第8話 呼びにくい名前
バチッ。
火花が、かまどの中いっぱいに散った。
手のひらほどの黒い石と、曲げた鉄の板。荷車が来る前の静かなかまどで、おかみが自分の手を瑠衣の手に重ねて、鉄を石の角に斜めにこすりつける角度を、何度も教えてくれたばかりだった。手を離す前に、おかみは手のひらを下に向けて、ゆっくりと押し下げてみせた。きのう、そばかすが箱の前でやって見せたのと、同じ手だった。
そっと。
だから、手首の力を抜いて、一度だけ打った。
散った火花のいくつかが、苔に落ちた。細い煙が上がる。息を吹きかけると、煙の芯が赤くなり、ぽっと小さな炎が立った。
(一回で、ついた)
火花は、おかみが打ったときより少し多かった。それでも、全部かまどの中に収まっている。
おかみは小さな炎をのぞきこんで、一つ、うなずいた。それから細い薪を一本、瑠衣の手に持たせて、自分は鍋のほうへ戻っていった。
かまどの番を、任されたらしい。
瑠衣は炎に、薪の先をそっと寄せた。木の皮が小さくはぜて、火が移った。
表に荷車が着くと、髭と赤鼻が、瑠衣と目を合わせないようにして荷を下ろしていった。入口の樽の上には、今朝は何も置かれていない。
その日の仕事は、積み替えだった。蓋に描かれた印を見て、箱を別の山へ移していく。印の形はどれも同じに見えて、そのたびに三つ編みが、台の向こうから正しい山を指さしてくれた。
昼前、そばかすが瑠衣の肩をつついた。
仕事着の襟元から、包帯がのぞいている。そばかすはそれを指さして、首をかしげた。
「――?」
答えられる言葉が、一つだけある。
「ヴァル」
指を曲げて牙を作り、自分の肩に、がぶりと噛みつかせてみせた。
そばかすの顔から、すうっと血の気が引いた。
次の瞬間、隣の三つ編みが、倉庫じゅうに響く悲鳴を上げた。
「ヴァル!」
そばかすが入口を指さして、何か叫ぶ。荷車の陰から親方が飛び出し、壁の棒をつかんで入口の外へ走っていった。日雇いの力自慢が、柱の剣ではなく、なぜか木箱の蓋を盾のように構えて続く。
「違います、違います! ここじゃなくて、森の……!」
叫びながら追いかけたが、日本語は誰の足も止めなかった。
入口の外で、親方が棒を構えたまま、左右を見回していた。
そこへ、通りの向こうから、男が一人駆けこんできた。
革の胸当てをつけている。腰の剣を半分抜いたまま、人をよけ、荷車の脇をすり抜けて、倉庫の前で足を止めた。抜きかけた刃が、昼の光を弾いた。
男の目が、通りを端から端まで走った。驚いた顔の通行人。棒を構えた親方と、蓋を構えた力自慢。ほかには、何もいない。
瑠衣は親方の前に回りこんで、自分の肩に手を当て、それから屋根の向こうの、かすんだ森の縁を指さした。
「肩。ヴァル。森で、です。ここには、いません」
手のひらを下に向けて、地面を押さえる。親方の目が、瑠衣の肩に戻ってきた。
「本当に、すみません」
頭を下げると、親方は棒を持ったまま、長く、長く、息を吐いた。
革の胸当ての男が、剣を鞘へ戻した。口の端にくわえていた草の茎を、ぷっと吐き捨て、腰の袋から新しい茎を出してくわえ直す。
最後に、男は瑠衣を見た。頭のてっぺんから、肩の幅までを、一度だけ。何も言わずに背を向けて、来た道を戻っていく。
「あの、お騒がせしました」
頭を下げたときには、男はもう、通りの角を曲がっていた。
倉庫の中では、そばかすが三つ編みの悲鳴をそっくりまねして、三つ編みに背中を叩かれていた。力自慢は蓋を下ろして、ばつが悪そうに頭をかいた。
親方は棒を壁に戻し、戻りがけに、瑠衣の頭へ分厚い手のひらをぽんと載せた。
「すみません。単語が一つしかないと、こうなるんです」
親方は慰めるように、もう一度ぽんと載せていった。
◇
騒ぎが収まったあと、三つ編みが瑠衣の前に来た。
まだ赤い目で、自分の胸に手を当てて、短く何か言う。それから瑠衣を指さして、小首を傾けた。
三つ編みの名前は、聞き取れなかった。音が多くて、舌がどう動いているのかも分からない。まねしようとして二つ目の音でつまずくと、三つ編みはくすっと笑って、首を横に振った。
瑠衣は自分を指さした。
「ルイ」
三つ編みは真剣な顔で、瑠衣の口の形をまねた。
「……ル、ルイ」
二度、つかえた。瑠衣がうなずいても、三つ編みは自分で首を横に振った。
「ル……ルゥ……」
眉を寄せ、唇を突き出し、もう一度。
「ルゥ……」
横で見ていたそばかすが、くすっと笑って言った。
「ルーシ」
短く、はっきりした音だった。
三つ編みが、ぱっと顔を明るくした。
「ルーシ!」
(ルーシ)
ルイより、少し長い。少し柔らかい。知らない誰かの名前のようで、それでも、自分を呼んでいる音だった。
「……ルーシ」
口の中で言ってみると、三つ編みがくるりと振り返り、何度も首を縦に振った。
「はい。私です」
三つ編みは、先生のような顔で、もう一度大きくうなずいた。
(合格、いただきました)
午後になると、その呼び方が、倉庫じゅうに広がった。
「ルーシ、――」
そばかすが、空の箱を持ってくる。
「――、ルーシ?」
三つ編みが、印の読めない箱を指さして聞いてくる。
最初の二回は、自分のことだと気づかずに通り過ぎた。三回目でやっと振り向くと、そばかすが手を叩いて笑った。力自慢までが、通りすがりに「――、ルーシ」と言っていく。
「今日は、勝負しませんよ」
力自慢は勝負を申しこまれた顔で、腕まくりをした。
誰も、もう「ルイ」とは言わなかった。日が傾くころには、呼ばれる前に振り向けるようになっていた。
作業が終わる頃、親方が帳面を閉じながら、瑠衣のほうを向いた。短く何か言った。最後の音だけは、はっきりしていた。
「……ルーシ」
瑠衣は、間を置いてから、うなずいた。
親方は壁ぎわを見上げた。木箱の山は、瑠衣の背丈の倍近くまで積み上がっていた。
それから、入口の外の空き地を指さして、指を二本、立てた。




