第52話 基礎修行④ 疲労の中で
翌朝、ルーシーは夜明け前に倉庫の扉を叩いた。
空はまだ群青だった。返事より先に、扉が内側へ引かれ、灯りの油の匂いがした。小柄で肩幅のある男が、汚れた前掛けのまま立っている。太い指に、白墨の粉がついていた。
オーウェンは、ルーシーの顔を見て、口の端だけで笑った。
「覚えとくって言ったろ」
戸口の柱に、荷札が一枚、釘で留めてあった。裏返しで、白墨で短く書きつけてある。今のルーシーにも読める字だった。
ルーシー。
その下に、小さくもう一行あった。――背が高い。
(……特記事項)
「二人、熱で寝込んだ。もう一人は夜逃げだ」
「夜逃げ」
「冗談だ。腰をやった」
冗談なのかどうか、顔からは分からなかった。
倉庫の奥には、昨夜着いたばかりの荷が積み上がっていた。藁を詰めた薬瓶の木箱、口を布で縛った油の壺、卵の籠。どれも、角に赤い布切れが結んである。
「全部、割れ物だ。上の棚へ上げる」
その前で、若い倉庫番が三人、あくびを噛み殺していた。いちばん手前に、頭に手ぬぐいを巻いた赤ら顔がいる。鉄材の箱を下ろした日に、いちばん先に箱へ手をかけた人だ。
手ぬぐいの人は、ルーシーを見上げた。見上げて、もう少し見上げた。
「主任。助っ人って、この背の高いの一人ですか」
「そうだ」
「休みは三人ですよね」
「そうだ」
「割れ物に、このでかいのを?」
手ぬぐいの人は、仲間と顔を見合わせて笑った。
「この前のは、腰をひねっただけだからな。力自慢は割るんだよ。決まってんだ。一箱でも割ったら、そっちの昼飯は俺がもらうからな」
「昼までに、全部棚だ」
オーウェンは、太い指の白墨を前掛けで払いながら、帳場へ引っこんだ。賭けの話は、聞こえなかったことにしたらしい。
「あの。私のお昼ごはん、私は賭けていないんですが」
「じゃあ、俺が代わりに賭けといてやる」
手ぬぐいの人が、自分の胸を叩いた。
最初の木箱を抱えた。中で藁がかさりと鳴る。持ち上げるのは、難しくない。いつも通り、すっと胸の高さまで上げて、そこでぴたりと止めた。
ちりっ。
箱の中で、瓶どうしが触れ合う音がした。
「ほら、鳴った」
手ぬぐいの人が、嬉しそうに言った。
割れてはいない。けれど、鳴った。箱を抱えたまま、動けなくなった。
止めたのは、手だけだった。中の瓶は、止まっていなかった。
(……昨日の、石だ)
息を吸った。止めて、吐きながら、箱を下ろした。下ろし始めも、下ろし終わりも、ゆっくりと。瓶は、鳴らなかった。
もう一度、吸う。止める。吐きながら、持ち上げる。急に動かさない。急に止めない。剣の腹に石を乗せて振ったときと、同じ速さで。
棚の縁に箱の底を乗せ、奥へ滑らせる。藁の音さえ、しなかった。
手ぬぐいの人の隣の倉庫番が、首を伸ばした。
「鳴らねえな」
「鳴らないように、運んでいます」
ルーシーは、本当のことを言った。
二箱目も、三箱目も、同じ速さで上がった。遅い。見ているほうがじれったくなるほど遅いのに、運ぶ手は少しも途切れなかった。
卵の籠は、椀に張った水を運ぶつもりで持った。籠の中で、卵は一つも転がらなかった。
手ぬぐいの人が、口をとがらせた。油の壺を一つ、両腕で抱えた。
「遅えんだよ。割れ物ってやつは、手早く上げて、手早く置くんだ」
ずかずかと棚まで運び、勢いよく押しこむ。
ごとん。
壺の底が棚板を叩き、縛った布の下で、蓋ががちゃりと跳ねた。
帳場の奥から、オーウェンの声だけが飛んできた。
「力自慢は、割るんだったな」
