第7話 初日
仕切りの上から、布のかたまりが飛んできて、顔の上に落ちた。
朝だった。肩の噛み傷はまだ痛むが、動ける。
布を広げると、くすんだ茶色の、厚手の上着とズボンだった。仕切りの向こうで、おかみが顎をしゃくっている。
誰かの古着らしく、袖は手首の上で止まり、裾からはくるぶしが出た。それでも、肩の裂けたスーツよりはずっと動きやすい。
スーツは裏の井戸で血と泥を洗い落とし、物干しの綱に掛けた。朝の光の中で、灰色の上着がひどく場違いに揺れていた。
入口の脇の樽の上に、硬貨が二枚並んでいた。
顎髭の男が瑠衣に気づいて、にやりと笑った。一枚を指でとんと叩いて、空の真上を指さす。鼻の赤い男が、もう一枚を叩いて、西の空を指さした。
ゆうべの、髭と赤鼻だった。
「それ、何の締め切りですか。お昼と、夕方?」
二人はそろってにやにやしながら、瑠衣を指さした。説明してくれる気は、ないらしい。
倉庫の中では、もう人が動いていた。
三つ編みがぺこりと頭を下げた。そばかすは、つんつるてんの裾を指さしかけて、三つ編みに手をはたかれた。
入口から、日雇いが三人入ってきた。いちばん前の、首に汗止めの布を巻いたがっしりした男が、背負ってきた細長い包みを柱のそばに立てかけた。
親方が瑠衣に手を上げ、同じ大きさの木箱の列を指さした。
持ってみると、重い。
(二十五キロくらい)
箱を体に寄せ、膝を曲げ、背中を立てて、脚で立ち上がる。
(腰で持つな、脚で持て。新人研修のスライドで見たやつ)
急がないが、止まらずに、一箱、二箱と運んでいく。
ゴトン。
三箱目を下ろした瞬間、床板が大きく鳴った。
そっと置いたつもりだった。四箱目。ゴトン。
そばかすが仕分けの台から寄ってきた。瑠衣の目の前で、手のひらを下に向け、ゆっくり押し下げてみせる。そっと、そっと。
次の箱は、膝をもっと深く曲げて、そっと――置いた。
ゴトン、という音に、めりっ、という音が混じった。
箱の底板が、真ん中から割れていた。藁と一緒に、素焼きの壺が一つ、床の上をころころと転がり出る。サンダルの先で止まった壺の口の縁が、小指の爪ほど欠けていた。
そばかすがしゃがみこんで、藁を拾いはじめた。
親方が帳面を手に歩いてきた。しゃがんで壺を拾い、欠けた縁を親指でなぞる。割れた底板を裏返して、割れ目を見る。
「すみません。底板が、古かったみたいで」
親方は答えなかった。帳面を開いて、瑠衣の行の端に炭の先を押しつけ、黒い点を一つ打つ。壺を抱えて、奥へ戻っていった。
(減点、一)
瑠衣はそばかすと二人で、藁を箱の中へ拾い集めた。
気がつくと、隣の列で、汗止めの布の男が同じ箱を運んでいた。
「あ、同じ列なんですね。よろしくお願いします」
会釈すると、男は眉をひそめた。
瑠衣が一箱置くと、男も一箱置く。瑠衣が次の箱に手をかけると、男も急いで手をかける。目が合うと、ふん、と鼻を鳴らして腕まくりをした。力こぶが、汗で光っている。
力自慢、という言葉が、そのまま歩いているような人だった。
柱の前では、細身の男が、日雇いの運んだ数を炭の線で一本ずつ足していた。ときどき手を止めて、瑠衣の列を見る。首をひねって、柱の端に、別の線を引き始めた。
力自慢の足取りが、だんだん重くなっていった。汗止めの布が、色が変わるほど濡れている。それでも、瑠衣が箱を持ち上げるたびに、意地のように箱をつかむ。
昼前、力自慢は木箱の上にどさりと腰を落とした。肩で息をしながら、瑠衣の列をにらんでいる。
水がめから一杯汲んで、差し出した。
「お水、どうぞ」
力自慢は器をにらんだまま、しばらく動かなかった。それから、ひったくるように受け取って一息に飲み干し、器を突き返して、ぷいと横を向いた。
柱の前の細身の男が、炭を持ったまま、ぼそりと何か言った。力自慢が真っ赤になって言い返す。細身の男は表情を変えずに、柱にまた一本、線を引いた。
日が真上に来ると、入口の樽のそばで、髭が空を見上げ、自分の硬貨に目を落として、長いため息をついた。
