第73話 旅立ちの朝
飲み会の翌日、ルーシーは机の上の剣を、鞘から抜いた。
刃の先のほうに、細い欠けが並んでいた。その中に一つ、ひときわ深い欠けがある。カイゼルの盾をかすめたときのものだ。
武器屋の扉を押すと、油と鉄の匂いがした。
「おう。久しぶりだな。今日はどうした?」
「刃が欠けているんですが、直せますか?」
店主は刃先を覗き込み、欠けを一つずつ指でなぞって、低く唸った。
「何を切ったらこんなにぼろぼろになるんだ?」
「スクラヴァルを、何体か。あと、ボスも、です。一応」
「ボス?」
「あと、味方の盾を、少し」
「味方のは切るな」
店主は刃を目の高さに上げ、根もとから先まで、片目でなぞった。
「それに、反ってる。爪の厚みほどだがな。一度、でかい物を受けただろ」
「天井を、少し」
店主は、自分の店の天井を見上げた。天井は、無事だった。
「この剣じゃ、もう持たねえ。ちょっと待ってろ」
奥から戻ってきた店主の手に、別の剣があった。
「握ってみろ」
持ち上げた瞬間、肩が拍子抜けした。
「軽いですね。長さも幅も大体同じなのに」
「ミスリルだ。硬くて、軽い。この街じゃ良すぎて売れ残ってた。金貨二枚でいい」
刃を傾けると、光が刃の上に溜まらず、薄い線になって走っていった。
ルーシーは金貨を二枚、カウンターに並べた。かつん、かつん、と澄んだ音が二つ鳴った。
「これ、ください」
「毎度。前のは置いてけ。研いでおく。味方のは、切るなよ」
「気をつけます」
新しい剣は、左の腰に、柄を前へ倒して斜めに吊った。
通りで荷を担いだ男と肩がぶつかりかけ、右手が癖で肩の上へ行った。空をつかんだ。
(背中、軽い)
昼のギルドのカウンターの前に、見慣れた背中が揃っていた。いちばん大きな背中の盾で、欠けていた所に、打ち直したばかりの金具が白く光っている。その背中が、振り向いた。
「休めたか」
「はい。おかげで、寝すぎました」
「なら、明日から数に入れる」
セリナの視線が、先に腰へ落ちた。
「あ、武器変えたの? 背中じゃなくて、腰なのね」
「売れ残りを、譲ってもらいました」
刃を半分ほど抜いて見せると、セリナが身を乗り出した。
「うわ。きれいな剣。鏡にもなりそう」
セリナは刃に自分の顔を映して、前髪を直した。髪紐の結び目のこぶが、刃の上で小さく揺れた。その奥に、ルーシーのこげ茶のポニーテールが、細く映っていた。
(なってた)
「先走りそうな剣だな」
横から見ていたケスディアが、ぽつりと言った。
「あんたが言うんじゃないわよ」
セリナが返す。ケスディアは聞こえないふりで、矢筒の蓋を閉めた。
裏の扉が開いて、マレーナとエリーが出てきた。閉まりきる前に、廊下の先の執務室が見えた。ギルド長の机の端に、坑道から持ち帰った粉の布包みが、まだ載っている。その下に広げたままの地図で、北の森の縁の炭の丸が、前に見たときより増えていた。縁からこぼれるように、森の外にまで打ってある。
(増えてる)
扉が、ぱたんと閉まった。
「みんな揃ったわね。昨日の話の続きよ」
「アイテムボックス持ちの、魔法使い」
カイゼルが言うと、マレーナが頷いた。
「条件に合う人がいるわ」
エリーがびくっと肩を揺らし、奥の扉へ目を飛ばした。その扉が、もう一度開いた。
入ってきた男には、派手さがなかった。地味なローブに、空の両手。
ルーシーの口が、勝手に動いた。
「おはようございます」
昼だった。
男は、窓から差しこむ日の高さを一度見た。
「朝の癖が抜けてないな」
「誰?」
セリナが目を細めると、マレーナが答えた。
「カルヴァン。火属性の魔法使いよ」
「今日から、うちのパーティに入ってもらう」
カイゼルが言葉を継いだ。
ローブの胸もとで、プレートが一枚、灯りを拾った。銀ではなかった。金だった。
(あれ? B?)
