第69話 普通の仕事④ 切り裂く速さ
枝の上に残った影は、最初から逃げる気がなかった。
葉擦れはあるし、風もある。けれど、その影の周りだけ、風が避けて流れているみたいだった。
ボスが、喉の奥で低く短く鳴いた。それだけで、残っていた小さいのが二体、森の奥へ下がった。目は、ルーシーから離れない。
二十歩向こうでは、カイゼルの盾が、根の陰の二人を覆っている。
「一人で、あれとやるのか」
ケスディアが言った。
「見てろ。目を離すな」
「さっきは、見るなって言ったじゃない」
セリナが言い返すと、カイゼルは盾の上から目だけを出した。
「石は見るな。あいつは見ろ」
枝の上で、ボスが身を沈めた。
枝から枝へ短く移り、位置だけを変えていく。膝を狙う低い石が飛び、音が遅れて来た。重心だけをずらす。石が足元の土を抉る。そこへ、ボスが斜めに落ちてきた。
刃を低く構えたまま、待つ。
ガン。刃が鳴り、手首が跳ね上がりかけ――戻す。
ボスは、当たる寸前で「滑った」。皮膜で空気を掴み、当たり方だけを変えて、刃の外へ抜けていく。
胸の奥の扉に、もう一度指がかかりかけた。もう少し引けば、届く。
ルーシーは、取っ手から指を離した。
二度目は、真正面から来た。空中で体を捻り、爪の軌道を途中で変える。
当たる、と相手が思う距離まで引きつけて、体の軸だけをずらした。爪が空を切り、皮膜の縁が体の横を撫でる。返した刃が、前腕の内側を裂いた。
浅い。もう半歩入れれば、骨まで届いた。入れなかった。
ボスは空中で回り、近くの幹へ跳び移った。ルーシーの剣は、それより先に幹の樹皮を削いでいた。削がれた所で後脚が滑る。次に踏んだ枝は、根元から沈んだ。
ボスが初めて、自分の足もとを見た。
「今ので、何回目だ」
ケスディアが、低く言った。
「斬れたのに、斬らなかったのが、五」
カイゼルは、欠けた金具を親指でなぞりながら答えた。削がれた角で、親指が一度引っかかった。
「数えてるの!?」
「数えないと、見ていられん」
カイゼルは、顔だけをケスディアに向けた。
「弓、持てるか」
「持てる」
「なら、つがえておけ。撃つのは、声を出してからだ」
ケスディアは顎だけで頷き、震える指で、矢筒から一本抜いた。
ボスが苛立った声で鳴いた。
次の跳躍は、ルーシーへ向かわなかった。高い枝を蹴り、森の上を斜めに渡る。行き先は、盾の陰――セリナの背中だ。
「セリナ、伏せろ!」
「伏せてる!」
ルーシーの足は、前へ出なかった。目だけが、ボスの次の枝へ先に走っていた。ルーシーのすぐ横の幹から、隊列のほうへ張り出した枝だ。
剣を返し、柄頭で、その枝の付け根を打った。
乾いた音がして、枝が付け根から裂けた。ボスの後脚が、何もない所を踏む。皮膜が風を掴みそこね、滑空は途中で尽きた。落ちた先は、セリナの背中ではなく、盾の五歩手前の腐葉土だった。
ボスが、後脚で立ち上がった。頭が、カイゼルの盾の縁より高い。
カイゼルが盾ごと五歩を詰め、ガン、とその胸を押し返した。ボスは盾を嫌って、ルーシーのいる側へ跳び戻った。
カイゼルは追わずに、元の根の前まで下がった。
「今、枝、殴った?」
盾の上へ顔を出しかけたセリナの頭を、カイゼルが手で押し戻した。
「殴った」
「ねえ、あれ、手加減してる?」
「してる。だから長い」
「加減して、あれかよ」
ケスディアが、呻くように言った。
ボスが前腕を振った。跳び戻るあいだに掴んだ石を、近い距離から顔へ投げてくる。
ルーシーは顔を逸らさなかった。眉の前を石が掠め、頬に熱い線が走った。血が一筋、流れる。
「顔!」
「見るな」
「見るわよ!」
(顔はやめて。受付で、絶対に何か言われる)
セリナは、いつの間にか治療の手を離していた。両手を握りしめ、盾の陰から半身が出ている。
「セリナ。半身、出てる」
「出てない」
「出てる」
セリナは、足を引かなかった。
ケスディアは矢をつがえたまま、弦を引ききれずにいた。射線の先で、こげ茶の髪が揺れている。矢の尻が、指の中で二度滑った。
ボスが上を見た。上の残党が、一斉に石を構える。
鳴こうとして膨らんだボスの胸へ、ルーシーは刃を入れた。声が潰れる。
それでも、合図は半分だけ届いていた。左上の枝で、一体が石を振りかぶっている。その先に、盾の陰からはみ出したセリナの肩がある。
「撃つ! 左上の枝!」
ケスディアの声だった。
右腕は、肩より上へ上がらない。ケスディアは顔をゆがめ、弓を寝かせて、低い位置のまま弦を引いた。一本だけ。弦が鳴る。
枝の上の影が、石を抱えたまま落ちた。下の茂みで、重い音がした。
「それでいい」
カイゼルの声が、短く落ちた。ケスディアは弓を下ろさなかった。下ろし方を忘れたみたいに、指が弦にかかったままだった。
セリナは、切れた髪紐の端と端を口で結んだ。こぶの一つ増えた紐で髪を縛り直し、盾の陰へ半身を引っこめた。
ほかの石は、狙いが甘かった。どれも盾で受けるまでもない所に落ちて、土に沈んだ。
ボスが最後に仕掛けた。地面を蹴り、低い姿勢で、肩から突っ込んでくる。
ルーシーは下がらなかった。斜めにずれて、刃を相手の肩の前へ置いた。ボスが自分からそこへ当たる。皮が裂け、筋が切れて、勢いが半分になる。
残った半分は、足裏で受けた。
どん、と重いものが体の正面に来た。踵が、くるぶしまで腐葉土に沈む。足首が受け、膝が受け、腰が受け、最後に地面が受け取った。
上体は、動かなかった。
ボスの体が、胸の前で崩れた。
盾の陰で、ケスディアの矢筒の矢は、一本も鳴らなかった。
踏みこめば、届く。届いたら、二歩目で止まれない。胸の奥の扉は、まだ細く開いたままだ。
声には出さずに胸の内で一度引き、腐葉土から抜きかけた右の踵を、沈んだ跡の中へ戻した。
ボスの前腕が、ゆっくりと下がった。鳴かない。跳ばない。残党が散り、森の奥へ影が溶けていく。
ボスは、こちらを見たまま後退した。枝へ、幹へ、葉の陰へ。裂けた皮膜を畳み、視線だけは外さない。覚えるための目だった。
「逃げるぞ」
「いい。行かせろ」
カイゼルの声は、ルーシーの背中へ向けたものだった。
影が消えた瞬間、胸の内側の流れがふっと緩んだ。緩んだ分だけ、世界が遠くなる。足が遅れて地面を掴み、呼吸が深くなりすぎて、喉が痛い。
流れを、もう一度細くする。
向こうで、カイゼルが盾を下ろした。重い音が、森に落ちた。
「終わったな」
ルーシーは、葉の陰から目を離さなかった。




