第63話 ローデリック・ハルフォード
首から下げる紐は、ゆうべのうちに、革の端切れを三つ編みにして作っておいた。一本目は、編み目を締めるたびに革がきしんで、四つ目でちぎれた。二本目は、首輪よりは、ゆるく編んだ。
朝一番に受付へ行くと、マレーナはもう、手元に小さな箱を置いていた。
「来たわね。――今日、手続きやるけど時間ある?」
「あります」
「じゃあ、こっちきて」
窓口の横の低い仕切りの内側に、書類が揃えてあった。フィリスが「お、今日か」と口だけで言ってから黙った。空気を読む時は読む男だ。昨日は読まなかったが。
マレーナが箱を開けた。掌に収まる金属の板が並んでいる。見慣れた鉄と銅の奥に、白く鈍い光を返す一枚があった。
マレーナがそれを取り出すより先に、エリーが身を乗り出した。
「Cは銀なんです! Bは金で、Aは……ミスリルです!」
「エリー、それ私の台詞」
「す、すみません。一度、言ってみたくて」
「次の人の時に言わせてあげる」
「本当ですか!」
「嘘よ」
エリーの肩が落ちた。
マレーナは何事もなかったように、銀の板をルーシーの前に置いた。Cを表す文字が、深く刻まれている。
「首から下げるのは任意。でも、依頼主に提示を求められることは増える」
ルーシーは、腰の小袋から三つ編みの紐を出した。
「用意がいいわね」
「首が、寂しかったので」
「それ、外では言わないでね」
マレーナは紐をプレートの穴に通しながら、もう片方の手で書類を二枚、ずらして差し出した。
「その前に、こっち。Cからは、補助じゃなく自分の名前で『赤』を受けられる。だから同意書が要る。俗に言うと『死亡同意』ね。Cは人数が一番多いランクで、死ぬ人数も、一番多いの」
任務中の死亡、行方不明、遺体を回収できない場合。遺留品の扱い、報酬の精算。冷たいほど整った順番で並んでいる。
途中で、目が止まった。
「これと、これと、これが、読めません」
マレーナは身を乗り出し、指で一つずつなぞって読んだ。
「『帰還せず』。『消息を絶つ』。『戻らぬ者』」
(生命保険の約款より短い。……短い方が怖い)
倉庫にいた頃に覚えた言葉は、ロフと、シュクと、ネムと、トゥアだった。どれも、明日を待てる言葉だった。
腰の単語帳の板に、手が行きかけた。新しい言葉は、いつもそこに書く。
この三つは、書かなくていい。
名前を書き、日付を書く。ペン先が紙を走る音が、やけに大きく聞こえた。
マレーナが判を押した。
「報酬も変わる。銀貨四枚で終わる日は、もうないわ」
ルーシーは指を折りかけて、やめた。
(大家の、窓の人に家賃の話をされても、もう、顔色を変えなくていい)
マレーナが、紐の通った銀のプレートを、指先で押し出した。
「受け取って。今日から、あなたはCランクよ」
掌に乗せると、銀は冷たかった。見た目より、重い。
「ありがとうございます」
「手続きだから」
そう言いながら、マレーナの目が柔らかくなった。
「でも――ここまで一度も、担がれて帰ってこなかった。そこは、ほめてあげる」
隣の窓口で、ばさりと音がした。
エリーの手から、帳簿が床へ滑り落ちていた。窓口の向こうに、少年が一人立っている。整えた茶色の髪に、真新しい弓。革の装備は、まだ店の棚の匂いがしそうなほど艶があった。
少年がカウンターに置いたプレートは、金だった。
「届けだ。早くしてくれ」
「は、はいっ!」
少年は退屈そうに広間を見回し、仕切りの内側のルーシーのところで目を止めた。足もとから、ゆっくり上へ。最後は、顎を上げなければならなかった。
「……でかいな」
それだけ言って、少年は書類を受け取り、さっさと出ていった。
エリーが、帳簿を胸に抱えたまま、ささやいた。
「Bです。あの歳で……」
「手を動かして」
エリーの背筋が、まっすぐになった。マレーナはルーシーに向き直った。
「それと。今日は『マスター』に呼ばれてる。裏の訓練場まで、すぐ行って」
