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異世界で普通に生きるために危ない仕事をする 〜なぜか体だけが強すぎる元会社員、目立たず働きたいだけなのに〜  作者: Yuki
第二章 竜哭の遺跡

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第76話 カルディナへの帰還③ 撃てと言われてない

おはようございます。

前回は、カルヴァンの火の話と、ルーシーが初めて「硬化」を教わる夜でした。今回は帰り道の二日目と三日目。枝一本でする地味な練習と、少しにぎやかな旅の道のりです。

 窪地(くぼち)を出てすぐの上り坂を、三台の荷車はゆっくりと上っていった。ベンノの荷車の後輪は、坂の途中で、ほかの二台と同じ拍に戻った。

 昼は、丘を下りきった浅い川の手前で止まった。ハロルドがひとりで長い棒を突いて瀬踏(せぶ)みし、膝下(ひざした)の深さで渡れる筋を見つけて戻ってくる。

「軽いのは、そのままでいい。クライヴのは、尻に縄をつける」

 布と食料を積んだクライヴの荷車が、三台の中でいちばん重い。ハロルドはその荷台の後ろの横木に太い縄を結び、こちらの岸の柳(やなぎ)の幹に一巻きだけかけて、端をベンノに渡した。

「尻が下手へ振れたら、そのときだけ握れ。あとは幹のまわりを、少しずつ送ってやりゃいい」

 クライヴが栗毛(くりげ)の轡(くつわ)を取って、川へ入った。川の真ん中で、荷台の後ろがぐうっと下手へ振れる。縄が張った。ベンノは片手で端を握ったまま、踏んばりもしない。細い腕だ。それなのに、振れはそこでぴたりと止まった。

「一巻きすりゃ、子どもでも荷車を止められる」

 ハロルドが、こちらを見ずに言った。

「……私、両手で引きに行こうとしてました」

「だろうな。顔に書いてあった」

 ベンノの細い腕と、柳の幹でひと巻きした縄とを、何度も見比べた。

 対岸では、男が一人、荷を積んでいないラバに水を飲ませていた。川を渡りながら見ていると、男の目は、ラバにも荷にも向いていない。カイゼル、ルーシー、セリナと、護衛の顔の上を一つずつ移り、移るたびに、唇が声を出さずに一つ動く。

 最後に、その目はケスディアの腰へ下りた。腰の右へ回した、焦(こ)げた覆(おお)いの矢筒(やづつ)だった。

 三台が渡りきると、男はラバの鼻面(はなづら)を引いて、ひと足先に東へ歩いていった。

 見たままを言うのは、難しくない。今度は、迷わなかった。カイゼルの横へ寄る。

「向こう岸の人、私たちを数えていました」

「……ああ。いつからだ」

「こちらが川に入ってからです。顔を一つずつ。最後に、ケスディアの矢筒を」

 カイゼルの目は、男の背中から離れなかった。後ろで、弓を握り直す音がした。

「……見るなら見ろ」

 ケスディアが低く言った。

 濡(ぬ)れた縄の束を肩に掛けながら、ハロルドも東を見ていた。

「低地を抜けた先の、林の坂な。去年の秋、よその商会の便が、あそこで荷を丸ごと持っていかれた。笛が鳴って、矢が並んで、それきりだったそうだ」

 帳面(ちょうめん)を閉じたマーサが言った。

「前のときは、矢は一本でした」

 ハロルドがマーサの顔を見た。マーサは、もう帳面を腰の袋にしまっていた。

 初めてエドガーの荷についた日、雑木林(ぞうきばやし)の斜面で鳴った乾いた笛の音を、ルーシーは思い出した。




    ◇




 午後の短い休憩で、ハロルドが御者(ぎょしゃ)台の物入れから小さな革袋を出し、ルーシーを手招きした。

「今夜から、お嬢さんにも火の番を覚えてもらう。護衛が自分で火を熾(おこ)せりゃ、魔法使いの手が空く。……まずは、石の持ち方からだ」

「あの」

 腰の袋から、自分の火打(ひう)ち石と打ち金を出した。手のひらに収まる黒い石と、曲げた鉄の板。

「……持ってるのか」

「倉庫で働いていたとき、おかみさんに習いました。家でも、毎朝打っています」

 ハロルドは、袋から出しかけた石を袋へ戻した。かわりに、黒く焦がした布の切れ端を一枚よこす。

「なら、打ってみろ」

 焦がした布を、石の角に親指で押さえた。

 背中のほうで、何かが動いた。振り返ると、休んでいたケスディアが矢筒を持ち上げて、ルーシーから遠いほうの脇へ置き直していた。焦げた覆いは、こちらと反対を向いている。