「いつの間に、って顔してる」
「してません」
「してる」
カルヴァンは、胸のプレートを指で一度弾いた。
「お前の朝を見てるあいだに、俺の昼も進んでた」
「火属性ってことだけど、むやみに撃たないでしょうね」
セリナが言った。
「燃やしすぎるのが嫌だから、俺がいる」
「その言い方、嫌いじゃないわ」
「荷主とは、明日の朝、東門で顔合わせよ。グレイン商会」
「エドガーか」
カルヴァンが聞き返すと、マレーナが頷いた。ルーシーの背筋が、少しだけ伸びた。
ケスディアが、ルーシーの腰の剣を見た。
「その剣。振ってみたのか」
「まだです。今から、少しだけ」
「少しだけで済むのか」
「済まないわよね」
セリナが笑った。ルーシーは否定できず、鞘を軽く押さえた。
「済むようにします」
「夕方までには戻れ。夜は明日に備えろ。以上」
ギルドの扉に手をかけたとき、背中から声がした。
「ルーシー」
カウンターの内側で、マレーナのペン先が、紙から浮いていた。
「明日の朝は、門まで見送りに行けないから。……いってらっしゃい。ちゃんと、帰ってきなさい」
この前は、「ちゃんと、帰りなさい」だった。
(帰ってくる所、なんだ。ここが)
ルーシーは扉の取っ手を握ったまま、すぐには押さずに、頭を下げた。
「行ってきます」
マレーナは小さく頷いて、台帳に目を落とした。とん、とペン先が鳴る。その横で、エリーが帳簿を顔の前まで持ち上げていた。
◇
昼下がりの訓練場には、誰もいなかった。
新しい剣を抜き、肩から先を流すつもりで、そっと振った。剣が、腕を連れていった。刃先が杭の頭をかすめ――遅れて、杭の頭が、すぱりと斜めに滑り落ちた。
周りを見た。誰もいない。もう一度見た。やはり、誰もいない。
杭の頭を拾って、元の上にそっと載せた。平らすぎる切り口は、ぴたりと収まった。離れて見ると、何事もなかったように見える。見えるだけだった。
その夜、荷をまとめ終えてから、紙の『どこで勝手に出たか』の下に、三行だけ書き足した。紙を四つに畳んで、胸もとにしまった。
◇
夜明け前、門へ向かう前に、ルーシーは訓練場へ寄った。杭のことは、発つ前に誰かに言っておきたかった。載せただけの頭に朝いちばんの誰かが手をかければ、落ちて足に当たる。
(現場に戻ってくる犯人って、こういう気持ちなのかな)
薄闇の中に、木剣を肩に担いだ大きな影が立っていた。ちょうど、あの杭の横に。
「予定を一つ飛ばした。今日発つと聞いて、確認しに来た」
グレイヴだった。
「ありがとうございます。……その前に、報告が一つあります」
ルーシーは、グレイヴの横の杭を手で示した。
「昨日の昼、その杭を斬りました。新しい剣で、そっと振ったつもりでした。頭は、載せてあるだけです」
グレイヴは、杭の頭を指で弾いた。載せてあっただけの頭が、ころりと地面に落ちる。斜めの切り口が、薄闇の中で白く平らだった。
(杭に、二敗目)
「ふん。いい剣を買ったな。……黙って発つ奴よりは、ましだ」
落ちた頭を爪先で柵の根もとへ転がしてから、グレイヴはこちらを向いた。
「報告を聞く。どこで勝手に出た。どこで引けなかった」
ルーシーは胸もとから、四つに畳んだ紙を出した。
「書いてきたのか」
「戻ってこられる頃には、いないので。ギルドに預けるつもりでした」
「読まねえ。口で言え」
ルーシーは紙を握ったまま、背筋を伸ばした。
「勝手に出たのは、一回です。森で、味方の盾の縁を欠きました。欠片が、仲間の顔の横を抜けました。そのあとは、引けました。自分で入れたのも、一回です。二十歩離れてからやりました」
「声は」
