第75話 カルディナへの帰還② 石になる腕と朝の熾火
こんばんは。
本日2本目……今朝久しぶりに投稿してみましたが、帰ってこれて嬉しいです。2本目もお楽しみください
ルーシーは、閉じかけていた目を開けた。
カルヴァンは焚き火の向こうで、さっきと同じ姿勢のまま火を見ていた。
「……今、ですか」
「今だ。続きは後半の番でやる。その前に、頭に入れておくことがある。寝たままでいい」
毛布を肩に掛けたまま、上半身を起こした。地面についた手のひらに、夜の土の冷たさが来る。
「夕方、お前はこの火を見ていたな。なぜ大きくならない」
「カルヴァンが、ずっと何かをしているから、だと思います。何もしていないから揺れないんじゃなくて」
カルヴァンは答えずに、薪を一本、指先でずらした。炎の根もとが一瞬だけ明るくなり、元の大きさへ戻る。
「燃やす量を、決め続けている。それが一つ目だ。二つ目を見せる」
薪の山から、腕ほどの太さの白い木を一本抜いて、焚き火から少し離れた地面に横たえた。
「手を出せ。手のひらを下に向けて、その上に」
言われたとおりに、右手を薪の上にかざす。その手のさらに上に、カルヴァンが自分の右手を開いてかざした。
手の甲が、温かくなった。冬の朝の日なたのような温かさが、上から同じ厚さで降りてくる。
開いていた指が、ゆっくりと閉じ始めた。温かさが縮んでいく。手の甲全体だったものが指三本の幅になり、一本の幅になり、熱さに変わって――最後に、真ん中の一点だけが、針で突かれたように熱くなった。
「っ」
手を引っこめた。下にあった薪の白い肌に、ひと呼吸おいて、赤い点がひとつ灯る。点はすぐに黒くなり、細い煙が上がった。カルヴァンの閉じた指先が横へ動くと、黒い点がそれを追って、薪の上に一本の線を引いた。炎は、一度も上がらない。
「量は同じだ。広げれば温かいだけ。寄せれば、刺さる」
焦げの線を、カルヴァンの指の背が叩いた。
「板は、なぜ裂けた」
「……握りすぎました。添えるだけのつもりだったのに」
「つもりは、量を決めない。お前の体は、全身に垂れ流しだ。決めなかった分は、ある分が全部出る」
膝の上で、右手を握った。
「私にも、あの火は出せますか」
「詠唱も型も知らない奴には、出せん。……それでも、漏れてる。妙な体だ」
思わず、自分の手のひらを見た。どこも変わったところはない。
カルヴァンは焦げの線の残った薪を、焚き火の中へ入れた。炎はそれを受け取って、それでも高くはならない。
「後半の番では、寄せ方をやる。寝ろ。寝不足の頭でやれば、ろくなことにならない」
「はい」
横になって目を閉じても、手の甲の一点が、まだ熱いような気がした。
◇
肩を二度叩かれた。一度目で目が開き、二度目で体が起きる。
カイゼルが片膝をついていた。顔は、窪地の縁のほうへ向いている。
「交代だ。北の縁に、獣の通り道が一本。踏み跡は古い。小川の向こうに一度、何か水を飲みに来た。上がってはこなかった。以上」
それだけ言うと、自分の寝床へ戻って盾を枕元に立てかけた。三つ数えないうちに、寝息に変わる。
少し遅れて、ケスディアが暗がりから戻ってきた。ルーシーの前を通るとき、足が一瞬ゆるんだ。
「……東の茂みは、風下だ」
言うなり、毛布を頭までかぶる。毛布の山に向かって、小さくうなずいた。
カルヴァンの斜め横に腰を下ろした。カルヴァンが南を、ルーシーが北を見る並びだ。
「寄せ方を教える前に、一つ言っておく。俺は、お前の先生じゃない」
前置きはなかった。カルヴァンの目が、眠っている人たちのほうへ向いた。
「俺は、お前を止める側にいる。それが今度の仕事だ」
ありがとうございます、では違う気がした。よろしくお願いします、も少し違う。
「……止められたら、止まります」
「知っている」
すぐに返ってきた。膝を抱え直す。胸の奥のどこかが、ゆるんだ。
「寄せる先は、前腕だ。全身に流している分を、一か所に集める。集めた所は、硬くなる。硬化だ。刃を腕で受けるときに使う」
「どうやって、ですか」
「お前はもう知ってる。グレイヴのところで、外へ出ようとする力を引いて、一本にまとめていただろう。あれの、行き先を変える。息を使ってな。……立て。刃を受けるのは、たいてい立っているときだ」
立ち上がり、左の袖をまくった。目を閉じる。
