第64話 明確な差
銀のプレートを受け取って、訓練場の砂を一度だけ踏み締めたあの感触が、まだ足裏に残っている。重みはいつも通り背中にあるのに、邪魔にならない。身体がきちんと「動く」ことが当たり前になってきたせいで、逆に“次”だけが浮き上がって見えた。
ローデリックが口にした名前。
グレイヴ・ロウ。
ギルドの記録では、Aランク。支部の名簿に載っていても、町で見かけることはほとんどない。いる時は「何かが起きる」時だ――そんな扱いの人間に、自分が“習え”と言われた。
その夜、ルーシーは素直に寝た。余計な反省に頭を引っ張られないように。明日でいいことは明日にしよう。
そして翌朝。
ギルドの裏手、訓練場の柵が見えたところで、ルーシーは足を止めた。
深く一度だけ息を吐いて、止める。胸じゃなく腹へ落とす、短い確認。
(……よし)
扉を押すと、砂の匂いが立った。
木杭。古い的。武器棚。いつもの訓練場だ。なのに、空気の密度だけが違う。そこに誰かが“いる”だけで、場の空気がいつもと違う。
その中心に、男がいた。
でかい。
肩の幅が、まず目に入る。腕も太い。身体の輪郭が、鎧の上からでも分かるような厚みがある。背は高く、立っているだけで砂が沈む。けれど重いだけじゃない。足裏が落ち着いていて、風に揺れない。
グレイヴ・ロウ。
武器棚の前で、木剣を一本持ち、もう一本を指先で回していた。遊んでいるように見えるのに、重心が一度もぶれない。回し方が“手先”じゃなく、体幹でやっている。
壁際にはローデリック。さらに少し離れてブレイデンが腕を組んでいた。
二人とも、余計な声を出さない。ただ見ている。
ルーシーが歩み寄ると、ローデリックが短く言った。
「来たな。――グレイヴ。こいつだ」
グレイヴは木剣を回すのを止め、初めてルーシーを真正面から見た。
目が鋭い。睨むというより、測る目だ。遠慮なく距離を詰めてくる視線。見られる側の逃げ道を塞ぐ種類の視線。
「……ルーシー、だな」
声は低い。無骨で、飾りがない。
「はい。ルーシーです。よろしくお願いします」
「よろしく、って柄じゃねえな」
そう言って、口元だけが少し動いた。笑ったのかどうか分からない程度。
ローデリックが一歩だけ前へ出る。
「今日の目的は一つだ。――“今の力”を見せろ。グレイヴが見る」
「わかりました」
グレイヴが頷き、木剣を一本、放る。
空中で一度回ったそれを、ルーシーは受け取った。軽い。軽いからこそ、誤魔化しが効かない。
「ルールは前と同じだ」ローデリックが言う。「頭と喉はなし。関節もなし。殺し合いはしない」
「分かりました」
ルーシーが構えると、グレイヴは構えない。
両手で木剣を持ってはいる。だが“構え”としては、ただ持っているだけだ。重心が動かないから、どこからでも出る。
ルーシーは一拍置いた。
相手はAランク。
自分はCランクになったばかり。
剣の技術は、まだ素人に毛が生えた程度だ。
だから――出せるものを出すしかない。
自分の武器は、スピードとフィジカルだ。
踏み込む。
砂が沈む前に、木剣が走った。
斜め上から肩口へ。次に胴へ。打った瞬間に戻す。戻しながら次の打撃を重ねる。
速い。
自分でも分かる。踏み込みが浮かない。身体が突っ込まない。止めたいところで止まる。
その刹那、グレイヴが半歩だけずれた。
避けた、というより。
そこにいなかった、というずれ方だ。
ルーシーの木剣は空を切り、風だけを叩く。
なのに、グレイヴは一切慌てない。顔も変わらない。息も変わらない。
そして、落ち着いたまま言った。
「……ふん。速いな」
褒めるでも、驚くでもない。
事実を確認して終わり、という口調。
(速いだけ、って言われてる)
ルーシーは奥歯を噛まずに、もう一度踏み込んだ。
今度は角度を変える。胴を見せてから、肩へ。肩を見せてから、脇へ。手数を増やす。相手の視界を散らす。
グレイヴは、揺らがない。
視線が動かないのに、身体だけがずれる。
避けるたびに、砂の沈み方が一定で、音も一定だ。無駄な踏み込みがない。
ルーシーの木剣が、ようやく木剣に触れた。
カン、と乾いた音が鳴る。だがそれは“止めた”音じゃない。軽く当てて、流した音だ。
(受け止めない。……軽く、流してる)
グレイヴは受けない。押し返さない。
ただ、こちらの打撃を“流す”。
ルーシーの剣が戻る前に、グレイヴの木剣が来た。
横薙ぎ。
速い、というより重い。
