第6話 明日から
三人は、町の外れへ向かって歩き出した。
人通りが減り、建物の間隔が広くなる。やがて、大きな木造の建物が見えてきた。前の空き地に荷車が並び、木箱が積まれている。
荷車の一台の御者台に、男が二人、足を投げ出して座っていた。一人は顎に濃い髭をたくわえ、もう一人は鼻の頭が赤い。
髭のほうが首をそらして、瑠衣の頭のてっぺん――後ろで結んだ金色の髪のあたりまで見上げ、短く口笛を吹いた。
御者台から跳び下りて、見えない箱を胸に抱えるまねをする。二、三歩よろよろと歩き、膝からかくんと崩れた。
連れが吹き出した。
髭は木箱の山を顎で示して、手のひらをぱたんと裏返し、空の真上を指さした。連れは首を振って、西の空を指さした。
二人は手のひらを打ち合わせた。ぱん、と乾いた音がした。
「あの。私で、何か賭けてます?」
髭がにやりと笑って、こちらへ手のひらを差し出してきた。
(参加費、ですか)
瑠衣は両手を開いて、何も持っていないところを見せた。
「元手が、ありません」
赤鼻が御者台の上で、腹を抱えて笑った。
しゃべる人が御者台の二人に何か言いかけた。両手が、もうヴァルの頭の形になっている。その襟首を、時計の人がつかんで引っぱっていった。
中に入ると、埃と木の匂いがした。
高い天井の下に、木箱が壁のように積まれている。奥では大きな前掛けをした女が、箱の中身を仕分けていた。その近くで、太い三つ編みの娘と、鼻にそばかすの散った娘が手を止めて、こちらを見上げている。二人とも、瑠衣の肩までしか背がなかった。
箱の山の陰から、男が一人出てきた。髪を短く刈りこみ、まくった袖から出た腕に、太い筋が浮いている。腰には、紐でくくった帳面。瑠衣の父親くらいの年だろうか。
(親方。たぶん、ここでいちばん偉い人)
時計の人が前に出て、親方と短く言葉を交わした。
「――、ヴァル、――」
しゃべる人が横から自分の肩に噛みつくまねをして、時計の人に足を踏まれている。
親方の目は、包帯にも泥の靴にも止まらなかった。背の高さと、肩の幅だけを、順に見ていく。荷の大きさを測るときの目だった。
それから、建物の奥を指さした。板の仕切りの向こうに、粗末な寝台がいくつか並んでいる。
瑠衣は寝台のほうへ開いた手のひらを向けて、親方の顔を見た。覚えたばかりの音が、口から出る。
「……コレ?」
これ、のつもりだった。
親方の目が、瑠衣の手のひらに落ちた。
次の瞬間、親方の分厚い手のひらが、瑠衣の手のひらを、ぱん、と打った。
小屋の三人が、どっと笑った。しゃべる人は手を叩き、時計の人は額を押さえ、水の人まで低く笑っている。入口では、のぞいていた髭が、裏返しかけた手のひらで自分の顎髭をつかんでいた。
親方だけは笑わずに、帳面に一行書きつけて、ぱたんと閉じた。それから、木箱の山を親指で指した。
「今ので、決まったんですか? 条件、まだ伺ってないんですけど」
親方は返事のかわりに、もう一度、木箱の山を親指で指した。
手のひらが、まだじんじんしている。遅ればせながら、条件を確かめることにした。
「寝る所は、こちらで?」
寝台を指さすと、親方は顎を一度引いた。
「お食事は……」
椀からすするまねをする。親方は奥のかまどを親指で指した。
「お給料は」
見えない硬貨を、手のひらに一枚ずつ置いていくまねをする。親方は、ああ、という顔をして、腰の袋の口を開けて逆さにし、空っぽの中身を振ってみせた。
「……ですよね」
親方は、まじめな顔でうなずいた。
(寝床と、ご飯。お給料は、空の袋。分かりやすくて、助かります)
親方は開いた手のひらを、日の沈みかけた入口の外へ向けた。その手をぐるりと反対側へ回して、木箱の山を指す。
水の人が、倉庫の中を見回した。箱の山、かまど、前掛けの女、寝台の仕切り。それから、短くうなずいた。
三人は、それで帰っていった。
時計の人は紐で結んだ手首を軽く上げてみせた。しゃべる人は出口で振り返って、大きく手を振った。水の人は振り返らずに、いちばん後ろを一人で歩いていった。
三つの背中が、通りの角を曲がって見えなくなった。この世界で知っている顔が、三つ、いなくなった。
瑠衣は、しばらく入口に立っていた。
◇
仕切りの向こうの寝台は、板に薄い布を一枚敷いただけのものだった。仕切りに、扉はない。
(鍵のかかる扉、いつか)
寝台の端に腰を下ろすと、目の前に、大きな前掛けが立った。
前掛けの女は、瑠衣の足もとを見て動きを止めた。
泥だらけの革の靴。右の踵はぐらつき、沢の水を吸った革が、波打って縮んでいる。
女は首を振って笑い、奥へ引っこむと、古いサンダルを一足ぶら下げて戻ってきた。瑠衣の足もとに、ぽんと置く。
(おかみ、って感じの人だ)
履いてみると、大きかった。踵の後ろに、指二本分くらい余る。
「ありがとうございます。ちょっと、ぶかぶかですけど」
おかみは分かったという顔でしゃがみこみ、紐を足首に二重に巻いて、きゅっと結んだ。さらにもう一周巻いて、もう一度、きゅっと結んだ。
(通じた。半分だけ)
革の靴は泥を落として、寝台の下にしまった。
かまどのほうで、おかみが大きな鍋を火から下ろそうとしていた。瑠衣は立ち上がって、取っ手に手を伸ばした。
「あ、それ、持ちます」
おかみが、ぴしゃりとその手をはたいた。沈みかけた日を指さし、手をぐるりと回して、木箱の山を指さす。
「明日から、ですね。……本日、二回目です」
おかみは満足そうに、瑠衣の背中を寝台のほうへ押し戻した。
日が落ちるころ、倉庫の裏で食事が出た。
固いパンと、薄いスープ。木の椀を両手で包むと、指先から温かさが入ってきた。塩と、煮くずれた野菜の味が、ほのかにする。
固いパンをスープに浸して、ゆっくり食べる。かまどのそばで、おかみがちらりとこちらを見て、すぐに目をそらした。
サンダルのお礼も、スープのお礼も、頭を下げることでしかできていない。
食事のあと、かまどの灰から燃え残った炭のかけらを一つ拾った。木箱の割れた蓋の端材から、手のひらほどの板を一枚選んで、寝台に戻る。
板の端に、炭で『ヴァル』と書いた。その下に迷ってから『コレ』と書き、横に小さく『これ?』と足した。
板を裏返した。
少し考えてから、いちばん上に『今期の目標』と書いた。その下に、三行。
① 治療所の借り
② 鍵のかかる部屋
③ ありがとうを言う
(元会社員なので、目標は三つまで)
書き終えたとき、仕切りの上から、ひょいと二つの頭がのぞいた。三つ編みと、そばかすだった。
二人は板の上の見慣れない形に目を細めて、顔を見合わせた。瑠衣と目が合うと、二つの頭は同時に引っこんだ。仕切りの向こうで、押し殺した笑い声と、「――、コレ?」という音がした。
(目標は読めなくても、失敗は覚えられてる)
表では、まだ男たちの笑い声が続いていた。
その笑い声が、ふいにやんだ。
表で、硬貨が樽の上に置かれる、ぱちんという音がした。




