第5話 移動、応急、借り
移動することになったのは、翌朝だった。
炉の火は消え、戸口の筵はもう丸めて壁ぎわに立てかけてあった。
肩の包帯は、夜のうちに巻き直されていた。結び目の位置が、ゆうべと違う。夜中にうっすら目を開けたとき、残り火の前に、太い腕と、白いものの混じった頭が見えた気がする。戸口で寝ていたはずの人の腕だった。
裂けた上着に袖を通すと、肩口から冷たい風が入ってきた。
小屋を出ると、森の縁に、踏み固められた細い道が見えた。床に描かれた、あのくねった線だ。
軒先では、男たちが背負い籠に、干した草の束を詰めていた。ゆうべ天井に吊るしてあった束だ。お玉の人がくくった束を手渡し、しゃべる人が籠へ押しこんでいく。しゃべる人の髪には、納屋の藁が何本も刺さっていた。
太い指が道の先を指さして、自分の腰袋を、ぽんぽんと二度叩いた。
ゆうべ、窓の外から指さされたものを思い出した。
出せるものがあるなら、出したい。瑠衣はポケットを探った。
ズボンのポケットから出てきたのは、スマートフォン。横のつまみを押しても、画面は暗いままだった。上着の内ポケットからは、社員証。
社員証の写真の自分が、緊張した顔でこちらを見ていた。毎朝首から下げて、ゲートにかざしていた札だ。
写真の顔を親指でなでてから、内ポケットに戻した。スマートフォンも、しまう。
左の手首に目を落とした。銀色の腕時計。
(ボーナスで買ったやつ。まあ、命より安い)
留め金を外して差し出すと、男たちの視線が一度に集まった。
太い指が両手で、慎重に受け取った。朝の光にかざし、角度を変えて、文字盤を覗きこむ。それから、小さくうなずいた。
横から、しゃべる人が耳を寄せた。
カチ、カチ、カチ。
しゃべる人が、跳びのいた。
「――!」
時計と自分の耳を交互に指さして、早口でまくしたてる。
太い指は取り合わずに、自分でも時計を耳に当てて、目尻にしわを寄せた。瑠衣のほうへ向き直る。
「……コレ」
ゆうべと同じ音だった。今度は言いきって、厚い手のひらで、瑠衣の手のひらをぽんと打つ。
「今の、ハイタッチですか?」
太い指は、重々しくうなずいた。しゃべる人が、自分も、と手のひらを突き出したが、誰にも打ってもらえなかった。
太い指は時計を左の手首に巻こうとした。けれど細い金属の帯は、太い手首を一周しきれなかった。留め金が、届かない。
しゃべる人が、ぶっと噴いた。
太い指は顔色ひとつ変えずに、腰の袋から細い革紐を一本出した。留め金と留め金のあいだを紐でつなぎ、手首に巻いて、歯で結び目を締める。
手首を目の高さまで上げて、もう一度、光にかざした。
(太い指、改め、時計の人)
籠は、四つあった。しゃべる人が自分の籠を背負ったうえで、四つ目に手を伸ばす。
手を貸そうと一歩踏み出したとき、右の踵がぐらりと浮いた。思わず、戸の柱に手をつく。
それを、しゃべる人が見ていた。
しゃべる人は四つ目の籠から手を離して、道の真ん中に出た。片足を引きずり、肩を押さえ、うめきながらよろよろと三歩。四歩目で膝から崩れて、草の上にばったりと座りこむ。
座りこんだまま瑠衣を指さして、げらげら笑う。それから跳ね起きて、自分の背中を親指で指し、しゃがんでみせた。
「おんぶは、さすがに、お断りします」
しゃがんだ背中に丁寧に頭を下げてから、瑠衣は四つ目の籠に手をかけた。噛まれていないほうの肩に、背負い紐を掛ける。干した草は、かさばるわりに軽かった。
お玉の人が黙って瑠衣の後ろに回った。瑠衣の籠のいちばん上から草の束を二つ抜き取り、しゃがんでいるしゃべる人の籠に、上から押しこむ。
しゃべる人の膝が、かくんと沈んだ。
お玉の人は瑠衣の前に立つと、布にくるんだ包みを一つ、手に押しつけた。丸くて、まだ温かい。焼いたパンの匂いがした。
「――」
低い声で、何か言う。一つも聞き取れなかった。かわりに、包帯の結び目を指でとんとんと二度叩かれた。
お玉の人はお玉の先で四人をひとまとめに指してから、町へ続く道を、まっすぐ指した。
三人が、そろってうなずいた。しゃべる人だけは、お玉が動くたびに首をすくめていた。
