第74話 カルディナへの帰還① 握りすぎた手と丁度いい火
おはようございます。
大変お待たせしました。本日より3日間毎日投稿します。しばらくは朝7時にアップする予定なので、またお付き合いください。
東門の扉が開ききると、ルーシーたちの隊列はゆっくりと門をくぐった。
カルヴァンの言う「ただの護衛」は、カルディナまでだ。荷を届けたら、五人はその先の竜哭の遺跡へ入る。
石畳は二十歩ほどで途切れ、踏み固めた土の道になった。夜明け前の冷えた空気に、湿った土の匂いが混じる。
歩きながら、右手を一度握って、開く。今朝グレイヴと打ち合った指の内側が、まだ熱い。
――生きて帰れよ。
荷車は一頭立てが三台。先頭の御者はハロルドという年配の男で、白髪まじりの髭を短く刈りこみ、手綱を膝に置いたまま、馬の耳の向きばかり見ている。二台目は若いクライヴ、三台目は背中の丸いベンノ。
道がゆるい下りにかかったところで、先頭のカイゼルが足を止めずに振り返った。
「前に出るな。穴を作るな。追うな。以上」
言うなり、また前を向く。
後ろで、セリナが小さくあくびをした。
「朝いちばんに三つも言われると、覚えきれないわ」
「三つだけです」
「三つもよ」
その隣で、ケスディアが矢筒の紐をほどいていた。森で裂かれた右腕は、まだ肩より上がらない。背中にあった矢筒を腰の右へ回し、一本抜いて戻してから、紐を締め直す。
目が合った。
「……何だよ」
「いえ。そこなら、届きますね」
「届くようにしたんだよ」
ケスディアは弓を左手に持ち直して、カイゼルの背中のほうを向いた。
前を向き直ると、結んだこげ茶の髪が背中で揺れた。腰の剣も揺れる。昨日、金貨二枚で手に入れたミスリルの剣だ。軽いぶん、揺れは速い。それでも一歩の幅は、中央の荷車の横の決められた位置から、半足もずれなかった。
◇
一時間ほど歩くと、岩のあいだから湧いた水が、浅い石の水槽にたまっている場所に出た。
「少し休む。馬に水をやれ。樽もここで満たす」
マーサが中央の荷車から小さな水樽を二つ下ろして、湧き水で満たした。油紙で包んだ布の束と、予備の紐の束も並べる。
「カルヴァン。お願いしていた分です」
「ああ」
最後尾から来たカルヴァンが、満たしたばかりの樽に手を触れた。樽が消えた。地面には、底の丸い跡だけが濡れて残る。二つ目の樽、布の束、紐の束。触れるたびに、一つずつ消えていく。
馬に水を飲ませていたクライヴが、手綱を握ったまま口を開けた。
「……い、今の、どこに行ったんですか」
「中だ」
「中って、どこの」
「中は、中だ。出すときは俺に言え。入れた順に出す」
マーサが荷札に印をつけた。
「受け取り、確認しました」
門の前で帳簿を渡したときは、手を宙に残したまま二度まばたきをしていた人だ。
(……慣れるの、早い)
水槽で手を洗っていたセリナが、くすりと笑った。
「クライヴくん、そのうち慣れるわよ。私は慣れるまで腹が立ったけど」
「どうして腹が立つんです?」
「便利すぎるからよ。こっちが重い荷物を担いでる横で、あの人だけ手ぶらなんだもの」
「……なるほど」
ベンノが「違いねえ」と笑い、水を飲み終えた馬の、尻に回した革帯を叩いた。
「こいつも、しりがいがゆるんでら」
知らない言葉だった。
「しりがい、ですか」
「尻に回す、この帯だよ。護衛さん、馬は初めてか」
「乗ったことは、ほとんど。暴れていたのを、手綱で回したことなら一度」
「……回した?」
「止まらなかったので、草地をぐるぐると」
「荷車がついてるときは、それはやるなよ。馬より先に、荷台が回っちまう」
ベンノは、馬の尻の革帯を指で弾いた。
「こいつがゆるむと、下りで荷車が馬の尻を押すんだ。押された馬は、たいてい俺より先に泣く」
(しりがい。……板に書こう)
腰の単語帳の板に、指で一度触れた。
休憩が終わると、隊列はまた歩き出した。轍の底は昨夜の雨でまだ柔らかく、あいだの盛り上がりは乾いて硬い。考えなくても、足の裏が拾ってくる。
下り坂で、ハロルドの荷車が少しずつ速くなった。一台目と二台目のあいだが開いていく。二歩だけ前へ出て、その隙間の横に立った。クライヴが気づいて手綱をゆるめ、あいだが詰まる。二歩下がる。
すぐ後ろで、鼻から短く息を吐く音がした。振り返ると、カルヴァンが何も言わずに、最後尾へ戻っていくところだった。
前を向き直って、ゆるみかけた唇を引き結んだ。
◇
