第71話 討伐の夜
ギルドの扉を押し開けると、昼より静かな空気が流れてきた。紙をめくる音と、カウンター越しの低い声だけが残っている。
カイゼルが、二重に縛った袋をカウンターの端に置いた。中身の形が、布越しでも嫌に分かる。
「フィリス、これ奥で確認してきて」
マレーナが、目だけで決めた。奥から出てきたフィリスが袋の持ち手をつかみ、持ち上げた瞬間、その腕がかくんと沈んだ。
「重。首って聞いてたんだけど。これ、でかくない?」
「首だ」
「首にも色々ある」
フィリスは袋を抱え直して、奥へ消えた。
マレーナのペン先が、台帳の上で浮いた。目が、ルーシーの顔に来ている。
「その頬」
(ほら、言われた)
「石です。かすっただけです」
「かすっただけで、そこに線は入らないわ」
横からセリナが首を伸ばし、ルーシーの頬を見て目を丸くした。
「ちょっと。それ、いつの」
「ボスが、石を投げたときです」
「言いなさいよ! 治す手が、すぐ横にいたでしょう」
「忘れてました」
「今朝、言うって約束したわよね。治ってても、って」
「治ってなかったので、忘れてました」
「余計に悪い。……かがんで。届かない。動かないで」
ルーシーが膝を折ると、セリナの指先が頬に触れた。ひんやりしていて、その下だけがじんわり温かくなる。皮膚が寄っていく小さなかゆみがあって、それから何もなくなった。
頬に触れているあいだ、その指は一度も震えなかった。
「はい、おしまい。私が見落とすとか、ありえない。今日は厄日」
離れぎわに、セリナの指が、自分の頬の同じ所に一度触れた。欠片が抜けていった所だった。
「森で、欠片。顔の横を。……すみませんでした」
「盾の人には謝ってたのに、私は後回し?」
「後回しに、してました」
「正直ね。……受け取った」
マレーナは頬の線が消えたのを確かめてから、ペンを紙に戻した。
「その顔で、受付に来ないで。心臓に悪いわ」
「次からは、帰る前に治してもらいます」
「『もらう』じゃなくて、『言う』の」
セリナが言い直させた。それから、まくっていた袖を下ろしかけて、手を止めた。
「そういえばあんた、森で背中から湯気出てたわよ」
「やかんじゃ、ないです」
「言ってない」
ケスディアが、ふいと横を向いた。肩が、小刻みに揺れていた。
「さあ、飲みに行くわよ」
扉へ向かう途中で、ルーシーは立ち止まった。カウンターの内側の、マレーナとエリーを振り返る。
「よかったら、一緒にどうですか」
言ってから、言葉が足りなかったと気づいた。でも、付け足さずに待った。
「いいわね。行こうかしら。エリーも行くわよね」
エリーは、書き上げたばかりの伝達票を胸に抱えた。頷くまでに少しかかって、最後は小さく言った。
「はい」
「フィリス。締め処理、頼める?」
「はいはい。確認終了、間違いない。縛り方が丁寧すぎて、ほどくのに時間かかったぞ。誰だ、二重にしたの」
扉の向こうから、声だけが来た。ルーシーは、壁の依頼板のほうを見た。
外に出ると、空気が冷たかった。通りを二つ曲がった所で、先を歩くカイゼルが足を止めた。看板も派手ではない店で、扉の隙間から、鍋の煮える匂いが細く漏れてくる。
「あ、ここ」
エリーが小さく声を上げた。カルディナから戻ってすぐ、ルーシーがマレーナとエリーを連れて来た店だ。
扉を開けると、出てきた店員がカイゼルに軽く会釈し――その後ろのルーシーを見るなり、くるりと奥へ引っ込んだ。
全員が席に着くより先に、パンの籠が二つ、テーブルに置かれた。
「顔で通じてるの!?」
セリナが、椅子から腰を浮かせた。
「前のとき、帰りに『足りましたか』って聞かれてましたから」
エリーが、籠の数を指で確かめながら言った。
「俺のほうが、ここには通ってるんだがな」
カイゼルは自分の前の何もない卓を見てから、戻ってきた店員に言った。
「酒。いつもの。全員分。飲めない者は水でいい」
ルーシーが、手を上げかけた。
「私、とりあえず二杯……」
「上限から入るな」
「いきなり二杯? いいわね、気に入った」
セリナが笑った。カイゼルは店員に、短く言い足した。
「こいつだけ、二杯だ」
杯が届くなり、セリナが一気にあおった。
「ああ、生きてるって感じ」
ケスディアは、左手で水の杯を引き寄せた。右腕は、卓の上に置いたままだ。
厨房の戸が開いた。
店員が、黒い鉄の大鍋を両手で抱えて出てきた。卓の真ん中を素通りして、ルーシーの前にだけ、ごとりと置く。取り皿を人数分と杓子を添えて、また奥へ戻っていった。
厚く切った猪の肉と、角の取れた根菜が、茶色く煮詰まった汁の中で揺れていた。香草と焦げた骨の匂いが、卓の上に重く広がる。
「頼んだ?」
「頼んでません」
「店が頼んだのね」
セリナは、迷いなく動き始めたルーシーの匙を、しばらく目で追った。
「あんた、いつもこうなの?」
「燃費が悪いんです」
「燃費って何よ」
ルーシーは匙を止めて、少し考えた。
「鍋一杯で、半日動きます」
「荷馬車か」
ケスディアが言うと、カイゼルの肩が、杯の陰で一度だけ揺れた。
マレーナの目もとが、ゆるんだ。
「前より落ち着いて食べられてるわね」
「はい。マレーナさんが、いるので」
エリーの指先が、コップの縁を一周した。マレーナは返事のかわりに、パンの籠をルーシーのほうへ少しだけ押した。
鍋の底が見え始めたころ、最後の一杯をすくった。杓子の柄が、手の中で重い。
「……引く」
小さく言って、その一杯を、カイゼルの前の、まだ何も載っていない取り皿へ移した。
「通ってる客の分か」
「はい。常連の分です」
杓子が、かつん、と鍋の底を打った。
ケスディアが、空の大鍋の縁を両手でつかんで傾け、底を覗いた。
「何食ったら、そうなるんだよ」
「それ、今朝も聞いてたわよね。あんた」
セリナが、杯の縁越しに言った。
ルーシーは匙を置き、口の中のものを飲み込んでから、真面目に答えた。
「たくさん、です」
セリナが卓に突っ伏した。ケスディアは額に手を当て、そのまま天井を仰いだ。
「答え、今朝と同じじゃねえか」
「同じ質問だったので」
今度は、エリーの笑い声がいちばん大きかった。
笑いが収まりかけたころ、ケスディアが額から手を下ろした。空の大鍋の向こうから、目線だけでルーシーを指す。セリナが杯を置き、カイゼルまで、こちらを見た。
「で、あれ、どうやって出したんだ」




