第63話 ローデリック・ハルフォード
朝のギルドは、いつも通り“回っている音”に満ちていた。
紙が擦れる。判を押す。硬貨の音が短く鳴る。薬草の匂いが、わずかに空気に残る。
ルーシーが受付に立つと、マレーナは帳簿から目を上げ、余計な前置きなく言った。
「来たわね。――今日、手続きやるけど時間ある?」
「あります」
「じゃあ、こっちきて」
窓口の横、低い仕切りの内側。一般の冒険者が立ち聞きできない位置に、書類が揃えてあった。
隣でエリーが緊張したまま背筋を伸ばし、フィリスは「お、今日か」と口だけで言ってから黙る。空気を読むときは読む男だ。
マレーナが小さな箱を開けた。
中に並ぶのは、掌に収まる金属板――ランクプレート。
ルーシーが見たことのある鉄。銅。
その奥に、白く鈍い光を返す一枚があった。
マレーナはそれを取り出し、指先で裏を確かめてから、ルーシーの前に置いた。
「これ。Cランクはシルバーのプレート」
プレートの表面に、深く刻まれた文字。この世界で“Cと呼ばれる文字”が刻まれてる。
飾り立てた紋様じゃない。実務の印だ。薄い銀の色味が、触れるだけで冷たさを伝えてくる。
「Eは鉄、Dは銅、Cは銀。Bは金、Aはミスリル……刻印と色で、誰が見ても分かるようになってる」
説明は淡々としているのに、言葉の並びが重い。
“銀”は、きれいだからではない。責任の色だ。
「受け取って。首から下げるのは任意。でも、依頼主に提示を求められることは増える。――次」
マレーナは書類を二枚、ずらして差し出した。
一枚目は、昇格の確認と登録更新。
二枚目は、文字量が一気に増える。
「Cからは危険度“赤”が範囲に入る。だから同意書が要る。俗に言うと“死亡同意”ね」
ルーシーが紙面に目を走らせる。
内容は冷たいほど整っている。
任務中の死亡・行方不明・遺体未回収の可能性。
遺留品の扱い。
報酬の精算不能。
治療費の補償範囲。
遺族への通知ができない場合の手続き。
マレーナは、いつもより少しだけ言葉を遅くした。
「脅すためじゃない。Cは主戦級で、人数も一番多い。――でも、死ぬ人数も一番多い。仕事量が違うから」
逃げ道を塞ぐ言い方はしない。
ただ、現実の線だけは引く。
「サインは、確認した証拠。受けたくない仕事を受けろって意味じゃない。危ないと思ったら引く判断も、Cの評価に入るわ」
“強さ”ではなく“信用”の話だ。
ローデリックと同じ温度の言葉だった。
ルーシーは息を吐いて、ペンを取った。
迷わない。迷っても、ここで引き返す理由にはならない。
名前を書く。日付を書く。
ペン先が紙を走る音が、やけに大きく聞こえた。
「……はい」
書類を返すと、マレーナは即座に確認し、判を押す。動きが速い。無駄がない。
「次。報酬の目安。Dの時、あなたは一日銀貨四枚が“基準”だったわね」
ルーシーが頷く。
生活の数字として身体に入っている。
「Cは、依頼の内容次第で幅が出る。赤を受けられるってことは、危険手当が乗る。ざっくり言えば、同じ一日でも“四枚で終わることはまずない”」
マレーナは言い切るが、煽らない。
「例えば、Cの標準的な依頼――危険度赤の調査や討伐、護送なら、基本が銀貨八枚から。条件が悪ければ上がる。人数が多ければ分配も変わる。成功報酬や素材の買い取りも絡む」
ルーシーは静かに計算しかけて、やめた。
数字の先にあるのは、等価の危険だ。
「だからこそ、書類が増える。前金、装備の斡旋、優先案件も出る。――代わりに、ギルドも“戻ってこない可能性”を前提に扱う」
言葉が刺さるのに、嫌じゃない。
きちんと扱われている、と感じる。
マレーナは最後に、銀のプレートを指先で押し出した。
「受け取って。今日から、あなたはCランクよ」
ルーシーはプレートを掌に乗せた。
銀は冷たい。けれど、軽くない。
重いのは金属じゃなくて、これから先の選択肢の幅だ。
「……ありがとうございます」
「お礼はいらないわ。手続きだから」
そう言いながら、マレーナの目は一度だけ柔らかくなる。
「でも――ここまで無事故で来た。そこは、ほめてあげる」
ルーシーは小さく頷いた。
言葉を飲み込み、受け取って終わらせる。浮かない。崩れない。
そのタイミングで、フィリスが咳払いを一つ。
「じゃ、俺からも。Cランク、おめでと。……で、今日はこのまま帰って寝――」
「寝ない」
マレーナが即答した。
「今日は“マスター”に呼ばれてる。裏の訓練場まですぐ行って」
ルーシーの指先が、銀の冷たさを握り直す。
「……マスターが?」
「ええ。呼ばれた理由は、だいたい分かるでしょ」
マレーナはもう帳簿に戻っていた。
仕事の顔に戻る切り替えが速い。
「行って。遅くなると、機嫌が悪くなる」
「はい」
ルーシーが踵を返すと、エリーが我慢できない顔で小さく身を乗り出した。
「ル、ルーシーさん……! あの、えっと……っ」
「あとで」
マレーナが先に言った。声は強くないのに、エリーは背筋を正した。
新人の“止まる場所”が分かっている。