「『引く』と言いました。口が、先に動きました」
「勝手に一回。入れて一回。あとは、引けた。数えて言えるようになったな」
グレイヴは壁ぎわの木剣を一本取って、ルーシーへ放った。それから自分の木剣を構えた。最初から、両手だった。
「両手、ですか」
「片手で足りる相手に、夜明け前に来るか。まずは十本、打ってこい」
木がぶつかる音が、冷たい空気を割った。グレイヴの一撃は重いのに、遅くない。三本目を踏ん張って受けた瞬間、体が勝手に浮きかけた。すぐに止めて、通り道を一本にする。木剣の当たる音が変わった。
十本目を受けたところで、グレイヴが木剣を引いた。
「十本。浮きかけたのは三本目だけだ。前は、数える気にもならなかった」
言われて初めて、自分の足裏が砂をしっかり噛んでいると分かった。
「ヴァルキアなしなら、もう崩れねえな。次。全力で来てみろ。今ならお前の相手ができる」
喉が鳴った。
怖い。怖いまま握ると、失敗する。ルーシーは一歩引いて、距離を取った。グレイヴの後ろには、誰もいない。自分の後ろにも、誰もいない。
そして、胸の奥の扉を少しだけ開けた。
「ヴァルキア」
足もとの砂が、ルーシーを中心に、輪の形に沈んだ。
グレイヴの木剣が来る。肩が動くのが先に見え、木剣はそのあとから来た。いつもなら一つに重なって見える二つが、今朝ははっきり分かれている。外へ一歩出て、打ち返した。
手応えが、軽すぎた。
止めて、絞って、一本にする。踵が砂に落ち着き、木剣の音が戻ってきた。ルーシーはそこで止まり、止まったまま息を吐いた。喉が熱く、目の奥が痛い。
グレイヴの踵の後ろの砂が、指二本ぶん盛り上がっていた。
訓練場であの足が下がるのを見たのは、初めてだった。
「驚いたな」
「すみません」
「謝るな。今のは、やってよかった」
グレイヴは木剣を左手に移し、右の掌を差し出した。
「最後だ。入れて、当てて、引け」
一秒ぶんだけ流れを通し、木剣の腹を、差し出された掌へ運ぶ。
ぺた、と間の抜けた音がした。
掌は、動かなかった。遅れて、グレイヴの足もとの砂だけが、輪の形に沈んだ。
グレイヴは掌を一度握って、開いた。
「漏れはまだ少し残ってるが……近い所までは来てる」
近いと言われるほどの実感は、ない。怖さだけが、手のひらに残っている。それでも、今朝は二十歩、離れなかった。
「ヴァルキアなしの剣は、免許皆伝だ。ここから先は、俺が教える話じゃない」
「ありがとうございます」
「礼は、生きて帰ってきてから聞く。……許可を出す」
グレイヴの声が、低くなった。
「行け。冒険者として一人前になれ。生きて帰れよ」
ルーシーは、声を出さずに頭を下げた。礼は帰ってから、と言われたばかりだった。だから、今は、そのぶん深く下げた。
顔を上げたとき、目の奥が熱かった。
グレイヴはもう背を向けていた。背を向けていてくれて、よかった。木剣を肩に担いだまま、片手だけを上げる。大きな手が、薄闇の中で一度握られて、開いた。
大きな背中が見えなくなってから、ルーシーは柵の脇の焚き火の跡にしゃがみ、燃え残りの炭を一つ拾った。
腰に下げた単語帳の板を外して、裏を返す。寮を出た夜に書いた『来期の目標』の三行目は、『指一本手前で、止め――』のまま途切れていた。炭の先が折れた所で、字も止まっている。
足もとに、斜めに切られた杭の頭が転がっていた。
杭の前では、止まれなかった。
ギルド長の肩口の、指一本手前。今朝の掌の、ぺた。
人の前では、止まれた。
炭を押し当てて、『る』を書き足した。
「……指一本手前で、止める」
読み上げた声は、思ったより小さかった。指先に、黒い粉が残った。
