第44話 基礎修行④ 疲労の中で
四日目の朝、ルーシーは起き上がるのに一拍遅れた。
身体が重い。痛みではない。昨日までに溜まった疲労が、層になって残っている。腕も脚も、動かせば応えてはくれるが、軽快とは言えなかった。
(……残ってる)
それが悪いことだとは思わない。
むしろ今日は、この状態でやるのだと分かっている。
顔を洗い、装備を整え、宿を出る。
歩き出すと、足運びがわずかに鈍い。石畳の硬さが、昨日より強く返ってくる。
呼吸を腹に落とす。吸って、止めて、吐く。止める。
身体は重いままだが、心拍は落ち着く。
門を抜けると、空気が少し乾いていた。
昨日よりも風がある。草地は踏めば音を立てる。
音があると、集中が散る。散ると、追いたくなる。
木立の切れ目。
カルヴァンはすでに来ていた。
立ち方が、昨日よりも楽そうに見える。腹の怪我は完全ではないが、動きに迷いがない。
彼はルーシーの足取りを一目見て、言った。
「残ってるな」
「はい」
「それでいい」
それだけで、今日の方向が決まる。
「今日は長い。回数も増やす」
カルヴァンは地面を指した。
「立て。剣を抜け」
ルーシーは背から剣を下ろし、抜いた。
刃の重さが、昨日よりはっきり腕に来る。
「呼吸」
吸う。止める。吐く。止める。
最初の数周は整う。
だが、疲労があると集中の持続時間が短い。
二周目の途中で、肩が固まりかける。
「固めるな」
カルヴァンの声。
ルーシーは吐く。吐くことで、肩を落とす。
「今日は、振る数は言わない」
言わない、という言葉が重い。
終わりが見えないと、身体は早く楽になりたがる。
「条件は一つ。
疲れても、追うな」
ルーシーは頷いた。
剣を構える。
吸って、止めて、吐きながら——一振り。
一振り目は、まだ軽い。
二振り目で、腕の重さが来る。
三振り目、足裏が地面を掴みすぎる。
吐く。
掴みすぎを戻す。
四、五。
呼吸は回っている。だが、少しずつ「早く終わらせたい」という気配が混じる。
(楽になりたい)
その思考が浮かんだ瞬間、背中が熱い気がした。
熱は、いつも「楽」と一緒に来る。
「追うな」
カルヴァンの声。
ルーシーは吐いた。
熱は、はっきりしないまま消える。
六、七。
腕が張る。張ると、力で振りたくなる。
力で振ると、気持ちいい。
気持ちいいと、追いたくなる。
八振り目で、剣の速度がわずかに上がった。
上がった瞬間、背中が熱い。
(今のは——)
意識が寄る。
「追うな」
カルヴァンの声は、昨日よりも低い。
止めろではない。追うなだ。
ルーシーは吐く。
剣を振り切り、次の構えに入る。
九、十。
呼吸が浅くなりかける。
浅くなったことに気づいて、腹に入れ直す。
十一、十二。
足が重い。
重いと、踏ん張りたくなる。
踏ん張ると、身体が前へ行く。
「前に行くな」
カルヴァンが言う。
ルーシーは、足幅をほんの少し変えた。
地面を掴みすぎない位置。
それだけで、踏ん張りが減る。
十三、十四。
背中の熱が、前より来やすくなっている。
疲れていると、燃料が少なくても反応が出る。
(嫌だな)
嫌だ、と思った瞬間も燃料になる。
燃料は、感情なら何でもいい。
吐く。
吐いて、止める。吸う。止める。
十五。
剣が少し重い。
十六。
腕が震えそうになる。
ここで止めれば楽だ。
止めたい、という思考が強くなる。
(もう十分だろ)
身体が言う。
言われた瞬間、背中が熱い。
ルーシーは歯を噛んだ。
噛むと、顎が固まる。
顎が固まると、呼吸が止まる。
「固めるな」
カルヴァンの声。
ルーシーは吐いた。
顎を緩める。
剣を振る。
十七、十八。
もう数えていない。
数えると、終わりを探してしまう。
十九で、剣の軌道がぶれた。
疲労で、手首が遅れた。
その遅れを取り戻そうとして、肩で引っ張る。
肩で引っ張ると、剣が速くなる。
速くなると、背中が熱い。
(危ない)
ルーシーは吐いた。
吐いて、剣を止めない。
止めないで、遅いまま振る。
遅い。
遅いまま振るのは、気持ちが悪い。
だが、遅いままでも振れる。
「今のだ」
カルヴァンが言った。
「遅さを嫌うな。
速さは後でいくらでも出せる」
ルーシーは息を整えながら、続けた。
二十を越えたあたりで、背中の熱が「面」になりかける。
昨日よりも明確だ。
疲れているせいで、制御が甘くなっている。
(追うな)
自分で言う。
言いながら、追っている。
熱が、肩甲骨の内側に広がる。
広がると、剣が軽く感じる。
軽く感じると、速く振りたくなる。
「追うな」
カルヴァンの声が重なる。
ルーシーは吐いた。
吐いて、足裏の感覚に戻る。
地面の湿り。沈み。戻り。
熱は、完全には消えない。
だが、増えもしない。
その状態で、振る。
二十一、二十二。
ゆっくり。
重いまま。
腕が限界に近づく。
限界だと思った瞬間、身体は近道を探す。
近道は癖だ。
癖は追う。
ルーシーは吐き、止め、吸う。
呼吸だけを回す。
剣を振り切ったところで、カルヴァンが言った。
「止めろ」
ルーシーは剣を下ろした。
腕が一気にだるくなる。
膝が少し笑う。
息を荒くしそうになるのを、腹で抑える。
「座るな」
カルヴァンが言う。
「立ったまま呼吸」
ルーシーは立ったまま、呼吸を回した。
吸って、止めて、吐いて、止める。
背中の熱が、まだ残っている。
残っていると、触りたくなる。
触りたい、という欲が出る。
「今、どうだ」
カルヴァンが聞いた。
「……残ってます」
「それでいい」
カルヴァンは即答した。
「残ってる状態で、追わない。
疲れているときほど、それが難しい」
ルーシーは頷いた。
言葉では分かる。
身体は、まだ追いたがっている。
「今日はここまでだ」
カルヴァンが言う。
「次は、剣の回数を減らす。
代わりに、疲労を作ってからやる」
疲労を作ってから。
それは、今よりきついという意味だ。
ルーシーは剣を背負い直した。
背中の重みが、今日はやけに心強い。
草地を歩き出す。
腕がだるい。
足も重い。
だが、背中の熱は「触らなくてもそこにある」状態になっていた。
それを追わずに歩けている。
(……仕事だ)
ルーシーは思う。
魔法も、剣も、仕事なら同じだ。
気持ちよさより、完了。
呼吸を腹で回しながら、街へ戻った。