「……念のためだ」

「はい」

 肘は動かさない。手首だけで、打ち金を石の角にかすめさせた。

 しゃっ。

 火花が三つ、四つ。そのうちの一つが、親指で押さえた布の端に落ちた。黒い布の上に、針の先ほどの赤い点が灯(とも)る。

 顔は、寄せなかった。離れたところから、細く、細く息をかける。赤い点が、ゆっくりと広がった。

 (苔(こけ)より、ずっと受けがいい)

 ハロルドが、赤くなった布を指でもみ消した。

「おかみ仕込みか。打ち方に、変な癖がねえ」

「家だと、火花が多すぎることがあります」

「多いのは、足りないよりいい」

 ハロルドは自分の袋に手を入れ、焦がした布をつまみ出した。

「火口(ほくち)は、持っとくもんだ。石と打ち金は、いらんな。……覚えてもらうもんが、もうねえ。今夜の火は、あんたに任せる」

「ありがとうございます」

 袋の口を締めながら、ハロルドが聞いた。

「カルディナの先は」

「竜哭(りゅうこく)です」

「なら、多めだ」

 焦がした布が、三枚、ルーシーの袋に押しこまれた。ハロルドは振り返らずに、自分の荷車へ戻っていった。

 ケスディアが、矢筒を元の脇へ置き直していた。目が合うと、すぐにそらした。

 その夜の焚(た)き火は、ルーシーが打った。

 焚(た)きつけを細いものから順に組み、一打目で火口が赤くなる。焚(た)きつけへ移るのを待ってから、細い枝を一本ずつ足した。カルヴァンは手を出さずに見ていた。

「並べ方が、家の竈(かまど)だな」

「家の竈(かまど)なので」

 カルヴァンは、それきり口を閉じた。いつもなら薪(まき)の下へ差し入れる手のひらは、膝の上に置かれたままだった。

 炎が膝より高く伸びかけたら、足すのを一本待つ。細くなりかけたら、細い枝を一本。

 セリナが吊(つ)るした鍋が、ことことと鳴り始めた。

 膝の上で、火打ち石を一度だけ握った。




    ◇




 三日目の朝は、ハロルドの声で始まった。

「今日は一日、灌木(かんぼく)の中を抜ける。両側の茂みが近い。夕方までは見通しが悪いぞ。……スクリットの縄張(なわば)りだ。荷を狙(ねら)ってくる」

 スクリットには、前に一度会っている。卵の箱を守りに二歩出て、荷車の反対側を丸ごと空けた。帳面に残ったのは『卵、二』の字だった。

 背筋(せすじ)が伸びた。

 地図をのぞきこんだカイゼルがうなずく。

「並びは同じだ。倒すな。追い払うだけだ。以上」

 道の両側に、背の低い灌木(かんぼく)の茂みが続いていた。大人の胸から肩ほどの高さで、細かい枝が絡み合い、奥がまったく見えない。ところどころで、手首ほどの太さの枝が、道のほうへ横に突き出している。

 クライヴの荷車の右側を歩いた。引いているのは、よく耳を動かす栗毛(くりげ)の若い牝馬(ひんば)だ。

 昼は歩きながら左手だけで食べた。午後になると、茂みにこもった熱が道まで押し出されてきた。

 最初に変わったのは、栗毛(くりげ)の耳だった。両耳が、そろって右を向く。灌木(かんぼく)の葉が、一か所だけ下から押し上げるように揺れた。少し離れて、もう一か所。もう一か所。

 カイゼルの右手が、肩の高さまで上がった。止まれだ。三台が順に止まり、轍(わだち)の音が鳴りやむ。

「……人か?」

 ベンノのかすれた声がした。

 灌木(かんぼく)の縁(ふち)から、顔がのぞいた。灰色の毛に覆われた、猿に似た顔。人より少し小さく、長い腕が膝の下まで垂れている。右の茂みから三匹、左から二匹、荷車の後ろからも一匹。