空気が変わる。木剣が風を押してくる。避けないと当たる、と身体が先に判断した。
ルーシーは跳ばない。
半歩、外へ。足を滑らせず、地面を掴んでずれる。
木剣が背中の空気を切って通り過ぎた。
(今の、当たったら……)
痛い、では済まない。
木剣でも、あの厚みと体重が乗った一撃は、体を持っていかれる。
ルーシーはすぐに間合いを戻した。遠くに逃げない。逃げると追われる。追われると、速度の優位が消える。
「続けろ」
グレイヴが淡々と言う。
「はい」
返事だけして、ルーシーは再び踏み込む。
今度は“速さ”を一段上げた。身体が許す範囲で、最短の一歩。木剣の速度を上げる。無駄を消す。
グレイヴの目が、ほんのわずかに細くなった。
(見えてる)
見えてる上で、止めに来ない。受けに来ない。
そして――来た。
縦の一撃。
上から、落ちる。
落ちるのに速い。重力に任せた落ち方じゃない。自分の肩と背中を使って“落として”いる。
ルーシーは木剣を合わせない。
合わせたら、持っていかれる。
剣の腹で受けるような真似をしたら、手首が死ぬ。
だから、外へ逃がす。
木剣の側面を当て、角度をつけて滑らせる。
体ごと半歩、ずらす。
ギリ、と嫌な擦れが手のひらに残った。
重い。とにかく重い。
それでも、体は崩れない。
足が浮かない。
自分の速度で、間合いを戻せる。
グレイヴが、少しだけ口元を動かした。
「今のはまともだ」
褒め言葉ではない。
“合格の最低ライン”を通った、という言い方。
ルーシーは返事をしなかった。返すと呼吸が乱れる。乱れた方が負ける。
それでも、胸の奥が熱くなるのが分かった。
速さだけじゃない。技術は薄くても、“剣”として届き始めている。
だが――そこまでだった。
グレイヴが、一歩踏み出しただけで。
距離の感覚が崩れた。
さっきまでの間合いと違う。
同じ場所にいるのに、近い。近いから、逃げ道が少ない。
(重い……)
圧が、前から来る。
押されているわけじゃないのに、押される予感がする。
ルーシーが反射で後ろに引きそうになった瞬間、グレイヴの声が落ちた。
「……ここからだ」
そして、短く叫ぶ。
「ヴァルキア」
派手な光はない。
火花もない。
なのに、空気が一段、硬くなる。
“圧”が跳ね上がった。
見えないものが、肩に乗る。胸に乗る。砂地の上にいるはずなのに、床が一段沈んだような錯覚がくる。重くなるのは自分じゃなく、場そのものだ。
ローデリックが、横で小さく息を吐いた。
ブレイデンの視線が一段だけ鋭くなる。
(……これが、強化?!)
ルーシーは本能で理解した。
今までのグレイヴは、ただの“強い剣士”だった。今のグレイヴは、“別の生き物”に近い。
ルーシーが踏み込む。
同じ速度のはずなのに、間に合わない。
グレイヴの木剣が先にそこにある。
避ける選択肢が消える。流す角度を作る前に、剣が来る。
ルーシーは半歩ずらす――ずらしたのに、追いつかれる。
重い。
速い。
両方が同時に来る。
木剣が肩口に“触れる”だけで、腕が沈む。
痛いというより、身体が言うことを聞かなくなる方向の衝撃。
(当てられただけで、崩される……)
グレイヴは追い込み方が荒くない。
むしろ丁寧だ。逃げ道を残している。残しているのに、そこへ逃げると次が来る形になっている。
“勝てる形”。
ローデリックが言っていたものが、いま目の前で形になっている。
ルーシーは、速度で逃げ切ろうとした。
踏み込みを増やし、手数を増やし、剣を増やす。以前の“試合”で培った反射を、全部出す。
出した瞬間、分かった。
追いつかれるのではない。
“通らない”。
速さはある。
力もある。
でも、相手の前では“通らない”。
グレイヴが、木剣を横に払った。
それだけで、ルーシーの木剣が外へ弾かれた。
弾かれた、というより――押し流された。
手首が熱くなる。
握りがほどけそうになる。
踏ん張れば踏ん張るほど、肩から先が持っていかれる。
次の瞬間、グレイヴの木剣がルーシーの胴へ“置かれた”。
置かれただけで、終わりが分かる。
押せば倒れる。倒れたら、木剣でもダメージを受ける。
ローデリックの声が飛んだ。
「そこまで」
グレイヴが即座に引いた。
無駄な追い込みはしない。勝っていても、無理に見せつけない。
ルーシーは一歩下がり、木剣を下ろした。
息が荒いわけじゃない。身体は動く。だが、掌と腕の奥がじんと痺れている。
(……力の差だ)
力だけじゃない。
