第65話 ヴァルキア
「柵の杭。一本、修繕の申請が出てたわ」
朝の受付で、マレーナは挨拶より先にそう言った。
「一本、でしたか」
「一本よ。根もとを打ち直すだけ。傾いてたのを、誰かがまっすぐに戻してあったそうだけど」
申請の紙が、くるりとこちらを向いた。申請者の欄に、短く角ばった字でブレイデンの名前。理由の欄には、同じ字で『通常の消耗。傾きは戻してあり、打ち直しのみ。安く済む』とある。
(見られてた)
「打ち直しの分、払います」
「誰かさんが?」
マレーナのペン尻が、紙の『戻してあり』の所を、とん、と叩いた。
「払わなくていいの。訓練場の柵は、壊れる前提で建ててあるから。……戻してくれる人がいるのは、前提に入ってなかったけど」
マレーナは紙を引っこめ、帳簿を開いた。
「午前は裏、空けてある。午後は軽い黄なら回せるけど、どうする?」
「午後は、手が震えてなければやります」
「いいわ。分かりやすい基準。あなた、頑張り方が雑になる時があるからね」
「自覚は、あります」
◇
訓練場の柵の向こうに、グレイヴがいた。向こうは動いていないのに、ルーシーの歩幅だけが先に小さくなる。
「よう。昨日の続きだ」
「おはようございます。よろしくお願いします」
「挨拶はいい。三日で終わらせる。俺は長く張り付けねえ」
「はい」
「条件は一つ。出したら戻せ。戻せないなら使うな」
木剣が飛んできた。受け取って握ると、指先が先に強ばる。昨日の痺れが、まだ手の中に居座っていた。
「力を抜け」
壁際の木箱で、ローデリックが片方の膝を手のひらでさすっていた。ルーシーが頭を下げると、顎を小さく動かしただけで返した。今日はグレイヴの領分、ということらしい。
グレイヴは、木剣が触れそうなほど近くまで来た。
「ヴァルキア」
肌の上の空気が一瞬重くなり、耳の奥が詰まる。グレイヴの踵のまわりで砂が浅く沈み、すぐに戻った。
「近いと、こうなる。隣の動きが遅れる。遅れた奴から死ぬ」
グレイヴは、ルーシーの顔を見て片眉を上げた。
「出し方を教えろって顔をしてるな」
「してました」
「顔に書いてある奴に、出し方は教えねえ」
「カルヴァンには、追うな、と言われ続けました。カルディナの魔法使いです。三か月、見てもらいました」
「そいつは止める側だな」
「帰り道で、カルヴァンに『今のが、圧だ』と言われたことがあります。それと、同じですか」
木剣が、グレイヴの指の上で一回転した。
「呼び名は、教えた奴の数だけある。俺が知ってるのは、剣に乗る分だけだ」
(答えになってない。……でも、カルヴァンの『熱』と、この人の『剣に乗る分』。たぶん、同じものを前と後ろから呼んでいる)
「俺は使う側だ。止められる奴にしか、使い方は教えねえ。お前が止まれるのは、昨日見た」
グレイヴは、構えもせずに続けた。
「先に言っとく。慌てると、左右が入れ替わる。入れ替わった時に、中のやつが出る。出たら、引け」
「引くって、どっちへですか」
木剣の先が、ルーシーの胸の真ん中を指した。
「後ろじゃねえ。中へだ」
木剣の先が、ルーシーの剣先へ下りた。
「半歩。前、後ろ、左、右。俺が言うほうへ」
木剣がルーシーの剣先を軽く叩く。カン。前。カン。後ろ。
「左」
左へ出た。叩く強さは同じまま、言う速さだけが上がっていく。右。左。後ろ。左。左。足は言われたほうへ出て、手首は跳ね返さなかった。踵のまわりの砂は、平らなままだった。
昼前、グレイヴは木剣を肩に担いだ。
「四十、言った。入れ替わりは、なしだ。午後は働け。疲れた手で、今のをやれ。入れ替わりそうになったら、引け」
(四十。……数えてたんだ)
午後の黄の依頼で、ルーシーは荷を一つも落とさなかった。そのかわり、入れ替わりそうになるたびに何もない所で肩を落として引いたので、依頼主に「肩、凝ってるのかい」と心配された。
◇
コン、と、丸太の的が硬い音を返した。
木片が二本飛んだ。一本は足もとの砂にまっすぐ突き立ち、もう一本は柵の横木に刺さって震えた。横木に肘をついて見物していた男の、肘のすぐ横だった。
「すみません! 肘、大丈夫ですか」
「謝るな」
二日目の的は、何度も打たれて毛羽立った丸太だった。当てろ、ただし壊すな、木片を飛ばすな。一回目と二回目は、ちゃんと普通の音がしたのに。
グレイヴが、横木に刺さった木片を抜いた。釘ほどの長さで、先が針のように尖っている。それを、男の肘の横にかざした。