二行目の杯は、棚に伏せたまま置いてきた。帰ってきてからだ。
一行目に、目が戻った。
① 目立たない
暴れ馬。C。ギルド長の木剣。杭の頭。髪まで、染めたのに。
(①は、来期に持ち越し)
板を腰に戻して、炭を焚き火の跡へ返した。
門の前では、隣に立つ人たちが待っている。
訓練場を出ると、空が薄くなっていた。
東門の前には、荷車が三台並んでいた。エドガーが少し離れた所から全体を見ている。手には、紙を挟んだ板が一枚。カイゼルたちも、もう揃っていた。セリナが眠そうに目をこすり、ケスディアは矢筒の紐をいじっている。カルヴァンは、荷の端を見ていた。
「揃ったな。五人と、荷車三台。数は合ってる」
「あんた、朝から殴り合ってきた顔してる。いいわよ、そのままにしときなさい」
中央の荷車の脇で、マーサが荷の縄を一本ずつ引いて確かめていた。脇に抱えた帳簿を、朝の湿り気から庇うように、外套の内側へ入れ直している。
「この控えだけは、濡らしたくないんです。幌の中でも、雨が続くと紙が波打つから」
「濡らしたくない荷は、俺の箱に入れる」
カルヴァンが、何も持っていない手のひらを差し出した。マーサが少し迷ってから、その上に帳簿を一冊載せる。
次の瞬間、手のひらの上には何もなかった。
マーサの手が、帳簿を渡した形のまま宙に残った。眼鏡の奥で、二度まばたきをする。
(中身は入れない、と言った人の箱は、中身でいっぱいらしい)
カルヴァンがルーシーを横目で見て、顎髭の先を一度つまんだ。
エドガーが、板を持ってこちらへ歩いてきた。護衛の欄に、マーサの字で名前が四つ並んでいる。エドガーはマーサのペンを取り、インクの染みた指で、その下に一つ書き足した。
角ばった、癖のある字だった。ルーシー、と読めた。カルディナの応接室で見た、七つめの名前と同じ字だった。
エドガーは、板の角をインクの指でとんと一度叩いて、先頭の荷車のほうへ戻っていった。
カルヴァンが、ルーシーにだけ小さく言った。
「上げすぎるな。今日はただの護衛だ」
「はい」
やがて東門が、長く軋みながら開き始めた。
【第一章完結にあたって】
これにて第一章終了となります。 まずはここまでお付き合いいただきまして、本当にありがとうございました。
第二章からは、いよいよ中級ダンジョンの攻略が中心になってきます。 この世界に来て、やっと仲間として「普通の仕事」ができるようになったルーシーですが、実はまだ本人も気づいていない重要な要素が、第二章で明らかになります。
私自身、いわゆる「ご都合主義」があまり得意ではなく、「現実に異世界に行ったらどうなるか?」を突き詰めて第一章を書いていました。 言葉も通じない、文化も違う。そういったリアルを積み重ねた結果、思いのほか地味でハードな立ち上がりになってしまいましたが(汗)、書いていくうちに私自身が「頑張れルーシー」と応援する一人の読者になっていました。
ちなみに本文では一切触れていませんが、執筆の裏側では、この世界の住人すべてに「能力データ」を設定しています。 具体的には、ルーシーは元の世界で100mを11秒フラットで走る身体能力があり、グレイヴは高齢ですがそれでも13.2秒を維持している……といった具合です。 そうした数値を元に戦闘シミュレーションを行っているため、派手な魔法描写は控えめですが、その分「物理的なリアルさ」を感じていただけるよう心がけています。
一章の最後に出てきた「ヴァルキア」にも実は秘密があって、ルーシーはまだその使い方の入り口に立った程度です。 これから彼女がどう成長していくのか、第二章の活躍もぜひお楽しみに!




