第9話 るーし?
荷車は、本当に二台来た。
下ろした箱が、たちまち通路にあふれた。その真ん中で、力自慢が木箱を抱えたまま立ち往生していた。前には別の箱の山。後ろからは、次の箱を抱えた男。右にも左にも、抜ける隙間がない。
後ろの男が何か怒鳴り、力自慢が怒鳴り返す。その後ろで、また一人止まる。
瑠衣が自分の箱を置いて手を貸しに行こうとしたとき、先に親方が来た。
親方は黙って、通路の脇に一つだけ斜めにはみ出していた箱を、両手で横へ、ずいとずらした。
それだけで、人ひとり分の隙間ができた。
力自慢が抜け、後ろの男が続き、詰まっていた列が一つずつ動き出す。怒鳴り声が、嘘のように消えた。
力自慢は親方に片手を上げた。瑠衣のほうは横目で見て、悔しそうに、ぷいと顔をそむけた。
「あの。私、まだ何もしてませんけど」
力自慢は、首がそれ以上回らない所まで顔をそむけた。
昼前、三つ編みが水の器を持ってきた。
「ルーシ、――」
飲み干して頭を下げると、三つ編みは器を指さして、ゆっくりと言った。
「――」
器か、水か。けれど音が長くて、耳の中で形にならなかった。もう一度言ってもらっても、だめだった。三つ編みの肩が、しゅんと落ちる。
瑠衣は空の器を掲げて、底に残った雫を指さした。
「み、ず」
三つ編みが、目をぱちくりさせた。
「み、ず。水、です」
口の形を大きく作って、もう一度。三つ編みは真剣な顔で、瑠衣の唇をじっと見た。
「……ミ、ズ」
「そう。水」
「ミズ!」
三つ編みの顔が、ぱっと輝いた。ミズ、ミズ、とくり返しながら台のほうへ駆けていき、そばかすの鼻先に器を突き出す。
「ミズ!」
「……ミズ?」
(日本語教室、初回は大成功です)
昼の休憩になった。
表の荷車のそばで、髭と赤鼻が、よその荷車の御者と立ち話をしていた。
御者が両手を重ねて、狼の頭を作った。立てた親指が耳で、そろえた指が長い鼻先だ。その頭を北の空へ向けて、ぱくぱくと口を開け閉めさせる。
髭が首を横に振った。赤鼻は自分の荷台の横板を、手のひらで二度叩いた。
三人とも、笑っていなかった。
瑠衣の手は、気がつくと、左の肩の包帯の上に載っていた。
そこへ三つ編みが、今度はパンを持ってきた。すっかり先生の顔になっている。
パンを掲げて、一音ずつ区切るように言う。
「ロ、フ」
今度は、短い。
「ロフ」
三つ編みが、ぱっと顔を輝かせた。
「ロフ」
「ロフ」
二人で、パンに向かって、同じ音を三回言った。
隣に腰を下ろしたそばかすが、さっそく指を動かし始めた。器を指して、「ミズ」。パンを指して、「ロフ」。三つ編みも加わって、交代に指さしては、得意そうにこちらを見る。生徒が、もう応用まで来ている。
すっかり、いい気分になった。
お返しに、もう一つ教えてあげることにした。瑠衣はパンを指さして、はっきりと言った。
「パン」
三つ編みの手から、ロフが落ちかけた。
そばかすが、ぶはっと吹き出した。椀を置いて、体を二つに折る。三つ編みも顔を真っ赤にして、口を押さえたまま震え出した。
「パ、パン……!」
そばかすが笑いながらまねをする。それで三つ編みが、また崩れる。二人とも、息ができなくなっている。
(え。何。何が起きたの)
手の中のパンを見下ろした。どう見ても、ただのパンだった。
「パン……ですよね? これ」
もう一度言うと、そばかすが腰掛けの木箱から転げ落ちた。
おかみが、無言で布巾を振り上げた。
ぱしん。ぱしん。二人の後頭部が、順番にはたかれる。
それでも、娘たちの笑いは止まらなかった。おかみは二人をにらんでから、瑠衣のほうを見て、なぜか自分まで頬を引きつらせた。
「あの。パンって、こっちでは、何なんですか」
そばかすの肩が、また跳ねた。
おかみが、瑠衣の目の前で人差し指を一本立てて、自分の唇に当てた。布巾は振り上げなかった。そのかわり、とても真剣な目だった。
瑠衣は黙ってロフをかじった。
午後、また荷が詰まりかけた。
瑠衣は箱を抱えたまま通路を見渡し、半端な向きの箱を一つ見つけて、横へずらした。列が、また動き出した。
顔を上げると、倉庫の奥で、親方がこちらを見ていた。
柱の前で、細身の男の炭が、瑠衣の束の上で小さく動いた。
(数える人)
力自慢は、それを横目で見ていた。箱を下ろすたびに、拳で腰の後ろを叩いている。
反対側の荷車から、腰に薬草の小袋を下げた女が下りてきた。まっすぐ力自慢の所へ行って、その耳を引っぱる。空いた手で、柱の炭の線を指さしていた。低くて、早くて、怖い声だった。
力自慢は耳を引っぱられたまま、腰を押さえ、顔をしかめて言い返した。
(また、腰。本当に悪いんだ)
瑠衣は自分の腰の後ろに手を当てて、心をこめて言った。
「腰、気をつけてくださいね」
女が、ふいと横を向いた。耳をつかんでいた指が、ゆるんだ。肩が、小さく震えている。
力自慢はこちらをにらんだ。なぜか、通じた顔をしていた。
夕方の休憩で水を飲んでいると、さっきの女が隣に腰を下ろした。
腰の小袋の口から、細い紐が一本のぞいていた。紐の先で、指の長さほどの、白く尖った牙が揺れている。
瑠衣の目がそこで止まったのに気づくと、女は紐を袋の中へ押しこんだ。瑠衣の襟元の包帯を指さして、自分の腰の袋を、ぽんと叩く。
「ありがとうございます」
女は指で襟をつまんで、ずらせ、と合図した。襟をずらすと、手慣れた様子で古い包帯をほどき始める。
(包帯の人)
肩の後ろの傷は、首をひねっても見えない。治療所で薬草を塗られてから、自分ではまだちゃんと見ていなかった。
向こうで、力自慢と数える人がこちらを見ていた。包帯の人が二人に何か言うと、力自慢がそっぽを向き、数える人が肩をすくめた。三人は、仲間らしかった。
包帯の人は最後の一巻きをほどき、傷の上に貼りついた布を、指先でゆっくりはがした。
顔を近づけて、じっと見ている。
「見た目、ひどいですよね。すみません」
包帯の人は、傷から目を離さないまま、短くうなずいた。
腰の袋から薬草を出してすり潰し、新しい布に塗り広げて、傷に当てる。肩の下を通して、一巻き、二巻き。緑の指より、ずっと丁寧な手つきだった。
包帯の人の手が、一瞬だけ止まった。