「割ってねえ。鳴っただけだ」
「鳴っただけ、ですよね」
ルーシーは心から同意した。
「私も、最初の一箱を鳴らしました」
手ぬぐいの人は、頭の手ぬぐいを締め直して、のしのしと次の壺へ向かった。
抱える前に、大きく息を吸う。ルーシーのほうを横目で見て、吐きながら持ち上げた。肩に力が入りすぎていて、顔が真っ赤だった。それでも、壺は鳴らなかった。
何か言われる前に、ルーシーは卵の籠のほうへ向き直った。
最後の籠が棚に収まったのは、昼を少し過ぎてからだった。
オーウェンが帳場の奥から、皿を三つ運んできた。そして三つとも、ルーシーの前に置いた。
「三人分働いたんだ。三人分食え」
「いいんですか」
「休んだ三人の分だ。どうせ余る」
「ありがとうございます。いただきます」
手ぬぐいの人が、ルーシーの前の三皿を見た。
「主任。賭け、どうなったんすか」
「一つも割れてない。お前の取り分は、なしだ」
三つとも、空になった。
オーウェンは空の皿を一枚ずつ重ねてから、言った。
「お前、昼飯の量で雇われてないか」
「運んだ量で、お願いします」
オーウェンは、指の白墨を、重ねた皿の縁でこすり落とした。
「次も呼ぶ。昼飯は、四皿用意しとく」
「三皿で、足ります」
「四皿目は、次の分の手付けだ」
扉を出るとき、戸口の柱の荷札が目に入った。
「背が高い」の下に、もう一行増えていた。白墨の字が、さっきのものよりずっと下手だった。
――割らない。
振り返ると、手ぬぐいの人が白墨の粉のついた指を、前掛けでごしごし拭いていた。目が合うと、慌てて卵の籠のほうを向いた。
◇
草地まで、走った。
三皿分が、腹の中で一歩ごとに揺れる。日はとうに真上を越えていた。
(一日でも来なかったら、終わり。……昼過ぎは、まだ『一日』のうち。のはず)
門を駆け抜けると、寝不足の番兵が「呼吸の――」と言いかけて、そのまま見送った。
門を出てすぐの路肩で、麦わら帽子の年寄りが、空の荷車につないだ栗毛をなだめていた。朝市に野菜を卸した帰りらしい。茂みから鳥が立つたびに、栗毛は耳を伏せる。
いつもの木の根元に、カルヴァンがいた。その横で、レインハルトが盾を抱えて座っている。額の赤みは、もう引いていた。
「遅い」
「来ました」
カルヴァンの目が、ルーシーの顔から、腹のあたりへ下りた。
「来たな」
「カルヴァン、朝からずっとここで――」
「余計なことを言うな」
レインハルトが口を閉じた。閉じたまま、ルーシーに向かって眉を二度上げてみせた。
カルヴァンの目が、肩から脚へ流れた。
「重いか」
「重いです」
肩と腰に、朝の重さがまだ居座っている。
「なら、ちょうどいい。今日は、その状態でやる。剣を抜け」
剣を抜くと、カルヴァンは足元から何かを拾い、剣の腹に乗せた。
小石ではなかった。木の根元に落ちていた、乾いた葉が一枚。
「葉っぱ、ですか」
「石より軽い。少しでも速くなれば、風で飛ぶ」
「葉っぱなら、俺もいけそうです」
レインハルトが、さっそく自分の剣に一枚乗せた。乗せた途端に、草地を渡ってきた風にさらわれた。
「今のは、風です」
「風の中で振れ」
カルヴァンは、ルーシーに向き直った。
「振る数は言わない。疲れても、追うな」
「俺には、何かないんですか」
レインハルトが、二枚目の葉を拾いながら聞いた。
「風に勝て」
「風に」
レインハルトは真顔で空を見上げて、風の来るほうへ、半歩だけ体を向け直した。
一振り目から、荷運びで張った背中が、剣の重さを嫌がった。
