾が湿った土につくのもかまわず、右の手のひらを縁の土に置く。押しつけるのではなく、ただ置いて、目を閉じた。
長かった。馬が鼻を鳴らし、ハロルドが振り返らずに手綱を低く押さえる。風が葦を鳴らした。
待っているうちに、いつの間にか、縁へ近づいていた。右足が、カイゼルの斜め後ろ、縁から三歩ほど手前を踏む。
その瞬間、足の裏に、あの感触が来た。
一枚、浅い。
下ろしたかかとのまわりで、乾きはじめた表の砂が一筋、半拍遅れて、すっと沈んだ。
(……これ、知ってる)
初日の午後、乾いた丘の途中で、右のかかとが一度だけ拾った感触と同じだった。
左足で踏む。浅い。一歩、くぼみから離れて踏む。ふつうだ。戻って踏むと、また浅い。
縁から三歩ほどのところに、目には見えない線がある。その内側だけ、地面が一枚薄い。
カイゼル、と言いかけた口を、カルヴァンの閉じた目を見て閉じた。
カルヴァンが目を開けた。指を一本ずつ握りこんでから、開く。
「魔力の残滓がある」
荷車の脇で、クライヴが小さな声で聞き返した。
「ざ、ざんし、って……悪いものですか」
「燃えかすだ。焚き火の灰が、しばらく温かいのと同じだ。悪いかどうかは、燃やした奴による」
「……燃やした奴が、いるんですか」
クライヴの声が、もう一段細くなった。
「どういう燃えかすだ」
カイゼルの問いに、カルヴァンは根ごと沈んだ草を見た。
「自然のものじゃない。上から押されたんじゃない。下からだ。深いところの固い層を、何かが柔らかくした」
「何か、とは」
「分からない。土の魔法は、俺の専門じゃない。分かるのは、跡が古くないことと、今はもうここにいないことだけだ」
ヴェルダーン坑道で、短い杖で岩肌を叩いていた土の魔法使いの横顔が、一度だけ浮かんだ。
カイゼルが北の草地へ目をやった。くぼみは、ゆるく細くなりながら北へ伸び、その先は草に隠れて見えない。
いつの間にか、エドガーが荷車の陰から出てきていた。くぼみを見て、カルヴァンを見て、空を見上げる。
「迂回する道は」
ハロルドが南を指さした。
「道の南に、低地より一段高い草の段がある。荷車も通れる。ただ、傾いてるから遅くなる。半日」
ハロルドは東を見た。靄が薄れ、低地の向こうの端に、黒い帯が低く横たわっている。林だった。
「半日遅れりゃ、林の坂は明日の昼前だな」
「……昼なら、まだいい」
カイゼルは、東の黒い帯から目を離さなかった。
「南だ。半日なら、荷は待てる」
エドガーが言った。
足を、ふつうの地面のほうへ戻した。足の裏には、浅い手ごたえが、まだ残っていた。
◇
草の段は、低地と並んで東へ延びていた。低地より膝の高さほど高く、幅は荷車一台半ほど。北の谷側へゆるく傾いていて、荷車を通せるのは谷側の縁に近い、平らな半分だけだった。段の上は乾いていて、表の土は白っぽく、短い草もかさかさしている。
「一台ずつ通す。御者は降りて、馬の頭を持て。谷側には人を立たせるな。全員、山側を歩け」
ハロルドの荷車が先に上がった。谷側の車輪が、縁に近い草の上を踏んでいく。何も起きない。向こうの平らな場所で止まり、ハロルドが手を上げた。
次は、いちばん重いクライヴの荷車だった。上り口で栗毛が一度足を止め、クライヴが轡を引くと、首を振ってから歩き出した。
荷車の山側、後輪の少し後ろを歩いた。荷台の傾きが、ちょうど目の高さに見える。布の束が、縄の中で谷側へ寄っている。
段の真ん中あたりで、幅が狭くなった。谷側の縁が、道へ寄ってくる。
そこで、自分の足の裏に、あの浅さが来た。かかとのまわりで、白い土が一筋沈む。
(……線の、内側だ)
山側を歩くこの足まで、線が来ている。なら、縁を転がっている谷側の車輪は――。
今度は、声のほうが先に出た。
「クライヴさん、止ま――」
ずぼっ。
乾いた段の上で、そこだけが湿った音を立てた。
谷側の後輪が、乾いた表面を踏み抜いて、すねの半ばほどまで土に飲みこまれていた。荷台が谷側へ大きく傾き、積み荷の縄がいっせいに鳴る。栗毛がいななき、前脚が浮きかけた。クライヴが轡にしがみつく。
沈んだ車輪の下で、湿った黒い土が谷のほうへ押し出されていく。車輪が、土ごと谷側へずれた。荷台の後ろが、ずるりと縁のほうへ滑り出す。
縁の向こうは、膝の高さほど低い草地だ。それでも、横倒しになれば荷台は割れる。栗毛も引きずられる。轡を握っているクライヴも、一緒に。
「カイゼル、谷側に入ります!」
叫んだときには、もう荷車の後ろを回りこんでいた。
「持ち上げるな。止めるだけだ。今行く!」
(どこを押す?)
