第70話 普通の仕事④ 追撃と討伐
ボスの影が葉の陰へ溶けた途端、森の音だけが元に戻った。枝は擦れ、風は抜け、落ち葉は湿ったまま足に絡む。さっきまで張りつめていた圧だけが、そこだけ切り取られたように抜け落ちている。
ルーシーは剣を低く構えたまま、森の奥を見た。視界には何も残っていない。それでも、逃げた方向だけが、線のように見える。枝の揺れが遅れて伝わる。皮膜が擦れた音が、遠くで一度だけ鳴る。
背後で、盾が重く鳴った。
「……終わったな」
カイゼルの声は確認だった。安堵ではない。仕事として区切りを入れる声だ。セリナはケスディアの腕から手を離し、汗を拭う暇もなく森の外側へ視線を切った。ケスディアは歯を食いしばり、弓を握り直している。握れるのに、矢をつがえない。
ルーシーは振り返らずに言った。
「追います」
声は大きくしない。だが、はっきり届く音量にする。森の中では、怒鳴ると反響で距離感が狂う。カイゼルが間を置かず返した。
「待て。……戻れる距離を越えるな」
「分かってます。視界を切らない距離で行きます」
ルーシーは一歩だけ前へ出て、すぐに状況を測った。
追撃はできる。だが、このまま隊列を引きずれば、動きが鈍る。
肩越しに、短く言葉を落とす。
「ここで止まってください。隊列、組み直して」
セリナが即座に応じる。
「了解。ケスディア、腰を落として。根が多い、転ぶわよ」
「座れるかよ」
「いいから。座って」
セリナは言い切り、ケスディアの背中を押さえた。カイゼルは盾を上げ直し、立ち位置を半歩だけずらして“守る形”を作る。ルーシーはその形が完成したのを見て、ようやく前へ出た。
走り出しは強くしない。足を前へ運ぶだけで、身体が自然に進む。さっきの太い流れはもう使わない。胸の内側は静かで、一本に揃った感覚だけが残っている。足裏で土の硬さが拾える。根の位置が分かる。落ち葉の滑りが、先に読める。
速度を上げた意識がないのに、景色が後ろへ流れていく。呼吸が荒れない。視界が跳ねない。頭だけが軽い。
ルーシーは口の端を噛んだ。笑いそうになるのを抑えるためだ。動ける。思った通りに動く。そこに余計な理由はいらない。身体が整っただけで、前へ出たくなる。
血痕が見える。点ではない。細い線で続いている。葉の上に落ちた赤は黒く沈み、時間差で匂いが立つ。枝の擦れも続く。皮膜が閉じきらず、擦れている音が混じっている。
逃走の軌道は真っ直ぐだった。隠す余裕がない。隠す余裕がないほど削れている。あの量を切り裂かれて、よく動いていたと思う。逃げることだけに全てを振った動きが、今になって透けて見える。
前方で枝が大きく揺れた。影が横へ流れ、木立の密な方へ入る。遮蔽物を増やして視線を切るつもりだろう。だが、切り替えが遅い。踏み替えに余計な間が入る。出血と損傷が、判断の速度を削っている。
ルーシーは足を速めない。速める必要がない。相手が次に踏む場所の外側へ身体が勝手に回る。追うのではなく、先に立つ感覚になる。枝の揺れの先に、もう自分の位置がある。
ボスが一度だけこちらを見た。振り向かない。視線だけが滑る。計算が合わない時の確認の目だ。
ルーシーは剣を上げない。走りながら振る距離ではない。止まる必要もない。剣は低いまま、身体の延長で保つ。足が前へ出た瞬間、距離が消えた。
ボスが跳ぶ。枝へ逃げる角度で、斜め上へ抜ける。
その動きが、遅い。
刃を振らない。腕で押し込まない。身体の位置を半歩だけ前へ滑らせて、進行線の中央を塞ぐ。そこへ相手が来る。来てしまう。裂けた皮膜が風を噛み損ね、軌道が沈む。前腕の傷が踏み替えを鈍らせ、跳躍の角度が低くなる。
一瞬の崩れが、首を刃へ運んだ。