日が高くなりかけたころ、道は坂を下りきって平らになった。右手に、雨水を流す溝。溝と道のあいだの路肩だけが、黒っぽく湿っている。
最後尾の車輪の音が、少し変わった。右の後輪だけが、ときどき一拍遅れる。御者台のベンノは丸い背中をさらに丸め、手綱をゆるく持ったまま、あくびの続きのような顔をしている。馬が少しずつ右へ寄っていた。
(あの車輪、路肩に寄りすぎてる)
何と言えばいいのか、一瞬迷った。止まれ、か。右です、か。
その一瞬で、遅かった。
ずぶり、と湿った音がした。
右の後輪が、黒い路肩に落ちた。荷台が右へ傾き、布の束が縄の中でずるりと滑る。馬が前へ体を投げ出したが、沈んだ車輪は穴の縁を越えられない。引くたびに、かえって縁へめりこんでいく。荷台の右の縁から、小さな樽が半分はみ出した。
「おい、待て、待てって!」
ベンノの声が裏返った。
足が、もう地面を蹴っていた。
荷車の真後ろへ回りこむ。左足を轍のあいだの乾いた盛り上がりに、右足を轍の縁に。荷台の右後ろの角の下に、右手を差し入れた。受けるのは、沈んだ車輪が背負っている分だけでいい。手のひらで受け、指は縁板に添えるだけ。
膝を落とし、脚で立ち上がった。
重さが、手のひらから肩へ、背中から脚へ、一本の柱になって通る。荷台の角が浮く。
車輪をよじることにしか使われていなかった馬の力が、まっすぐ前へ向いた。車輪がぬるりと縁を越え、黒い土がぼとぼとと落ちる。ベンノが手綱を左へ引いた。
角を持ったまま二歩ついて歩き、車輪が固い轍に乗ったのを見てから、そっと下ろした。
みしり、と右手の中で乾いた音がした。
縁板が、指の形にへこんでいた。日に焼けて灰色になった古い板だ。四本の指の跡が食いこみ、そのうちの一本は、もとのひびから木目に沿って裂けて、白い繊維がささくれ立っていた。
(……添えるだけの指が、握っていた)
手を離して、裂けていない隣の板に、手のひらだけを置き直した。指は浮かせたまま、重さも乗せない。板は、鳴らなかった。
振り返ると、さっきまでルーシーが歩いていた中央の荷車の横に、ケスディアが立っていた。弓を左手に下げたまま、草地のほうを見ている。誰に言われたのでもなく、空いた穴に入っていた。
先頭からカイゼルが戻ってきた。路肩の穴、戻った車輪、裂けた縁板。中央の荷車の横のケスディアを見て、最後にルーシーの顔を見る。
「次は、声をかけてからだ」
怒っている声ではなかった。
「……はい。すみません」
車輪が沈む前から、気づいていたのに。
マーサが荷札に書きこんだ。
「縁板一枚、補修。荷の被害なし」
◇
昼の休憩は、道沿いに一本だけ立っている樫の木の下でとった。
黒パンをかじっていると、マーサが小さな鍋を差し出してきた。
「煮豆です。縁板の手間賃だと思ってください」
真顔だった。
「……払うのは、私のほうでは」
「ですから、手間賃です。板を直す手間の」
「それは、私が払う手間賃です」
「ええ。ですから、豆で払っていただきます」
隣でセリナが噴き出した。そこでようやく、冗談だと分かった。
(経理の冗談は、決裁が下りるまで分からない)
少し離れたところで、ハロルドが手綱を布で拭いていた。手を動かしたまま、こちらを見ずに言う。
「お嬢さん。あんた、車輪が沈む前から気づいてたろう」
口の中の豆を飲みこんだ。
「……音が、少し変わったので」
「そうだ。ベンノの車は、沈む少し前から揺れ方が違ってた。護衛は、たいてい茂みと空ばかり見てる。車輪の音を聞いてる奴は、そうはいない」
ハロルドが、ようやく顔を上げた。
「どこで覚え――」
言いかけて、首を一度振った。
「いや、言わんでいい。聞く奴は、聞く。そういうもんだ」
布が、また手綱の上を動きだした。
「ベンノの後ろの車輪な。晩に泥をかき出して、朝に油を差す。今日のうちは、あのままだ」
「それと、昼でも茂みからは目を離さんほうがいい。今年は、昼の街道にもヴァルが下りてくるそうだ。よその便が、昼飯どきに馬を一頭やられた」
「昼に、ですか」
「昔は、日のあるうちは出てこなかったもんだがな」
ハロルドはそれきり、手綱に目を落とした。
午後、道は乾いた丘のあいだを縫って続いた。踏むたびに、白い土ぼこりが薄く立つ。
枝が一本だけ南へ曲がった、背の低い木の横を過ぎたときだった。右のかかとが地面に着いた瞬間、小さな違和感が来た。
最初の硬さは、いつもどおり。その奥から来るはずの、もう一枚の重い手応えが、遅れて、薄い。厚い板の下が空いているときの、あの感じだった。
(……今の、何?)