質量と、技と、そして“ヴァルキア”の差。
グレイヴが木剣を肩に担いだまま、ルーシーを見る。
「ふん。……基礎が少しは、できてきたようだな。止まれる。踏み込みも浮かない。剣速も悪くねえ」
淡々と言う。評価が並ぶのに、甘さがない。
「でも、今のままだと――上に行ったら、まず通らない」
ルーシーは頷いた。
言い返す材料がない。悔しいより、納得が先に来る。
「……はい」
グレイヴはそこで、視線を少しだけ外した。
ルーシーの剣じゃない。肩でもない。胸元――銀のプレートのあたりを、見ているようで見ていない。
次に、グレイヴはローデリックへ目を向けた。
「ローデリック。こいつ、なんか変だ」
言い方が雑なのに、真剣だった。
ローデリックは眉を動かさない。
「どこが」
「……中が、うるさい」
グレイヴが短く言った。
ルーシーは一瞬、何のことか分からない。
ローデリックが、ルーシーを見た。
「気づいたか」
「……すみません。何が、でしょうか」
ローデリックは答えず、グレイヴにだけ顎を向ける。
グレイヴが続けた。
「お前、止める訓練はしてるよな。……でも、止めても、まだ余ってる」
言葉が少ないのに、核心だけが刺さる。
ルーシーは、自分の内側を意識した。
確かに、落ち着いている。暴走はしない。漏れも止めた。
それでも――ゼロではない。完全に静かではない。
(……残ってる)
グレイヴが言う。
「それが“剣”に滲んでる。自分じゃ気づいてねえだろ」
ルーシーの手のひらが、少しだけ強く木剣を握った。
さっき、剣が戻った時。追いつかれた時。負けを理解した時。
確かに、胸の奥が熱くなった。その熱が、木剣に滲んだ気がした。
「……自覚は、まだ」
「だろうな。だから言ってる」
グレイヴは言い切る。
「このまま放っておくと、いずれ勝手に出る。勝手に出るのが一番危ねえ。強化ってのは“押す”んじゃない。“合わせる”んだ」
“合わせる”。
その言葉が、ルーシーの中で残った。
力を増やす話じゃない。自分の身体の力に、何かを合わせる話。
ローデリックが頷く。
「だから、お前に振る。グレイヴ。こいつに、剣を教えろ」
グレイヴは一拍置いてから、ルーシーを見た。
「俺は優しく教えるのは向いてねえ」
「そんなこと、わかってるよ」ローデリックが即答する。
グレイヴは鼻で笑って、木剣を棚に戻した。
「今日のところは、挨拶で十分だ。……また来い。次は“基礎”を壊さずに、剣の型を作る」
ルーシーが頭を下げる。
「お願いします」
「“お願いします”は要らねえ。――やるか、やらねえかだ」
無骨だ。
けれど、嫌な無骨さじゃない。責任を軽くしない言い方だ。
ローデリックが、最後にルーシーへ言った。
「分かったな。Cになったのは終わりじゃない。これからが始まりだ」
「はい」
「それと。今日のところはもう帰っていい。今の勝負を整理して、引きずるな」
ルーシーは頷いた。
負けの形がはっきりしていると、次の段取りが作れる。曖昧な負けほど厄介なものはない。
訓練場を出る直前、グレイヴが一度だけ呼び止めた。
「ルーシー」
「はい」
グレイヴは少しだけ目を細めて言った。
「……ふん。速さは武器だ。捨てるな。――ただし、武器は“当たって”初めて武器になる」
ルーシーは、その言葉を一度、胸の奥に落とした。
「分かりました」
グレイヴはそれ以上言わず、背を向けた。
背中が大きい。大きいのに、重さで圧さない。単に「そこにいる」だけで場を支配する背中だ。
ルーシーは柵の外へ出て、銀のプレートが胸元で冷えるのを感じた。
Cになった。
だから終わり、ではない。
Aの剣には、通らなかった。
通らない理由が、分かった。
次は――通すための形を作る。
ルーシーは歩き出す。
足取りは軽い。負けたのに、落ち込まない。次に目指す目標が見えたからだ。
だが、訓練場から離れるほど、背筋に冷たいものが戻ってくる。
空気が押し潰されるように重くなった、あの感触――《ヴァルキア》。
そして、グレイヴが放った言葉。
『中が、うるさい』
制御できているつもりだった。止められている、と思っていた。
それでも、グレイヴの目には、まだ“何か”が見えたのかもしれない。
ルーシーは銀のプレートを強く握りしめた。
明日からの訓練は、剣だけじゃ終わらない。
自分の中のそれが武器なのか、火種なのか――その答え合わせが、明日から始まる。
そう思っただけで、胸の奥が少しだけ熱くなった。