(お昼までに、私が音を上げるほう。……だったんだ)
目が合ったので、とりあえず会釈しておいた。髭は、ため息をもう一つついた。
休憩になった。腰を下ろす前に、ポケットから単語帳の板と炭を出した。裏の『① 治療所の借り』の横に、小さな円を一つ描き足す。壺の分だ。
配られた昼食は、固いパンと薄いスープだった。受け取って、目を落とす。
――量が、多い。
おかみが通りすがりに、自分の皿からパンを一つ取って、瑠衣の皿に載せていったのだ。何も言わずに。こちらを見もせずに。スープも、周りの椀より深く注がれていた。
瑠衣はおかみの背中に、頭を下げた。
ありがとう、を言うための言葉を、まだ一つも持っていなかった。
パンを二つと、スープを一滴残らず。ゆっくり食べた。
空の椀を置いたとき、通りかかった親方が足を止めた。空の椀を見下ろして、帳面に何か書きこみ、また歩いていった。
午後も、荷は途切れなかった。
親方が瑠衣を呼んで、奥の山を指さし、指を二本立てた。
瑠衣は箱を二つ重ねて抱えた。
親方が首を横に振った。台の向こうでは、三つ編みが人差し指を一本、顔の前に立てて、真剣な顔で振っていた。一つずつ。
箱を一つ下ろして、奥の山の、下から二段目を指さしてみる。親方が、うなずいた。
「指二本で、そこまで察しろと……?」
親方は自分の二本の指を見下ろした。三本目を立てかけて、少し考えて、引っこめた。それで説明は済んだという顔で、帳面に戻っていく。
力自慢は午後も張り合っていたが、そのうち自分の箱だけを運ぶようになった。
西の空が赤くなるころ、赤鼻の顔から、にやにや笑いが消えた。
日が傾いて、作業が終わった。
親方が帳面を手に、箱の列の前に立った。瑠衣の列を指で数え、途中で首をかしげて、最初から数え直す。隣の力自慢の列に目をやって、もう一度、瑠衣の列を見る。
親方は瑠衣の運んだ箱を一つ、自分で持ち上げた。重さを確かめるように少し抱えていてから、元の場所へ下ろす。床は、鳴らなかった。
(親方が置くと、鳴らない。やっぱり、置き方なんだ)
親方は帳面を閉じると、入口の樽のほうへ歩いていった。
樽の上の硬貨を二枚つまみ上げ、手のひらの上で、ちゃり、と鳴らしてから、轅に座った髭と赤鼻を見た。
髭が、何か言いかけて腰を浮かせた。
親方は親指で倉庫の中を指した。瑠衣の積んだ列のほうだった。
髭は浮かせた腰を下ろして、自分の顎髭をぎゅっと握った。赤鼻は急に空の雲を眺め始めた。鼻の頭が、朝より赤かった。
ちょうど、おかみが鍋を抱えて通りかかった。親方は二枚の硬貨を、おかみの前掛けのポケットに落としこんだ。おかみはポケットを上から二度叩くと、何事もなかったように鍋を運んでいった。
(今の、何の集金?)
柱の前では、力自慢が炭の線を見ていた。顔をしかめて、自分の腰の後ろを拳でとんとんと叩いてみせる。
「腰、ですか。お若いのに」
力自慢は大きくうなずいた。分かってくれるか、という顔だった。それから叩き終えた拳で、自分の胸をどんと叩き、人差し指を一本、ぐっと立てる。
「――!」
(明日も、ってこと? 私、勝負してたの?)
よく分からないまま、瑠衣は親指を立てて返した。
力自慢は自分の人差し指と、瑠衣の親指とを見比べて、首をかしげた。仕分けの台では、そばかすが自分の手を見下ろして、こっそり親指を立てている。
横で見ていた親方が、太い指を一本ずつ折り曲げて、ぎこちなく親指だけを立ててみた。立てた親指を、しばらく不思議そうに眺めていた。
力自慢は、ふん、と鼻を鳴らして背を向け、柱のそばの細長い包みを肩に担いだ。
入口へ向かう背中で、包みの布が、歩くたびに少しずつずれていく。布の端から、革を巻いた柄がのぞいた。巻いた革は手の脂で黒ずみ、握る所だけが、すり減って光っていた。
入口で、力自慢が振り返った。瑠衣の目がどこを見ているかに気づいたらしい。包みを背中の後ろへ回して、布を引っぱり、柄を隠した。
(剣。……日雇いなのに)




