第64話 明確な差
でかい。
訓練場の扉を押すと、砂の匂いが立った。その真ん中にいる男を見て、ルーシーが最初に思ったのは、それだけだった。
肩の幅も、腕の厚みも、鎧の上から分かる。こちらに来てから、ルーシーが見上げる相手は数えるほどしかいない。その一人だった。
グレイヴ・ロウは武器棚の前で、木剣を一本、指先で回していた。遊んでいるように見えるのに、重心が一度もぶれない。
壁際にはローデリック、離れてブレイデンが腕を組んでいた。
柵の外は、昨日より人が多かった。誰かが、聞かれてもいないのに隣の新顔に説明している。
「あれだ。ギルド長の剣に、砂をつけた奴だ」
端には、昨日と同じ大盾の男。その隣で、小柄な女が、肘までまくった腕を組んでいた。
「昨日の砂が、まだ膝に残ってる。……グレイヴ、こいつだ」
グレイヴは木剣を回すのを止め、初めてルーシーを真正面から見た。測る目だった。
「ルーシー、だな」
「はい。ルーシーです。よろしくお願いします」
「よろしく、って柄じゃねえな」
口元だけが、片側に寄った。
「今日の目的は一つだ。――『今の力』を見せろ。グレイヴが見る」
ローデリックが言い、グレイヴが木剣を一本放った。
ルーシーが構えても、グレイヴは構えなかった。右手だけで、木剣をぶら下げるように持っている。左手は、腰の後ろに回したままだ。
「片手で、ですか」
「Cになりたてなら、これで足りる」
柵の外で、誰かが短く口笛を吹いた。
ルーシーは踏み込んだ。
打ちこむたびに、木剣はグレイヴの体があった場所を通り抜けた。避けたようには見えない。最初から、そこにいなかったように見えた。
「速いな」
褒められた気は、しなかった。六本目で、ようやく木剣に触れた。カン、と軽く当てて流す音がした。
「……両手だ」
柵の外の誰かの呟きで、初めて気づいた。腰の後ろにあったはずの左手が、いつの間にか柄に添えられている。
グレイヴの横薙ぎが来た。木剣が、空気ごと押してくる。
ルーシーは跳ばずに、半歩、外へ出た。足が砂を掴み、体は半歩の先まで運ばれた。木剣が背中の空気を切って通り過ぎ、その先で、ルーシーの肩が柵の横木を打った。
ごん、と鈍い音がして、柵の杭が一本、斜めに傾いた。
「続けろ」
ルーシーは柵から離れ、間合いを大きく取り直した。半歩が一歩になるなら、一歩ぶん、先に空けておけばいい。遠くから一歩で詰めた。
グレイヴの縦の一撃が、上から落ちてきた。重さに任せた落ち方ではない。肩と背中で「落として」いる。
合わせたら、持っていかれる。木剣の側面を当て、角度をつけて滑らせながら、体ごとずらした。ギリ、と嫌な擦れが手のひらに残る。足は浮かなかった。
「今のはまともだ」
胸の奥が熱くなった。
だが――そこまでだった。
グレイヴが半歩踏み出しただけで、木剣の先が、拳一つ近くにあった。
「ここからだ」
短く、一言。
「ヴァルキア」
派手な光も、火花もない。
なのに、空気が一段、硬くなった。見えないものが肩に乗り、胸に乗る。グレイヴの足もとから、砂が輪の形に沈んでいく。輪は柵の下をくぐり、外の砂まで届いた。
柵の外で、誰かが一歩下がった。続けて、もう一人。下がらなかったのは、端の大盾の男と、その隣の小柄な女だけだった。
打ち込んだ先に、もうグレイヴの木剣の腹が置いてあった。次は、振り出したばかりの剣の根もとに。その次も、同じ所で。今度は、音さえ鳴らなかった。
グレイヴの木剣が肩口に触れるだけで、腕が沈んだ。
手数を増やした。これまでの現場で体が覚えた反射を、全部出す。
横に払われただけで、木剣が外へ押し流された。踏ん張るほど、肩から先が持っていかれる。
次の瞬間、グレイヴの木剣が、ルーシーの胴へ「置かれた」。
置かれただけで、終わりが分かった。
「そこまで」
ローデリックの声に、グレイヴはすぐに引いた。場の重さが、すっと抜けた。柵の外で、誰かが長く息を吐いた。
息は荒くない。体も動く。だが掌と腕の奥が、じんと痺れている。
「片手で済ませるつもりだったろ」
「済ませるつもりだった」
ルーシーは、木剣を握った自分の両手を見下ろした。
「あの。両手で持つのは、普通じゃないんですか」
「普通だ。こいつ以外はな」
「ふん」
グレイヴは木剣で自分の肩を一度叩き、ルーシーを見た。
「止まれる。踏み込みも浮かない。だが、今のままだと、上に行ったら、まず通らない」
「はい」
グレイヴの視線が、ルーシーの胸元――銀のプレートのあたりで止まった。見ているようで、見ていない。
「ローデリック。こいつ、なんか変だ」
「どこが」
「……中が、うるさい」
ローデリックが、こちらを見た。
「気づいたか」
「柵の杭のこと、でしょうか」
「杭じゃねえ」
グレイヴが、ルーシーの胸元を見たまま言った。
「お前、止める稽古はしてるよな。でも、止めても、まだ余ってる。それが剣に滲んでる」
追いつかれた時、確かに胸の奥が熱くなった。
「自覚は、まだ」
「だろうな。だから言ってる」
グレイヴは、自分の胸を親指で一度叩いた。
「強化ってのは『押す』んじゃない。『合わせる』んだ」
ローデリックが言った。
「だから、お前に振る。グレイヴ。こいつに、剣を教えろ」
「俺は優しく教えるのは向いてねえ」
「知ってる」
「今日のところは、挨拶で十分だ。また来い」
「お願いします」
「『お願いします』は要らねえ。――やるか、やらねえかだ」
「やります」
グレイヴの指の上で、回りかけた木剣が止まった。
頭を下げて出口へ向かいかけたところで、背中に声が来た。
「ルーシー。速さは捨てるな。今日の打ち込み、十七本。当たったのは、二本だ。それも、俺の木剣にな」
十七本も振った覚えは、なかった。
「はい」
からん、と、木剣が棚へ放りこまれる音がした。
出がけに、傾いた柵の杭に手を添えた。
昨日、ギルド長の肩口で木剣を止めたときと、同じ手にする。押し倒すのではない。まっすぐの所まで運んで、そこで離す。
指先で押すと、杭はゆっくり起き上がり、まっすぐの所で止まった。手を離しても、もう傾かなかった。根もとの砂に、細い割れ目が一筋だけ残った。
(③、杭に、一勝)
出口で、一度振り返った。
その杭の前に、ブレイデンがしゃがみこんでいた。膝の上に紙を広げ、何か書きつけている。杭を一度見て、出口のルーシーを一度見て、また書いた。
(あれ、何の紙だろう)