抵抗は薄い。骨に当たる硬さがない。熱いものが指先へ触れただけで、体は前へ進み切っている。胴体が二歩、三歩と走り、三歩目で膝から崩れた。遅れて首が落ち葉を押しつぶして転がり、湿った土で止まる。
ルーシーは足を止め、周囲を一周だけ見た。枝が揺れていない。石が落ちない。皮膜の擦れる音もない。残党の気配は遠い。ここに“次”は来ない。
胸の内側を確かめ、息を一つ落とした。静かだ。整っている。乱れない。刃が勝手に走らない。身体が言うことを聞く。
ルーシーは首を拾わない。証を勝手に持ち出す役ではない。やるべき順番がある。
「終わりました」
声を張って呼ぶ。森の中で最短の合図にする。長い説明は要らない。来るなら来る。来ないなら証を回収して帰る。
しばらくして、足音が近づく。重い盾の擦れる音が混じり、枝を踏む音が三つ重なる。カイゼルが先頭で、セリナがその斜め後ろ、ケスディアが腕を押さえながら付いてくる。走っていない。走れない速度だ。だからこそ隊列は崩れていない。
カイゼルは首と胴体を一瞥し、すぐ森の上を見た。次が来る角度を切っている。
「残りは」
ルーシーが即答する。
「近くにはいません。散ってます。追わない方がいいです」
セリナは“気配”ではなく、目で地面を見ていた。血痕が線で続き、そこから先が薄くなる。枝の折れ方も古い。さっきの揺れは遠い。今の揺れはない。彼女はそれを拾って、短く言った。
「来てない。……この辺は落ち着いてる」
言い方が違う。気配が分かると言わない。観察で足りる範囲の話だけを置く。カイゼルが頷いた。
「回収する。セリナ、外側。ケスディア、手を貸せ」
ケスディアが首へ目を落とし、喉が動いた。
「……俺が、持つのか」
カイゼルは淡々と返す。
「お前仕事してないだろ。お前が持て。……嫌なら、次から撃つな」
ケスディアは言い返せない。セリナが横から短く刺す。
「今なら持てるでしょ。もう治ってるから。……文句は後」
「……分かってるよ」
ケスディアはしゃがみ、袋を開く。手首が一度だけ止まった。痛みではなく、目の前の現実を飲み込む時間が足りない動きだ。ルーシーが一歩だけ近づき、袋の口を押さえた。
「ここ、広げます。この方が入れやすい」
ケスディアがちらりと見上げる。目が言葉の代わりに揺れた。礼にも敵意にもならない、置き場のない視線だ。ルーシーはそれを受けず、首の向きを変える。
首は軽い。軽いのに、重い。血がまだ落ちている。落ち葉が吸って黒くなる。森の匂いに混じって、生臭さが遅れて広がる。仕事の匂いだ。
袋に入る。口を縛る。二重にする。カイゼルが確認し、頷く。
「証はこれでいい。……撤収」
セリナは外側を見たまま、足を一歩ずつ戻す。視線が揺れない。治療の手を離しているのに、彼女の仕事は止まっていない。後ろから刺されない位置に隊列を置く。それが彼女の役割だ。
ルーシーは少し離れた場所へ視線を投げ、地面の血痕を見た。線が薄くなっている。逃走中の出血の量が、最後まで落ちていた証拠だ。あの状態で逃げ切れると思ったのが不思議なくらいだ。逃げる判断だけで身体を動かした結果、最後の一歩が崩れた。
カイゼルが歩き出しながら言う。
「どうして間に合った。……距離、詰めるのが早すぎる」
質問は責めではない。報告の穴を埋めるためだ。ルーシーは歩幅を合わせ、短く返した。
「さっきの出力のあと、戻したら普通に動けました。追うとき、いつもより楽でした」
セリナが横から言う。
「楽って言うな。こっちは見てて胃が痛いわよ」
「すみません。でも、追えると思ったから追いました」
ルーシーはそこで初めて、ケスディアの方を見た。ケスディアは袋を抱え、目線を落としたまま歩いている。歩ける。腕も動く。治っている。だが、顔だけがまだ戻っていない。