息をお腹の底まで落とし、体の中にいつも流れている温かさを探す。指先にも、足先にも、背中にも。
吐きながら、左の前腕のことだけを考える。
(こっちへ)
温かさが、ゆっくりと傾いた。背中から、肩から、脚から、少しずつはがれるようにして、左腕へ下りていく。前腕の中身が詰まっていく。指は動くのに、前腕だけが、自分のものではないように静かだ。
(……石みたい)
そう思った瞬間、膝が、かくんと抜けた。
階段がもう一段あると思って足を下ろしたら、そこに段がなかった。そんな抜け方だった。片膝をつき、右手を地面についた。いつもなら手一本で押し上げられる体が、上がらない。
焚き火の揺れが、急に速く見えた。小川の音も早口だ。速くなったのは周りではない。自分のほうが、一段遅くなったのだ。
「そのまま動くな」
カルヴァンの手が、ルーシーの腰から小刀を抜いた。カルディナで貸したまま、朝の分だと言って返させなかった小刀だ。刃を返し、背を左の前腕に当てる。
こつん。
木の机を指で叩いたような音だった。肌はへこまず、刃の背が跳ね返って浮いた。
もう一度、今度は強く。
こつん。
赤い跡すら残らない。
一呼吸。
東の茂みで、草が鳴った。風の鳴り方ではない。低いところを、何かが草を分けてくる。風は、窪地から東へ抜けていた。
(……風下)
最後尾の荷車の陰で、焚き火の明かりを返して、目が二つ、緑に光った。少し後ろに、もう二つ。
立とうとした。膝が言うことを聞かない。前腕だけが、まだ石のままだ。
「動くな」
小刀を持たないほうの手を、カルヴァンが荷車の陰へ向けた。開いた指を、ゆっくり閉じていく。
二呼吸。
先頭の獣の前足の先で、落ち葉が一枚、赤く灯った。炎は上がらない。薪に線を引いたときと同じ、針の先ほどの赤。葉の焦げる匂い。
獣が鼻を鳴らして跳びのいた。焚き火の明かりの縁に、灰色の毛並みと長い鼻先が一瞬浮かぶ。ヴァルだ。耳を伏せて二歩下がり、向きを変えて茂みへ消えた。もう一頭も続く。緑の光が二つずつ、闇の奥へ遠ざかって消えた。
三呼吸。
硬さが、ほどけた。全身に、いつもの温かさが戻る。右手で地面を押すと、ふつうに起き上がれた。肘から手首が、じんわりと熱い。
「……今のが」
「三呼吸だ。初めてにしては長い」
カルヴァンは小刀の刃を戻して、柄をこちらへ差し出した。
「見てのとおりだ。寄せた分だけ、ほかが空く。刃が来る一瞬だけ寄せて、すぐにほどけ。今は、寄せられると知っておけばいい」
受け取った小刀を、腰に戻した。膝が、まだ細かく震えていた。
◇
月が丘の稜線を越えるまでに、あと二度、前腕に寄せた。二度目は二呼吸でほどけ、三度目は途中で息が乱れて、半分も集まらない。そこで、カルヴァンが手を振ってやめさせた。
東の空の底が灰色に変わるころには、焚き火は炎を上げなくなっていた。薪は形を残したまま赤く透け、白い灰をうっすらとまとっている。
カルヴァンが、焚き火の脇の平たい石を指で叩いた。
「朝の火は、お前が起こせ。熾火は、まだそこに残っている」
「はい」
家の竈なら、毎朝やっていることだ。細く割った焚きつけを三本、熾火の上に交差させて載せる。
顔を寄せる。熱が頬にじかに来る。
(……そっと)
倉庫のおかみが、手のひらを下に向けて押し下げてみせた、あの「そっと」だ。
息を吹きかけた。
三か月、腹の底から吐く練習をしてきた息だった。
熾火の上の灰が、いっぺんに舞い上がった。三本の焚きつけがまとめて燃え上がり、炎が膝の高さまで跳ねる。
ぼっ。
熱が顔を打ち、前髪の先が縮れる匂いがした。のけぞりながら吐ききった息の残りが、燃えはじめた焚きつけの端を吹き飛ばした。火の粉と燃えさしが、橙色の雨のように石の輪の外へ散る。
火の粉のひとつが、セリナの毛布の端に落ちた。布の縁が、ちりちりと黒く縮んでいく。燃えさしのかけらは、ケスディアの矢筒の布の覆いに乗り、焦げる匂いが立った。
体が動きかけた。それより先に、カルヴァンの手が出ていた。
素手で、セリナの毛布の端を押さえる。ぱん。そのまま体をひねり、矢筒の覆いの燃えさしを指で弾き飛ばして、焦げかけた布を手のひらで押さえつけた。ぱん。
細い煙がひとすじ上がって、消えた。セリナは口を半分開けたまま、すうすうと寝息を立てている。