縁板は、初日のように裂ける。車輪は回る。――車軸だ。
谷側の後輪の外に回りこみ、膝を深く折った。鉄の輪をはめた車軸の端に、左肩を当てる。
持ち上げれば、荷車の重さまでこの足に乗る。この足の下も、線の内側だ。
押した。重い。それでも、力は足りている。
それなのに、体が後ろへ下がった。
乾いた土の上で、靴底が滑っていた。かかとが白い土を削り、靴の幅の溝が二本、ずるずると刻まれていく。強く押すほど、速く滑る。
(力は、足りてるのに)
胸の奥の扉が、内側から押された。開ければ、もっと強く押せる。扉には、手をかけなかった。
背中のすぐ後ろに、縁が近づいてくる。あと三歩分。二歩分。
(押し方じゃない。踏み方だ)
三日のあいだ横で見てきた、栗毛の脚が浮かんだ。坂で荷を引くとき、あの馬は蹄を平らに置かない。蹄の先を、斜めに土へ刺している。
右のつま先を、斜めに地面へ突き立てた。
白い表の土が割れ、靴の先が、その下の湿って粘る土に食いこんだ。抜けているのは深いところの一枚だけで、つま先の届く浅い土には、まだ粘りが残っていた。
右足が止まった。左足も、同じ角度で刺す。
肩にかかる重さは変わらない。今度は、押し返した力が全部、つま先から土へ入っていった。
荷車が、止まった。
荷台の傾きがそこで止まり、縄のきしみがやむ。
栗毛の荒い鼻息。クライヴの、言葉にならない声。走ってくる足音。肩に当たっている鉄の輪の冷たさだけが、やけにはっきりしていた。
カイゼルが横に来た。背中の盾を下ろし、片膝をつく。盾の縁を、沈んだ後輪のすぐ前に谷側へ斜めに差しこみ、上から体重をかけて押しこむ。肩の重さが、軽くなった。
「ハロルド!」
前から、ハロルドが自分の荷車の馬を外して引いてきていた。栗毛の前につなぎ、引き綱を二本にする。後ろからベンノが駆けつけて、轡の反対側を取った。
「引け」
ハロルドの声で、二頭が首を下げて踏み出した。沈んでいた車輪が盾の縁に乗り上げ、ゆっくり土から抜けていく。
肩で押し続けた。荷車が動くのに合わせて、つま先を抜いて、刺す。抜いて、刺す。
荷台の傾きが戻り、荷車は山側へ寄りながら段を進んで、段の終わりの平らな場所で止まった。
肩を車軸から外した瞬間、膝が笑った。つま先が、刺した角度のまま固まっている。首筋を汗が流れていた。
◇
カイゼルが盾を土から引き抜いた。縁に、湿った黒い土がこびりついている。
振り返って、段を見た。谷側の縁の手前で、靴の幅の溝が二本、つま先の斜めの穴に変わっている。縁までは、あと半歩しかなかった。
右の靴のつま先で、縫い目が一か所ほつれていた。親指の付け根のあたりで糸が二目切れ、靴底の縁が甲から指一本分浮いている。その隙間に、白い土が詰まっていた。
(……靴が、先に)
段の向こうから、セリナが肩を見ている。肩をぐるりと回してみせると、小さくうなずいた。
その横で、ケスディアの顎が東へ向いた。
「……ラバだ」
段の先、葦が切れたあたりに、人影が一つ、ラバと並んで立っていた。顔は見えない。影はラバの鼻面を引いて向きを変え、東の林の黒い帯のほうへ小さくなっていった。
クライヴは、栗毛の脚を一本ずつなでて、蹄の裏を見ていた。四本とも痛めていない。膝の土を払いながら、段を振り返る。
「……一台目は、なんともなかったのに」
払い終えた膝を、まだ払い続けている。
「ぬかった道は、二台目で抜ける。一台目が、下をこねていくからな。上が乾いてたんで、油断した」
ハロルドの手が、栗毛の首を一度叩き、クライヴの肩も同じ強さで一度叩いた。
クライヴが、こちらを見た。
「……止まれって、聞こえました」
「間に合いませんでした」
「でも、聞こえたから、轡、離さなかったです」
言ってから、クライヴは自分で驚いたような顔をして、また膝を払った。
最後のベンノの荷車は、カルヴァンが重い樽と鉄の道具の箱をアイテムボックスに入れて軽くし、半歩山側へ寄せて通した。何も起きない。
エドガーがマーサを呼んだ。
「書いておけ。帰りの便の道順に関わる」