「これが狭い坑道なら? 横の仲間の目なら?」
喉が乾いた。
(坑道の壁。……あの時、何も続かなかったのは、運だ)
「現場で味方の盾を割ったらどうなる。当てに行くな。壊しに行くな」
次の一打は、当てるより先に、戻すことを決めた。音は普通のままで、木片も飛ばなかった。
昼前、グレイヴは掌を差し出した。分厚く、古い傷が何本も白く走っている。
「ここに当てろ。木剣の腹で、軽く。普通で」
人の手だ。さっきの尖った木片の先が、目に浮かぶ。
木剣が掌に触れた瞬間、手首の奥で何かが跳ねかけた。跳ねる前に、胸のほうへ戻した。
ぺた、と間の抜けた音がしただけだった。掌は、揺れもしない。
「それだ。……今、怖かったろ」
「怖かったです」
「ふん。正直だな」
グレイヴは掌を一度握って、開いた。
「明日で決める」
◇
三日目の朝、手のひらに薄い水ぶくれができていた。握ると小さく痛む。
柵の外では、見物の二人が話していた。
「北の森の縁で、また荷車が上から石で止められたってよ」
「森の話はするな。朝から」
話を切ったのは、色の褪せた襟巻きの男だった。
「その手。水ぶくれ」
別の声がした。大盾の男の隣で、小柄な女が、今日も袖を肘までまくっている。
「見せて」
「平気です。明日には治ってます」
「そういう人が、いちばん治しにくいのよ」
「セリナ。他所の隊だ」
大盾の男が、短く言った。
「まだ、ね」
女は袖をもう一折りして、それ以上は言わなかった。
グレイヴは、挨拶の代わりに木剣を振ってきた。
右。左。右。三つ目で、手首の奥に戻りきらない硬さが引っかかった。
木剣の先が、ルーシーの手首を軽く叩いた。
「声を使え。『引く』と言え。言ってから戻せ」
縦に来た。受けて、小さく言った。
「引く」
「何だあれ。おまじないか」
柵の外で、誰かが首をかしげた。
(おまじないです。効くので)
受けるたびに、声を出す。声にすると、肩が落ちた。
七つ目で、グレイヴの踏み込みが深くなった。体が「逃げろ」と言う。逃げずに受け、重ねて――
コンッ、と音が変わった。
足もとの砂が、ひと息で輪に沈んだ。輪は止まらずに柵の下をくぐり、外の砂まで届いて、ようやく止まった。三日前、グレイヴの足もとから広がったのと、同じ所だった。
柵の外で、大盾の男は、今日も下がらなかった。隣の女の袖をつまんで、半歩だけ後ろへ引いた。
輪の真ん中に、自分の靴が二つ、並んでいた。
「やめろ。そこで終わりだ」
グレイヴの指が、ルーシーの手首の骨を押さえた。ねじ伏せるのではなく、動ける余地だけを消す押さえ方だった。
「お前が『出した』んじゃねえ。勝手に入った。ヴァルキアだ。お前の中の、うるさいやつがな」
訓練場ごと沈んだ、三日前のあの重さ。あれが、自分の中に。
「……私、いま……勝手に」
「入った。しかも短くじゃなく、鋭く。あれを味方の横でやったら、当ててなくても隣が倒れる」
唇を噛みそうになって、やめた。噛めば、また強ばる。
「順番は三つだ」
グレイヴは、木剣を指先で一回転させた。
「引く」
もう一回転。
「一秒だけ乗せる。乗せたら、すぐ戻す」
三回目で、柄が掌に収まった。
「それから、意識して入れる。逆にやるな。声が引き金になる」
木剣の先が、ルーシーの胸元との距離を示した。
「この距離で、もう一度」
怖いまま、声を出した。
「引く」
受けて、短く重ねて、戻す。反発は短く、足もとの砂は輪にならなかった。
「今のは、いい」
(いい、って言った)
そう思った時には、グレイヴの木剣がルーシーの肩に載っていた。軽く。いつ来たのか、見えなかった。
「褒められた後は、一拍遅れる」
木剣が、ことりと外された。
「きっかけは、できた」
グレイヴは、木剣を肩に担いだ。
「俺は他所へ回る。仕事が溜まってる。次に来るのは二週間後だ。それまでCの仕事に慣れろ。戻ったら報告を聞く。どこで勝手に出たか、どこで引けなかったか。言えるようにしとけ」
「書き留めておきます。ありがとうございました」
グレイヴは鼻を鳴らし、木剣を棚へ放りこんで去っていった。
大盾の男が、こちらを一度見た。親指が、背中の盾の縁を一度なぞる。それから、受付のほうへ歩いていった。袖をまくった女が、小走りでその後を追った。
◇
その夜、ルーシーは紙を一枚、机に置いた。
『どこで勝手に出たか』
一行目を書いて、ペンが止まった。その下は、まだ白かった。
その下に書くことは、思ったより早く、向こうからやって来た。




