第53話 基礎修行⑤ 余力の内側
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「往復、俺と競走しませんか」
翌朝、草地に着くなり、レインハルトが言った。もう屈伸を始めていて、盾は幹に立てかけてある。
「昨日も言いましたけど、俺、足だけは村で一番だったんです。祭りの駆けっこで、三年続けて。剣は追うかもしれないですけど、足なら負けません」
胸を張っている。
昨日の荷の重さは、一晩寝たら、どこにも残っていなかった。前の世界なら「調子がいい日」で済むところだ。今は、嫌な予感がする。体が軽い日は、だいたい余計なことをする。
いつもの木の根元で、カルヴァンが腕を組んでいた。
「今日は、先に動く。あそこまで往復。三本」
草地の向こうの、腰ほどの高さの低い岩を指差す。それから、レインハルトに目をやった。
「競走は、三本だけだ」
「やった!」
レインハルトは体を低くし、指先を草につけた。本気の構えだった。カルヴァンが小石を一つ、二人の足の前に落とした。それが線だった。
(普通の人の速さで。普通の人の速さで)
「行きます!」
一本目。ルーシーは、レインハルトの肩の後ろについた。抜かないように走るのは、抜くより難しかった。
「ルーシー、今、手を抜きました?」
「抜いてません」
抜いていた。
「ならいいです。次、本気で行きますから」
二本目。体が温まり、脚が前へ出たがる。足の裏を地面に置いて、返す。掴まない。それでも、大きく上下するレインハルトの肩が、だんだん近くなる。歩幅を詰めた。
三本目。
岩が近づいたところで、レインハルトが最後の力を振り絞って前へ出た。息を噛み殺す音が、すぐ前で聞こえた。
(行ける)
つられて、脚が一段深く地面を蹴りかけた。
その足の裏が、先に冷たさを拾った。岩の陰の、日の当たらない側だけ、草がまだ露で濡れている。
蹴りかけた脚を、置く足に変えた。岩の手前で一歩ぶん外へふくらみ、日の当たる側の乾いた草を踏んで回る。
(足の裏から、報告が先に来た)
そのぶん、レインハルトの背中が半歩遠くなった。追いつける距離だった。追わなかった。小石の線を、レインハルトが先に駆け抜けた。
「あれ。俺、勝ちました?」
「勝ちました」
レインハルトは膝に手をついて、肩で息をしていた。真っ赤な顔のまま、ルーシーを見上げる。
「今、岩のとこ、なんで大回りしたんですか」
「陰の側が、濡れてたので」
レインハルトが振り返った。岩の陰の草だけが、朝の光を返さずに、暗く湿っている。
「俺、あそこ、まっすぐ踏んでました」
「滑りませんでしたね」
「軽いんで、たぶん」
それから、ルーシーの顔をまじまじと見た。
「ルーシー、息、上がってないですよね」
「上がってます」
「どのへんがですか」
「……このへんが」
胸のあたりを指差した。どこも上がっていないのは、自分でも分かっていた。
「全然、勝った気がしないです」
村で三年続けて一番だった足が、草の上でまだ震えていた。レインハルトはその膝を、拳で一度叩いた。
「でも、逃げ足も、村で一番です」
「逃げるのも、仕事のうちです」
本気で言った。
「仕事のうち」
「はい。逃げ遅れると、肩を噛まれます」
言ってから、肩口に手が行きかけた。レインハルトはその手を見て目を瞬き、拳を膝から離して、少しだけ背筋を伸ばした。
「剣を抜け。回数は三十」
カルヴァンの声に、二人とも剣を抜いた。
三十本。カルヴァンの指は、一度しか立たなかった。
「今日は、余力が敵だ」
剣を鞘に戻す。走れと言われれば、もう一本、走れる。
息の整ったレインハルトが、跳ねるように顔を上げた。
「もう一本、競走しましょう! 今度こそ本気で。手、抜かないでくださいね」
足が先に、小石の線へ半歩出ていた。
「もう一本、いけ――」
言いかけて、飲みこんだ。出た足を、線の手前へ引き戻す。
「明日で」
レインハルトが、屈伸の途中で止まった。
「え。ルーシーが、断った」
「明日で、です」
「競走、嫌いでした?」
「好きです。だから、明日で」
レインハルトは首をかしげたまま、足もとの小石の線を見下ろした。
木の根元から、聞いたことのない音がした。
カルヴァンが、幹に片手をついて体を折っていた。喉の奥から、咳とも笑いともつかない音が、途切れ途切れに漏れてくる。
「……好きだから、明日、か」
そう言って、また体を折った。声を出して笑うのを、ルーシーは初めて見た。
「大丈夫ですか」
「傷に響く。……お前のせいだ」
カルヴァンは目の端を指で拭うと、何事もなかった顔で近づいてきた。線の手前に引き戻された足を、一度だけ見下ろした。
「明日から、俺は昼の仕事に戻る。ギルドの手伝いだ。怪我人を遊ばせておくほど、この街は暇じゃない。ここに来るのは夕方だ。朝は、一人でやれ」
「一人で」
「じゃあ、朝は俺が見てますよ」
レインハルトが、勢いよく手を挙げた。
「お前は朝、自分の仕事だ。浅層の割当が溜まってるだろう」
「はい」
挙げた手が、ゆっくり下りていった。
カルヴァンは腰の小刀を抜き、幹に四本目の傷を刻んだ。それから刃を返して、柄のほうをこちらへ差し出した。
「明日からは、お前が刻め」
受け取った柄には、まだカルヴァンの手の温度が残っていた。
「朝、お前が追ったら。……誰が『追うな』と言う」