ルーシーは声をかけた。
「腕、まだ痛みますか? 荷物、重いなら持ちますよ」
ケスディアは一拍置いて返した。
「……平気だ。痛いけど、持てる」
セリナが即座に刺す。
「傷はもう治っているでしょ。……持てないなら私が持つわよ。落とさないでね」
「うるさい。落とさねえよ」
「ほんと、大丈夫かしら」
セリナはケスディアの歩幅を見て、少しだけ速度を落とす。隊列の速度を合わせる。カイゼルは盾を持つ位置を変え、前を切る角度を保つ。
森の出口が見えてきた。湿り気が薄れ、地面が少し硬くなる。枝の密度が変わる。視界が広がる。そこで、ルーシーは胸の内側をもう一度確かめた。静かだ。乱れない。刃が勝手に走らない。身体の位置が読みやすい。
セリナが横目でルーシーを見た。
「さっき、追うって言ったとき。……怖かったわよ。あなた、消えるかと思った」
「消えません。戻れる距離でやるって言いました」
「言った。……言ったけど、言うのと現実は違うでしょ」
セリナの言葉は素直だった。言い訳がない。場を回してきた人間の言葉だ。カイゼルがその会話を拾う。
「……判断は速かった。だが、制約を外したのも事実だ。
次は、俺が止める前提で動け」
ルーシーは一度だけ頷いた。
「はい。止まれる距離でやります」
そのやり取りを、ケスディアは黙って聞いていた。
しばらくして、喉の奥から声を絞り出す。
「……あの距離で、追いつくとは思わなかった」
言葉が続かない。喉が詰まる。あの瞬間を、どう言えばいいのか分からない。ルーシーは歩いたまま、淡々と返した。
「逃げた時点で、形が崩れました。こっちが速いって話じゃないです。逃げるための体力が、残ってなかっただけ」
カイゼルが低く頷く。
「報告はそう書く。……撤退の判断が遅れた。そのため損傷で逃げ切れなくなり。結果、倒せた」
セリナが短く付け足す。
「つまり、あんたが勝手に撃ったせいで、私が腕治して、ルーシーが首落として、カイゼルが報告書を書く。……余計な仕事増やしただけね」
「……悪かった」
「あんまり素直だと、気持ち悪いわね」
ケスディアの声が小さくなる。セリナはそれ以上責めない。責めるより先に、帰って報告して、仕事を終わらせる必要がある。
街道に出る。石畳の硬さが足裏に戻る。森の匂いが後ろへ流れる。ギルドの屋根が見える。人の声が遠くから混じってくる。
カイゼルが歩幅を落とし、全員の位置を整えた。
「帰ったら俺が先に受付へ行く。証を出す。……セリナ、補足。ケスディア、口を挟むな。必要なことだけ言え」
「……分かった」
ケスディアが頷く。悔しさは消えていない。だが、今日は勝負の日ではない。仕事の日だ。ルーシーはその横顔を見て、声を落とした。
「帰ったら、話しますね。……今は、帰りましょう」
セリナが小さく笑う。
「そういう事も言えるのね。よかった。無口な人だと思ってたわ」
「言葉が出にくかっただけです。……話すのは、嫌いじゃない」
カイゼルが前を見たまま言う。
「あとで、ゆっくり話す必要があるな」
ギルドの扉が近づく。証の袋が重い。だが、その重さが仕事の形になっている。ケスディアが袋を抱え直し、喉を鳴らした。
「……終わったら、飲むか」
セリナが即答する。
「飲む。今日は飲みたい。ルーシーのあんなの見たらこのまま寝られない」
カイゼルが短く返す。
「一杯だけだ。明日もある」
ルーシーは歩きながら言った。
「一杯で済むと思えません」
セリナが笑い、ケスディアが悔しそうに鼻で息を吐く。カイゼルは小さく息を吐いて、扉を押した。
長かった1日がもうすぐ終わろうとしている。