次の一歩を、わざと同じ場所の近くに置く。ふつうの硬い土だ。土の色も、草の生え方も、さっきまでと同じ。荷車は何事もなく通り過ぎていく。
カイゼルに言うべきだろうか。足の裏が変な感じがしました、と言われて、カイゼルは何をすればいいのか。
口を閉じたまま、あの低い木と、かかとに残った浅い感触だけを覚えておいた。
◇
日が傾くころ、カイゼルは街道から少し外れた窪地を野営地に決めた。荷車三台で入口をふさぎ、馬は内側につなぐ。
薪は、ルーシーとケスディアで集めることになった。倒れた太い木を見つけて両手をかけると、横から短い声が飛んできた。
「それ折ったら、音が出るだろ。太いし、湿ってるし。燃やしたって煙ばっかりだ」
「……はい」
「乾いて浮いてる枝だけでいいんだよ。藪に引っかかってるやつ」
ケスディアは藪から細い枯れ枝を選んでは、湿ったものを元に戻していく。
「詳しいんですね」
「狩りの席で覚えた。……家の連中は、火なんか自分で熾さなかったけどな」
言ってから、ケスディアは自分の言ったことに顔をしかめ、枝の束を抱え直して先に戻っていった。
窪地の真ん中では、カルヴァンが石を円く並べ、隙間を空けて枝を組んでいた。組み終えると、薪の下に手のひらを差し入れる。
火が点いた。
音がしない。細い枝の先がいっせいに赤くなり、手のひらほどの橙色の火が立つ。縁だけが白い。浅層で見た、そこで止まっている火と同じだった。あのときは怖かった。今は、その上に鍋がかかろうとしている。
鍋を抱えてきたセリナが、それを火の上に吊るした。
「煙が出ないのね。目にしみなくて助かるわ」
「煙はな、燃え残りだ。燃やしきれなかった分が、煙になる」
「へえ。じゃあ、私の料理の焦げも燃え残り?」
「あれは腕だ」
「失礼ね」
鼻を鳴らして、セリナは鍋に麦と干し肉と根菜を入れた。
ルーシーは、まだ火を見ていた。窪地の縁を風がなでても、炎の先は傾いて、すぐ戻る。薪が一本崩れても、大きさが変わらない。
(……誰かが、ずっと手で支えているみたいな火)
当のカルヴァンは、火をほとんど見ていない。鍋の位置を確かめ、薪の残りを数え、窪地の外へ目を配る。それなのに、ときどき思い出したように、指先で薪をずらす。
「何を見てる」
「……火です。大きくならないところを」
カルヴァンが薪を一本ずらした。炎の形が、わずかに整う。
「丁度いいのが仕事だ」
目はもう、窪地の外へ戻っていた。
粥が煮えた。セリナが御者たちから順に椀によそっていく。
ルーシーは、空になった椀を差し出した。カルディナの草地で、三か月水を張った木の椀だ。セリナが二杯目をよそった。カルヴァンは椀を一度だけ見て、火へ目を戻した。
ハロルドはベンノの荷車の後輪の前にしゃがみこみ、細い棒で、車輪の中心の筒から泥をかき出し始めた。
カイゼルが立ち上がり、盾を背中に戻した。
「見張りは二交代だ。前半は俺とケスディア。後半はカルヴァンに伝えてある」
焚き火のそばには、ルーシーとカルヴァンが残った。セリナはもう、毛布にくるまって寝息を立てている。
火は、同じ大きさで燃えていた。膝を抱えて、それを見る。
「同じ形で歩けるといいですね」
気づくと、口に出していた。
「何がだ」
「隊列です。先頭がハロルドさんで、真ん中がクライヴさんで、後ろがベンノさん。カイゼルが前で、私が真ん中で、カルヴァンが一番後ろで。……その形のまま、カルディナまで」
カルヴァンが薪を一本足した。炎の根もとが赤くなる。上には伸びない。
「変わらないことが、一番難しい」
膝の上で、右手を開いた。昼間、縁板を裂いた手だ。あのときの右手は、丁度よくなかった。
指先を火のほうへ向けかけて、下ろした。
毛布を肩まで引き上げる。目を閉じる前に、もう一度だけ火を見た。
カルヴァンが言った。火から、目を離さないまま。
「後半の番は、お前と俺だ」
薪が一本、音もなく崩れた。炎の大きさは変わらない。
「火の話をする」
カルヴァンの目が、毛布の端から出ているルーシーの右手に落ちた。
「……お前の手の話だ」
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