「ギルド長が?」
「ええ。呼ばれた理由は、だいたい分かるでしょ。行って。遅くなると、機嫌が悪くなる」
◇
ギルド裏の訓練場は、柵に囲まれた砂地だった。朝の冷気がまだ地面に残っていて、足裏が沈んだ。
ローデリック・ハルフォードは、木剣を持って待っていた。背はそれほど高くない。だが、立っているだけで「逃げ道の位置」が決まる男だ。
壁際には、ブレイデンが腕を組んで立っている。柵の外には、朝の稽古に来たらしい冒険者が何人か。手前に、昨日の襟巻きの男とその連れ。柵の端には、昨日広間の柱の陰にいた大盾の男が、何も言わずに立っていた。
「ギルド長が、昨日Cになった奴を揉むってよ」
「首輪が外れた次の日にか。気の毒に」
襟巻きの男が、楽しそうに柵へ肘をついた。
ローデリックが木剣を一本放った。
「手続きは終わったか」
「はい」
「じゃあ次だ。――お前の今の力を確かめる。決まりは三つ。頭と喉は狙うな。関節もなし」
ローデリックは、目を細めた。
「遠慮はするな。手加減もいらん。――全力で来い。年寄りの骨の心配なら、するな。心配されると、かえって折れる」
「分かりました」
「俺は受けない。流す。受ければ、腕か木剣のどちらかが先に折れる。俺が受けたら、そこで終わりだ」
「ギルド長ー、砂の味、教えてやってくださいよー」
襟巻きの男の声に、連れが笑う。ローデリックは、そちらを見もしなかった。
「――来い」
ルーシーが踏み込んだ。肩口へ、次は胴へ。
ローデリックは、真正面では受けなかった。角度をつけて、外へ逃がす。木剣の側面が擦れ、乾いた音が短く鳴った。
「いい。もっと速く」
胴を見せてから肩へ。砂が、さっきより沈まない。ローデリックの木剣が触れるたびに、勢いだけが外へ流れていく。
「止まるな」
「はい」
一本の線にするつもりで、木剣を走らせた。
ローデリックが一歩、外へ出る。
――その踏み替えが、遅れた。足が砂を噛まず、膝が沈む。半拍。
流す形だった木剣が、受ける形に変わった。
硬い音が一つ鳴った。ローデリックの右腕が跳ね、木剣が砂に落ちた。
「――止めろ」
声が届いた時には、ルーシーの木剣はもう止まっていた。ローデリックの肩口の、指一本手前で。
「す、すみません! 腕、大丈夫ですか」
「ああ。俺のミスだ。今のはお前が悪いわけじゃない。俺の足が遅れた」
ローデリックは、右の膝を一度、手のひらでさすった。
「でも、落ちて……」
「拾えば済む」
左手で拾い上げた木剣の刃の側に、湿った砂がべったりと貼りついていた。右手は、まだ下がったままだった。
「砂、ついてんの、ギルド長の剣のほうだぞ」
連れの男が、ぼそりと言った。襟巻きの男は、襟巻きを鼻の上まで引き上げた。
柵の端の大盾の男だけが、笑いもせず、ルーシーの剣先が止まったあたりを見ていた。
ルーシーも、そこを見た。
腰の板の裏の、『止め――』で途切れた一行が、頭に浮かんだ。
書き足すのは、まだ早い気がした。
ローデリックが、砂のついた木剣を眺めて言った。
「体は、追いついてきた。剣は、まだだ」
それから、痺れの残る右手を開いて、閉じた。
「もっとも、まだの剣にこれをやられる身にもなってみろ。今日の日誌に『ギルド長、木剣を落とす』と書くのは、俺なんだぞ」
ルーシーは、そこで初めて自分から聞いた。
「これから、どうすればいいですか」
「グレイヴに習え」
ブレイデンが、壁から背を離した。ローデリックは構わずに続けた。
「俺の元パーティメンバーだ。俺より若い。でかい。……それでも動ける。腹の立つことにな。あいつは『勝てる形』を作れる。俺に教えられるのは、『転ぶ癖』を消すところまでだ」
「お願いします」
「よし。今日はここまでだ。俺の足が遅れた時点で、稽古としては成立しない。ここで続けると、次は『当たる』」
ローデリックは柵の扉に手をかけたところで、振り返った。
「明日の朝、ここに来い。……でかいのが来る」