「なんだ、猿か」

 ベンノが長々と息を吐いた。

「猿は、荷を持ってくぞ」

 ハロルドが前を向いたまま言うと、ベンノは吐きかけた息を、もう一度吸いこんだ。

 右の茂みの奥で、ほかより一回り大きい一匹が、高い声で短く鳴いた。五匹が、いっせいに動きを止める。かしらだろう。

「隊列を崩すな」

 カイゼルが盾を前へ回し、先頭の荷車とハロルドの馬のあいだに立った。後ろで、ケスディアが左の二匹へ向き直る。

 栗毛(くりげ)の右前脚の、斜め前に出た。荷車と茂みのあいだに、半歩だけ。

 それ以上は、出ない。

 茂みの縁で、二匹目が身を低くした。肩の毛が逆立(さかだ)ち、後ろ脚の腿(もも)が縮む。肩、背中、腰、腿(もも)。締まっていく順番が、ルーシーには見えた。狙いは栗毛(くりげ)の右前脚だ。

 (来る)

 足首が締まるのを待たずに、剣を抜いた。

 スクリットが茂みから飛び出したときには、刃はもう、そこにあった。

 振ったのではない。走ってくる筋に、刃を一枚、横に寝かせて置いた。茂みの縁と栗毛(くりげ)の脚のあいだ、膝ほどの高さに、平らな腹を向けて。

 前の剣なら、まだ鞘(さや)から抜けきっていない頃だった。

 目の前に銀色の板が現れて、スクリットは四本の脚で地面をかいた。止まりきれずに伸びた前脚が、刃の腹に当たる。かつん。手首には、扉を軽く叩(たた)かれたほどの手ごたえしか来ない。

 スクリットは横に転がって起き上がり、丸い目で刃を見上げ、それからルーシーの顔を見上げた。後ずさりして茂みの縁まで下がり、甲高(かんだか)く一声鳴く。

 腰の奥に、熱がたまった。一歩で茂みの縁の一匹に、二歩で奥の二匹目に。体がそれを知っていて、かかとが浮きかける。

 息を細く長く吐いた。熱が、吐く息と一緒に足の裏から地面へ落ちていく。かかとが下りた。

 剣先だけを動かす。茂みの縁と街道の境目を、栗毛(くりげ)の鼻先まで右へ、荷台の角まで左へ。地面に線を引くように。

 茂みの縁で、いくつもの丸い目が、剣先を追って右へ、左へと動いた。

 右の茂みから、腕ほどの長さの枯れ枝が飛んできた。一匹が半身を出して投げたのだ。回りながら、クライヴの顔へ。

 手首が返った。刃の腹で受ける。かつん。枝は真上へ跳ねて、道の真ん中に落ちた。

 剣先を、線へ戻す。戻る道の途中に、手首ほどの太さの生きた枝が、茂みから道のほうへ突き出していた。

 剣先を、その枝の下へくぐらせた。軽い刃は、思った所で思ったとおりに止まり、枝の下をすり抜けて、線の上へ戻った。葉は一枚も鳴らなかった。

 茂みの奥で、大きな一匹が長く鳴いた。

 六匹が、いっせいに背中を向けた。葉の揺れが奥へ奥へと遠ざかり、やがて風の音と区別がつかなくなる。

「下ろせ」

 カイゼルの声で、剣を下ろした。刃には曇りも欠けもない。張りついていた灰色の毛を一本払って、鞘(さや)に戻した。




    ◇




 後ろで、弓の弦(つる)がゆるむ音がした。ケスディアが番(つが)えていた矢を外している。その目が茂みの奥から、カイゼルの背中へ移った。カイゼルの右手は、止まれの形のまま一度も下りず、撃てという形にも変わっていなかった。

 最後尾では、カルヴァンが後ろの茂みの縁に目を置いたまま、種火(たねび)のひとつも灯していなかった。荷車の後ろの一匹は、一度もその縁から先へ出てこなかった。

 マーサが三台のまわりを一周し、縄を一本ずつ引いて戻ってきた。

「被害なし、です」

 荷札に、線が一本だけ引かれた。

 エドガーは、道の真ん中に落ちた投げられた枝と、一本も欠けていない茂みの縁とを見比べてから、マーサの帳面の端を、インクの染みた指で一度叩(たた)いた。マーサがうなずいて、荷札とは別の行に、何か書き足した。

 クライヴが、ようやく手綱(たづな)をゆるめた。

「あの、さっきの枝。俺の顔に飛んできてたやつ。……ありがとう、ございます」

 頭を下げてから、クライヴは不思議そうに茂みの縁を見た。

「振ってないのに、追い払いましたね」

「剣が、いい剣なので」

 本気でそう答えた。

「……俺も、いつか買います。いい剣」

「……猿でよかった」

 ベンノが手綱を握り直した。

 ハロルドだけは、猿の消えた茂みの奥を、まだ見ていた。

「猿は、もっと西の灌木(かんぼく)にいたんだがな。こんな街道っぺりまで出てくるもんじゃねえ」

「出るぞ」

 カイゼルがようやく右手を下ろした。歩き出してから、前を向いたまま一言足す。

「真ん中は、今のでいい。次も、そこにいろ」

「はい」

 (卵、二。……今日は、半歩)