ルーシーはエリーにだけ短く頷き、奥の扉へ向かった。
◇
訓練場はギルド裏にある。
柵に囲まれた砂地。木杭。古い的。端に武器棚。朝の冷気がまだ地面に残り、足裏が少しだけ沈む。
ローデリック・ハルフォードは、そこにいた。
背はそれほど高くない。だが、立っているだけで“逃げ道の位置”が決まる男だ。
武器を持たない日ですら隙がないのに、今日は木剣を持っていた。
壁際には、もう一人。
ブレイデンが腕を組んでいる。視線が硬い。評価する目だ。余計な言葉はない。
ローデリックが木剣を一本放った。ルーシーが受け取る。
「手続きは終わったか」
「はい」
「じゃあ次だ。――お前の現在の力を確認する」
ルーシーは構えた。
木剣は軽い。だが、軽いからこそ誤魔化しが効かない。雑に振れば刀身が暴れる。
ローデリックは淡々と言う。
「ルール。頭と喉は狙うな。関節もなし」
それから、ほんの少しだけ目を細めた。
「遠慮はするな。手加減しろって意味じゃない。――全力でこい!」
ルーシーは一拍置いて答える。
「……分かりました」
「俺の剣の防御は流す剣。……俺が受けたら、その時点で終わりだ。危ないからな」
言い訳じゃない。
この場を“稽古”として成立させるための線引きだ。
「来い」
ルーシーが踏み込む。
一歩目が置かれる前に、木剣が走った。肩口へ。次は胴。間を詰める。
剣速が速い。速いのに、身体が突っ込まない。打った後に、きちんと戻る。
ローデリックは止めない。
真正面で受けず、角度でつけて、外へ逃がす。木剣の側面が擦れ、乾いた音が短く鳴る。
「いい。もっと速く」
言われた瞬間、ルーシーの動きが一段上がる。
踏み込みが軽い。砂が沈む量が少ない。反動で跳ねない。
胴を見せてから肩へ。
速度を落とさず角度を変える。
“技”はまだ粗いのに、身体がそれを成立させてしまう。
ローデリックの木剣が何度も触れて逃がす。受けない。全部、流す。
そして、その流し方が上手い。剣筋を殺さない。相手の勢いだけを流す。
「止まるな」
「はい」
ルーシーがさらに踏み込む。
今度は“線”を一本にするつもりで、木剣を走らせた。
ローデリックが一歩、外へ出る。
――その踏み替えが、ほんの少し遅れた。
地面を噛まない。膝がわずかに沈む。
古傷。本人だけが分かる、遅れ。
ローデリックの顔が変わる。迷いじゃない。判断だ。
流せない。
このまま外へ逃がすと、身体が残る。残れば、次が入る。
だからローデリックは、やむなく“受け”に入った。
木剣がぶつかる。
乾いた硬い音が短く鳴る。
ローデリックの右腕が跳ね、木剣が地面に落ちる。
「――止めろ」
声が低い。即時停止の声だ。
ルーシーは寸で止め、距離を外した。
目が揺れない。止まれる。止めたあとに突っ込まない。
「……今、受けました?」
「ああ。俺のミスだ」
ローデリックは腕を振ろうとして、やめた。痺れが残っている。
「今のはお前が悪いわけじゃない。俺の足が遅れた」
ブレイデンが、壁際で短く息を吐いた。
評価の吐息だ。余計な口は挟まない。
ローデリックは続ける。
「分かっただろ。お前の速さは、普通の人間が受けたら腕が死ぬ。木剣でもな」
ルーシーは黙って頷く。
「お前は身体が追いついてきた。――だが剣は追いついてない。ここから先は“技”で線を一本にしろ。速いまま、正確に」
ルーシーは、そこで初めて聞いた。
「……これからどうすればいいですか」
ローデリックは即答した。
「グレイヴに習え」
その名を口にした瞬間、訓練場の空気が少しだけ変わった。
ただの強い冒険者じゃない。ギルドにとって“切り札”の名だ。
「俺の元パーティーメンバーだ。俺より若い。でかい。……それでも動ける」
ローデリックは言葉を選んだ。数字は出さない。だが、輪郭だけで十分伝わる。
「国内でも上の方の剣士だ。あいつは“勝てる形”を作れる。俺は“事故る癖”を消すところまでだ」
痺れた腕を押さえたまま、ローデリックはルーシーを見上げる。
「Cになったなら、もう逃げなくていい。――今度は、積み上げろ」
ルーシーは木剣を握り直した。
握りに余計な力を入れない。刃の線を想像する。
「……お願いします」
「よし。今日はここまでだ」
ローデリックは短く区切った。
「俺の足が遅れた時点で、稽古としては成立しない。ここで続けると、次は“当たる”。それは稽古じゃない」
ブレイデンが、初めて口を開く。
「止めどころが分かってるのはいい。……Cは、そういう判断を積むランクだ」
ローデリックが頷く。
「手続きは終わった。次は、実務の中で崩れる癖を消す。――マレーナの言うことも聞け。寝ろって言われたら寝ろ」
ルーシーは小さく頷いた。
「はい」
銀のプレートが、胸元で冷たく揺れた。
冷たいのに、妙に落ち着く。
今日の区切りは、二つ。
銀を受け取ったこと。
そして、次の先生の名が決まったこと。
ルーシーは木剣を棚に戻し、訓練場の砂を一度だけ踏み締めた。
ここから先は、速さと力を“勝てる形”に変える。
そのための扉が、いま開いたばかりだった。