「お世話になりました。パン、いただきます」
包みを持ち上げてみせると、お玉の人はお玉をひらひらと振った。早く行け、という振り方だった。
◇
森の道は、やがて低い草の原へ出た。
時計の人は先頭を歩きながら、何度も左の手首を持ち上げて、光にかざしては下ろした。
しゃべる人は、ずっとしゃべっていた。両手でヴァルの頭を描き、転がるまねをしかけて、二束重くなった籠に振り回されてよろける。
瑠衣は口を閉じて歩いた。肩の傷が一歩ごとに脈を打ち、右の踵も痛む。速くは歩けない。ただ、歩幅だけは変えなかった。
すぐ後ろを、水の人が同じ間をあけてついてくる。
道が、長い上り坂にかかった。
坂の半ばで、しゃべる人の声が途切れがちになった。坂の上が見えてきたころ、道ばたの石に、どさりと腰を落とした。膝に手をついて、肩で息をしている。籠のいちばん上で、お玉の人の押しこんだ二束が、ぐらぐら揺れていた。
瑠衣はその横で足を止めた。
二束を抜き取って、自分の籠の上に戻す。
「元は、私の分なので」
しゃべる人が、息の合間に何か言った。いつもの早口ではない、短い音だった。
瑠衣は同じ歩幅のまま、また坂を上りはじめた。籠の重さは、ほとんど変わった気がしなかった。
坂の上で振り返った時計の人が、わざわざ坂を下りていって、しゃべる人の頭を平手ではたいた。けが人に荷を持たせるな、という叩き方だった。
お玉のときより高く、乾いた音が、草の原を渡っていった。
(お玉の、代理だ)
草の原の向こうに、煙が何本か、細く立ちのぼっていた。
町は、木の柵と低い石壁に囲まれていた。簡素な門の脇に槍を持った男が立ち、その横の柵に、大きな毛皮が一枚、干してあった。
灰色の、荒い毛。耳の立った頭の皮が、だらりと垂れている。前足の先から後ろ足の先までで、瑠衣の背丈より長い。
瑠衣は足を止めた。
「……ヴァル」
誰も、何も言わなかった。風が吹いて、垂れた頭の皮が一度だけ揺れた。
(あれに、噛まれたのか。私)
毛皮の横の柵には、新しい釘の穴がいくつも並んでいた。穴のまわりの木だけが、まだ白い。
槍の男が、瑠衣の肩の包帯に目をやって、時計の人に短く尋ねた。
「――?」
「――、ヴァル」
槍の男は森のほうへ目をやって、苦い顔をし、顎で門の中を示した。
門をくぐると、通りの目がいっせいにこちらへ来た。包帯と、裂けた灰色の上着と、泥のこびりついた靴。背負い籠の上に、頭一つ飛び出した金色の髪。ひそひそと、何かが言い交わされる。
(知らない町で、いちばん目立つ人。……いちばん、なりたくないやつ)
門のすぐ内側が、治療所だった。狭くて、薬草の匂いがこもっている。三人が籠を戸口の脇に下ろしたので、瑠衣もそれにならった。
奥から出てきた男の指先は、薬草の汁で緑色に染まっていた。
(緑の指)
緑の指は籠の束を一つ抜いて匂いをかぎ、満足そうに棚へ置いた。お玉の人の草の、届け先だった。それから瑠衣を腰掛けに座らせて、肩の布を外す。桶の水で傷を洗い、すり鉢の緑のどろどろを指ですくって、傷口にべたりと押し当てた。
「いったぁ!」
戸口の三人が、そろって肩を跳ねさせた。少しして、しゃべる人が体を折って笑い出し、時計の人がその脇腹を肘で突いた。
(今のは、たぶん、どこの言葉でも同じ意味)
緑の指は新しい布を巻き終えると、時計の人のほうを向いて、指で宙に小さな円を描いた。時計の人が首を横に振り、瑠衣を顎で示す。緑の指は短く息を吐いて、壁に掛けた板に、炭で短い印を一つ書きこんだ。
治療所を出たところで、いちばん後ろの水の人が瑠衣の前に回った。指で宙に大きな円を描き、その指で、治療所と瑠衣を順に指す。
「立て替え、ですね。経費精算は、できないやつですよね」
水の人は黙って肩をすくめた。
しゃべる人は自分の腰袋を両手で押さえて、一歩下がった。
瑠衣は三人に向き直って、深く一礼した。顔を上げると、しゃべる人が腰袋を押さえたまま、まねをしてぎこちなく頭を下げていた。
借金がいくらになったのか、聞く言葉は、まだ一つもなかった。
振り返ると、治療所の奥で緑の指が、壁の板の印の横に、もう一本書き足していた。




