第70話 普通の仕事⑤ 追撃と討伐
葉の陰の奥で、皮膜の擦れる音が一度、鳴った。
「追います」
ルーシーは、剣先を葉の陰へ向けたまま言った。
――追うな。
耳の奥で、カルヴァンの声がした。
「待て。戻れる距離を越えるな」
カイゼルが、間を置かずに返した。
「盾の縁が見える所まで、です」
ルーシーは一歩だけ前へ出て、肩越しに続けた。
「あの一頭、街道で荷車を見ていました。逃がしたら、次はもっと上手に石を投げてきます」
カイゼルは盾を持ち直し、欠けた縁を、木漏れ日のほうへ傾けた。削がれた金具の断面が、白く光った。
「縁は、ここで光らせておく。見えなくなる前に戻れ」
「ここで、隊列を組み直していてください」
「了解。ケスディア、腰を落として。根が多い、転ぶわよ」
「座れるかよ」
「いいから。座って」
守りの形ができたのを見てから、ルーシーは地面を蹴った。
(追わないのは、熱。追うのは、こいつ)
足裏が、根の位置を先に拾う。景色だけが、後ろへ流れていく。
最初の日も、森を走った。濡れた革底が滑り、肩に歯が食いこんで、それでも走るしかなかった。あの日、背中に迫っていた足音は、今日は自分の足音だった。
笑いそうになって、息を一つ長く吐いた。
血痕が、点から細い線になって続いている。閉じきらない皮膜の擦れる音も、前から途切れずに届いた。
前方で枝が大きく揺れた。影が、木立の密なほうへ入る。
ルーシーは足を速めなかった。相手が次に踏む場所の外側へ、体が先に回る。
ボスが、低い枝に取りついた。目だけがこちらへ滑る。ルーシーが一歩寄ると、一枝ぶん奥へ跳んで、また止まる。もう一歩寄ると、また一枝ぶん。その先は、幹が重なった暗い木立だった。
(二軒目、行きましょう、のやつだ)
肩越しに、後ろを見た。幹と幹のあいだに、白い光の点が一つ、小さく残っている。盾の縁だ。あと一歩出れば、手前の幹に隠れる。
ルーシーは止まった。
剣先で足もとの落ち葉を払い、土に浅く、一本の線を引いた。
枝の上で、ボスが待っている。ルーシーも、線の手前で剣を下げたまま、動かなかった。
ボスの口が、裂けるように開いた。歯を剥いている。街道で群れが見せていた、あの笑う顔だった。この一頭がその顔をするのを、初めて見た。
ボスが跳んだ。奥へではない。止まった獲物の頭の上を越えて、盾の光のほうへ抜ける枝へ。
「……引く」
ルーシーは、線から一歩、後ろへ下がった。
下がった所が、跳ぶ影の通り道の真下だった。
古い裂け目と、今日の裂け目。二つぶん、皮膜が風を噛み損ねた。頭の上を越えるはずの体が、肩の高さへ沈んでくる。
剣は振らない。肩の高さに、刃を置くだけ。
沈んだ首が、刃へ来た。骨の所で一度、硬さが手首に返った。手首を締める。落ちてくる重さが、その硬さを自分で越えていった。
胴体は勢いのまま背の後ろへ落ち、落ち葉の上を二度転がって、根に当たって止まった。遅れて首が、湿った土のくぼみに収まる。
歯を剥いた顔は、もう笑っていなかった。
浅い線は、靴の先の一歩向こうに残っていた。
(引いたら、届いた)
剣先から、赤いものが一滴落ちた。葉に吸われるまで、見ていた。
首は拾わなかった。証に先に触るのは、自分の役ではない。
「終わりました」
声を張った。
盾の擦れる重い音と、枝を踏む音が三つ重なって近づいてきた。走ってはいない。そのかわり、並びは崩れていない。
カイゼルの目が、首と胴体を確かめ、靴の先の線を一度たどってから、森の上へ移った。
「残りは」
「近くにはいません。散ってます」
「回収する。セリナ、外側。ケスディア、手を貸せ」
ケスディアが首へ目を落とした。喉が動く。
「僕が――俺が、持つのか」
「持て」
「撃っただろ。一本」
「一本は一本だ。撃てた手なら、持てる」
「あら。『僕』はどこ行ったの」
セリナが首をかしげた。
「うるさい」
ケスディアはしゃがみ、袋を開いた。開いたきり、手が首のほうへ行かない。ルーシーが近づいて、袋の口を押さえた。
「ここ、広げます。この方が入れやすいです」
ケスディアがちらりと見上げた。礼にも敵意にもならない、置き場のない目だった。
ルーシーが口を縛り、念のため二重にした。カイゼルが結び目を確かめた。
「証はこれでいい。撤収」
歩き出してすぐ、カイゼルが言った。
「報告しろ。あの線は、なんだ」
「盾の縁が見えなくなる所です。そこから先へは行かない、と決めてました」
「行かなかったのか」
「はい。向こうが、戻ってきました。止まったら、笑われました。それで、頭の上を越えようとしたので」
「笑われて、仕留めたの……」
セリナが、横から割りこんだ。
「追いかけるより、楽でした」
「楽って言うな。こっちは待ってて胃が痛かったわよ」
森を抜けると、風が乾いた。
セリナが、横目でルーシーを見た。
「さっき、追うって言ったとき。……怖かったわよ。あなた、消えるかと思った」
「消えません。戻れる距離でやるって言いました」
「言った。言ったけど、言うのと現実は違うでしょ」
セリナは、今度はケスディアを見た。
「で? 地方の赤は、楽だった?」
「楽じゃ、なかった」
「よろしい」
袋の擦れる音が、ケスディアの歩幅に合わせて鳴っている。
「おい」
ケスディアが言った。目は、抱えた袋の結び目に落ちている。
「今朝、あんたより結果を出せるって、言ったよな」
「はい。言ってました」
「ちょっと。そこは『そうでしたっけ』でしょ」
セリナが、歩きながら天を仰いだ。
「言ってましたよ。覚えてます」
「覚えてなくていいのよ、そういうのは」
ケスディアの首筋が、赤くなった。それでも、口は閉じなかった。
「取り消す」
「取り消さなくていいです」
ケスディアが、初めて顔を上げた。
「結果、出てましたから。一本。左上の枝」
ケスディアは、抱えた袋を、持ち直す必要もないのに二度持ち直した。三歩、四歩と歩いてから、やっと声が出た。
「調子、狂う」
「でしょ」
セリナが、なぜか得意そうに言った。
ギルドの屋根が見えてきたころ、ケスディアが、誰の顔も見ないで、ぼそりと言った。
「終わったら、飲むか」
「あんたから誘うの? 飲む。今日は飲みたい。ルーシーのあんなの見たら、このまま寝られない」
「一杯だけだ。明日もある」
カイゼルが言った。
「一杯で済むと思えません」
ルーシーが真顔で言うと、カイゼルの足が半歩だけ遅れた。
「二杯までだ。以上」
「上限、上がった」
セリナが、ルーシーの顔をのぞきこんだ。
「あんた、そういう事も言えるのね。無口な人だと思ってたわ」
「言葉が出にくかっただけです。話すのは、嫌いじゃないです」
「じゃあ、飲みながら話して。さっきの、あれ」
ギルドの扉の前で、カイゼルが取っ手に手をかけたまま振り向いた。
「全部だ。……ゆっくり聞く」