マーサは荷札の束とは別に、革の表紙の薄い帳面を出し、くぼみの場所と幅と深さ、踏み抜きの一件と日付を書きとめた。ルーシーの言った「半月前」も、そこに書きこまれた。
足の裏のことは、そこには書かれない。
ふと見ると、カルヴァンがひとりで段を下り、くぼみの縁へ戻っていた。さっき手のひらを当てた場所にしゃがみ、親指ほどのガラスの小瓶を出す。縁の土を一つまみ落とし、栓をして、日に透かしてから手のひらに載せ、指を閉じた。開いたときには、瓶はもうない。
今の小瓶には、荷札がなかった。
戻ってきたカルヴァンは、ルーシーの横を通り過ぎた。ルーシーも、口を開かなかった。
◇
段を抜けると、道はもう一度低地へ下りた。日が傾き始めたころ、低地の中で一段高くなった、乾いた砂利の小さな丘で荷車を止めた。
「予定の野営地まで、まだ半日ある。暗くなってから、このあたりを歩きたくない」
誰も反対しなかった。カルディナまであと二日の予定が、二日半になった。
ハロルドとベンノが、丘の縁を一歩ずつ踏みしめながら一周した。少し離れて、後ろをついて歩く。足の裏は、ふつうだった。
「……護衛さん、なんで後ろについてくるんだ」
「念のためです」
「念のために、護衛さんがついてくるのか」
ベンノが首をかしげた。ハロルドは、もう半周、歩く速さを落とした。
「ついてくるなら、俺の踏んだ所を踏め。年寄りの足は、慎重なもんだ」
ケスディアは丘の縁で、東の暗がりを見ていた。
「……あのラバの奴、もう林に着いてるな」
言いながら、足もとの草の根もとに手を伸ばし、何かをつまみ上げた。灰色の毛の房だった。指の長さほどの毛が束になったまま、根もとに白い皮のかけらをつけている。
ケスディアは房を指の腹でしごき、夕日にかざした。
「刃物じゃねえな」
指を離すと、房は丘の縁の風に乗って、暗い草地のほうへ転がっていった。
夕食のあいだ、セリナは鍋をよそう手だけを動かして、最後の一杯のときに、ひとこと言った。
「靴」
「はい」
「カルディナまで、もつ?」
「……縫えば、もちます。針は持っています」
「じゃあ、いいわ。肩は」
「なんともないです」
「なんともない人の回し方じゃなかったわよ、あれ」
前半の番は、ルーシーとカルヴァンだった。
◇
みんなが寝床へ散ると、焚き火のまわりには二人だけが残った。砂利の丘の縁の暗い草地へ顔を向け、細い枯れ枝を、右手の親指と人差し指でつまむ。
蛙が鳴き始めても指先は動かず、三十呼吸もったところで、自分でほどいた。
振り返ると、カルヴァンは薪に手を伸ばしていなかった。
「お前」
荷車の下の御者たちにも届かない高さの声だった。
「あの場所で、何か感じたか」
膝の上で、手が止まった。
「……どうして、ですか」
「くぼみの縁で俺が目を開けたとき、お前は自分の足もとを見ていた。段の上でも、車輪が沈む前に、足もとを見た」
薪を一本、指先がずらす。
「お前は魔力に肌で気づく。カルディナの浅層で床が沈んだ日も、誰より先に足もとを気にしていた」
ほつれた靴の縫い目を、指でなぞった。
初日の丘。くぼみの縁から三歩。段の上。地面が一枚浅かった所を、三つ、話した。言いそびれていたものが出ていって、かわりに、別の重さが残った。
「硬さを踏んで読んだのか、残滓を拾ったのか。……俺には、分からない。肌で魔力に気づく奴は、ときどきいる。足の裏で地面の中まで読む奴は、俺は知らない」
ようやく、カルヴァンが薪を一本足した。炎の根もとが赤くなる。上には伸びない。
「カイゼルには、お前が言え。お前の足のことは、お前の言葉でしか正しく伝わらない」
「……はい」
靴の隙間に詰まった白い土を、指でかき出した。乾いた土が、砂利の上に落ちる。
右の足の裏を、砂利の上にそっと置く。ふつうの深さで、押し返してくる。
それから、カルヴァンの腰のポーチを見た。くぼみの縁の黒い土を入れた小瓶が、まだあの中にある。
蛙の声が、ふいに途切れた。
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