 セリナが、後ろから小走りに追いついてきた。ルーシーの靴の先と茂みの縁とを、目だけで一度見比べて、何も言わずに持ち場へ戻っていく。戻りがけに、ケスディアの横で足をゆるめた。

「ケスディア。撃たなかったわね」

 少し間があった。

「撃てと言われてない」

 声は平らで、舌打ちは付いていなかった。セリナは、息だけで小さく笑った。

「……そう」

 灌木(かんぼく)の葉が、風で鳴っている。今度は、ただの風の音だった。




    ◇




 夕方、灌木(かんぼく)が途切れて草地が開けた。ハロルドは遠くの木立(こだち)の手前で手綱を引いた。三日目にもなると、倒れた木には手を出さず、乾いた枝だけを三抱え拾える。

 夕食には、マーサが荷台から塩漬けの肉を出させた。

「今日は、荷に傷ひとつつかなかったので」

 ハロルドが厚く切って串(くし)に刺し、火の脇で炙(あぶ)る。脂が落ちて、ぱちりと鳴った。カルヴァンの火が音を立てたのは、それが初めてだった。

「いい音ね」

 セリナが串を受け取りながら言った。

「燃え残りの音だ」

「いいの。おいしい音なんだから」

 カルヴァンは言い返さずに、自分の串にかじりついた。




    ◇




 後半の番で起こされると、カルヴァンがもう膝を抱えて座っていた。斜め横に腰を下ろす。

「見張りをしながら、練習してもいいですか」

「外を見たままで、できるならな。外を見なくなったら、やめろ」

 草地の暗いほうへ顔を向けたまま、右手の親指と人差し指で枯れ枝をつまんだ。

 (もっと、少なく)

 寄せる量を半分にし、その半分を、さらに半分にする。爪の裏をかすかに温めるくらいの、ひとすじだけ。

 足さずに待つと、親指が自分で満ちていった。満ちきる手前で道を細くし、寄せる分と抜けていく分とを釣り合わせる。枝を押す力が、変わらなくなった。

 遠くで夜の鳥が鳴いた。耳はそちらを向いたが、指先は動かない。

 十呼吸。

 十一呼吸目に、荷車の下からベンノの寝言が聞こえた。

「……猿で、よかった」

 喉(のど)の奥で、笑いが跳ねた。跳ねた拍子に、親指の温かさがふっとほどける。

 枝は、折れなかった。

 振り返ると、カルヴァンは火に目を落としていた。

「……十呼吸、もちました」

「数えてた」

 それだけ言って、カルヴァンは薪を一本、そっと足した。

 東の空がまだ暗いうちに、年寄りは朝が早いんだ、とつぶやきながら、ハロルドが荷車の下から這(は)い出してきた。角のすり切れた地図を、焚(た)き火の明かりの届く所に広げる。

「昨日抜けたのが、ここの灌木(かんぼく)だ。今いるのが、この木立の手前」

 太い指が、道を東へなぞる。丘の印が途切れ、その先は何も描かれていない白い場所に、葦(あし)の印がところどころ。

「今日は、ここの低地を抜ける。半年前に通ったときは、何もない平らな道だった。抜けりゃ、カルディナまであと二日だ」

 半月前、エルデンへ戻る護衛で、ルーシーもその低地を通っている。向きは逆だったが、たしかに平らな道だった。

 それなのに、足の裏が、何かを思い出しかけた。思い出しかけたものは、形にならないまま、焚(た)き火の明かりの中に溶けていった。

「暗くなる前に抜けきるには、日が高くなる前に下りておきたい。明るくなったら、すぐ出るぞ」

 ハロルドは地図を畳(たた)み、馬の様子を見に回っていった。

 東の暗がりを見た。これから下りていく方角だ。何も見えない。風だけが、草地を渡ってくる。

 その風に、低地の匂いが混じっていた。湿った土の匂いだった。

 あのときは、こんな匂いはしなかった。

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― 新着の感想 ―
ずっと待っていました。一章でやっと普通の冒険者としてやっていけるようになったルーシーがこれからどうなって行くか気になっていたのですが、新たな章にはいってまた、新たな能力を身に付けられそうでこれからの展…
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