八振り目で、葉が飛んだ。
重い腕を、勢いで助けようとしたのだ。助けた分だけ刃が速くなり、葉は剣の腹からふわりと浮いて、草の上に落ちた。カルヴァンの小枝は、動かなかった。葉を拾って、乗せ直した。
隣では、レインハルトも剣の腹に葉を乗せて、ゆっくり振っていた。一回、二回。三回目で風にさらわれる。拾って、乗せて、また振る。誰にも言われていないのに、やめない。
十九で、軌道がぶれた。手首が遅れ、遅れを取り戻そうと肩で引っ張る。葉が、剣の腹の上を縁までずるりと滑った。縁の手前で、引っかかる。
剣を止めずに、遅いまま振り切った。遅いまま振るのは、気持ちが悪い。
「今のだ」
二十を越えたころ、街道のほうから、車輪の音が近づいてきた。
荷車の列だった。四台。北回りの街道から、門へ向かって、のろのろと進んでくる。
先頭の荷車の幌に、矢が二本、刺さったままになっていた。誰も抜こうとしていない。抜く暇がなかったのか、抜く気力が残っていないのか。二台目の荷台には、護衛らしい男が座っていた。片腕を布で首から吊り、もう片方の手で、荷の縄を握っている。顔は、前だけを見ていた。
御者たちは、誰も口をきかなかった。車輪の音だけが、草地の脇を通り過ぎていく。
レインハルトが、葉を乗せたままの剣を、ゆっくり下ろした。
「北、また出たんですね」
ルーシーは、剣の腹の葉から目を離さなかった。
腕を吊った男の隣に、誰かが立っていたはずだ。守りきれなかったのか。守りきったから、あの男は荷台に座っていられるのか。
(あの隣に立ったとき、私は、止まれるか)
剣の腹の上で、乾いた葉の端が、ふわりと持ち上がりかけた。
カルヴァンが口を開いた。
「追う――」
そこで、言葉が切れた。
ルーシーは、もう速度を落としていた。言われる前に吐いて、足の裏に戻っていた。熱は消えない。増えもしない。剣の腹の上で、乾いた葉が、風に端だけを震わせている。そのまま、遅く振る。
カルヴァンの、小枝を持った手が、行き場をなくして宙に浮いていた。
二人で、顔を見合わせた。
カルヴァンは、その小枝の先で、顎髭を一度掻いた。
「今、俺は何も言ってない」
「はい」
「え、言いかけましたよね? 今の、何ですか? 何が起きたんですか?」
レインハルトが、身を乗り出した。その拍子に、彼の葉がまた風に飛んだ。草地には、何も起きていない。剣が一本、遅く振られているだけだ。
「何も起きてない」
カルヴァンは小枝を下ろした。
「起きてないのが、起きたんだ」
「全然分からないです」
「分からなくていい。お前は、明日も葉を乗せろ」
荷車の列の最後の一台が、門の中へ消えていった。
剣を振り切ったところで、カルヴァンが言った。
「止めろ。座るな。立ったまま呼吸」
腕が一気にだるくなり、膝が笑う。立ったまま、四つの拍を回した。
「今、どうだ」
「残ってます」
「残ってるのに、追わなかったな。なんでだ」
「朝の、瓶が」
「瓶?」
「鳴ったので」
レインハルトが、自分の剣の腹を見下ろした。瓶は、乗っていない。
カルヴァンは剣の腹から葉をつまみ上げ、指先で回してから、草の上へ落とした。
「瓶でも何でもいい」
それから幹の前へ行き、腰の小刀を抜きかけて、鞘に戻した。
「昼過ぎから来た日は、刻まん。……終わりにも、しない」
「はい」
「明日は走る。体が軽い日に、やる」
「え、走るんですか」
レインハルトが、盾を放り出す勢いで立ち上がった。
「俺、足は村で一番です」