カルヴァンは燃えさしを一本ずつ石の輪の中へ戻し、焚きつけを組み直して、下に手のひらを差し入れた。火が戻る。眠る前に見たのと同じ、煙を出さない火だった。
額の上で、焦げた毛の匂いがする。
「……すみません」
声がかすれた。
カルヴァンは、自分の右の手のひらを火にかざして見ていた。少し赤くなっている。
「手、大丈夫ですか」
「熱を逃がすのは、得意だ」
カルヴァンは手を握って、開いた。
「どのくらいの息で吹いた」
「そっと、のつもりでした。家の竈と同じくらいの」
「腹から吐く息を、三か月やらせたのは俺だ。外へ吹くほうは、やらせてない。顔を寄せさせたのも俺だ。見立てが甘かった」
ようやく、こちらを見た。
「課題を出す。椀の次は、枝だ」
焚きつけの山から、指ほどの細さの枯れ枝を一本抜いて、差し出した。長さは手のひらほど。
「親指と人差し指で、つまめ。親指にだけ寄せろ。寄せても、握るな。折らず、揺らさず、抜かずに保て。吐いても、吸っても、喜んでも、驚いても、枝を押す強さは同じままだ」
「抜かず、というのは」
「寄せた分を、途中で逃がすな。それと、魔法の真似はするな。カルディナまでも、その先の遺跡でもだ。焼けるのが、味方かもしれん」
セリナの毛布の焦げ跡を見た。ケスディアの矢筒には、乾いた矢羽が何十本も入っている。
「今、やってみてもいいですか」
「離れてやれ。寝ている者のそばで、枝を鳴らすな」
窪地の縁へ移って、枝を一本、親指と人差し指でつまんだ。温かさを右腕へ寄せていく。肘を越え、手首を越え、親指の先へ。前腕のときより、ずっと細い道だった。
届いた瞬間、親指がひとりでに締まりかけた。慌ててゆるめた指から、寄せた分がするりと手首へ抜けていく。枝は、指のあいだで冷えたままだった。
「今日はそこまでだ」
振り返ると、カルヴァンは何事もなかったような顔で、薪を一本足していた。
◇
セリナが目を覚ましたのは、空がすっかり明るくなってからだった。毛布を畳みかけて、端の黒く縮れた焦げ跡に目を落とす。焚き火を見て、カルヴァンを見て、最後に、灰で黒い右手を背中に隠しているルーシーを見た。
「……ねえ。これ、何?」
「火の粉だ」
「煙も出ないこの火から?」
「出るときもある」
「まあ、いいわ。穴は開いてないし。開いてたら、カルディナで新しいのを買ってもらうから」
「はい」
「なんであんたが返事するの?」
カルヴァンの肩が、小さく揺れた。笑ったのだと、今度は分かった。
少し離れたところで、ケスディアが矢を一本ずつ引き出して羽根を確かめ、全部戻して、焦げた覆いをそのままかぶせ直していた。
目が合った。ケスディアが口を開きかけたとき、最後尾の荷車の下から、ベンノの裏返った声がした。
「おい。……おい、なんだこれ」
片方の靴を手に持ったまま、ベンノが這い出したところで止まっていた。荷車の脇の柔らかい土に、四本指の足跡が点々と続いている。茂みのほうから来て、ベンノの靴の三歩手前で、くるりと向きを変えていた。そこに、黒く焦げた落ち葉が一枚。
ケスディアは足跡を見下ろし、ルーシーを見た。
「……風下だって言ったろ」
「はい。来ました」
「来たのかよ!」
ベンノが靴を胸に抱えこんだ。ケスディアは矢筒を腰に回して立ち上がり、小川へ顔を洗いに行った。その背中に、心の中で頭を下げた。
朝の粥のあと、ハロルドがベンノの荷車の後輪の前にしゃがみこんだ。油を差す前に、足跡が向きを変えた所の、焦げた葉を指でつまみ上げる。
「葉っぱ一枚の焦げで、引き返してる。夜のヴァルは、火を嫌うもんだ」
葉を捨てて、車輪のほうへ向き直った。
「……嫌ってくれるうちは、まだいい」
車輪を回し、耳を寄せて、油を二滴だけ落とす。
「お嬢さん。出発したら、こいつの音を一度聞いてくれ」
「はい」
「今日も同じ並びで行く。昼は川の手前で止まる」
カイゼルが盾を背中に掛け、ハロルドが手綱を鳴らした。
隊列が動き出す。ベンノの荷車の後輪の音に、耳を澄ませた。昨日は一拍遅れていた音が、今日は半拍。
振り返って、ハロルドに人差し指を一本、横に倒して見せた。ハロルドがうなずく。
後ろで、毛布を丸めた背嚢を背負い直しながら、セリナが言った。
「次は、髪の毛だったりしてね」
ルーシーは振り返らずに、縮れた前髪の先を、指でそっとつまんだ。




