第43話 基礎修行③ 剣を振りながら
三日目の朝も、空気は湿っていた。
宿を出た瞬間、ルーシーは自分の身体が「もう知っている」ことに気づく。門までの道、石畳の硬さ、空が明るくなる速さ。昨日と同じようで、同じではない。
同じではないのに、身体は勝手に同じ手順へ入ろうとする。
(勝手に)
その言葉が、少しだけ刺さった。
剣も、仕事も、いまは「勝手にやれる」ことが強みになっていた。だが魔法の話では、それが邪魔になる。
門を抜け、草地へ。
足元の沈みは昨日より浅い。乾き始めている。風が少し強い。草の匂いが濃く、遠くの街の音が薄い。
この「薄さ」が、落ち着くようで落ち着かない。音がないと、自分の内側がうるさい。
木立の切れ目にカルヴァンがいた。
待ち方は変わらない。だが、今日は立ち姿が少しだけ楽に見えた。腹の怪我が軽くなってきているのか、それとも痛みを「扱える」段階に入ったのか。どちらにしても、彼は無理をしない。無理をしてまで教えるタイプではない。
「来たな」
「おはようございます」
「今日は剣を使う」
それだけで、ルーシーの背中が少しだけ固くなる。
固くなるのを感じて、すぐに腹で息を入れ直した。
カルヴァンは周囲を見回してから、地面を指した。
「立て。昨日と同じ。呼吸から」
ルーシーは頷き、呼吸を回す。
吸う。止める。吐く。止める。
腹が動き、肩が上がらない。
最初の一周は整う。
二周目で、余計な考えが入る。
(今日は剣を振る。熱が来たら? 追うな。追うなって――)
思考が先に走り、呼吸が浅くなる。
「考えるな」
カルヴァンが言った。
ルーシーは一瞬、反発しそうになる。
考えるなと言われても、考えてしまう。
その反発の芽を、吐く息で押し潰す。
吐く。止める。吸う。止める。
思考は完全には消えない。だが、音量が落ちる。
「よし。次」
カルヴァンが言う。
「剣を抜け」
ルーシーは背から剣を下ろし、抜いた。刃が朝の光を拾う。
構える。前と同じ構えだ。教わっていない、実戦で身体が作った構え。
「振るな」
「……はい?」
ルーシーは思わず聞き返した。
「振るな。構えろ」
カルヴァンの言い方は変わらない。
意味が分からなくても、従うしかない。
ルーシーは構えたまま止まった。
剣の重さが腕に乗り、肩が固まりそうになる。固まりそうになった瞬間、腹で息を吐く。
吐いても剣は重い。重いのは当たり前だ。だが、重さを理由に固めたら負ける。
「今のまま呼吸を回せ」
吸う。止める。吐く。止める。
剣を構えたまま呼吸を回すと、地味にきつい。
動く方が楽だ。振れば筋肉は「仕事」をした気になれる。止まっているのは、ただ重さに耐えているだけで、精神が先に嫌になる。
背中が熱い気がした。
昨日も一昨日も、ここで意識が寄った。
(来た?)
寄りかける。
「追うな」
カルヴァンの声が刺さる。
ルーシーは息を止めかけて、止めた。止めかけたこと自体が、追っている。
吐く。止める。吸う。止める。
熱は分からなくなる。
分からなくなることに、悔しさが浮く。
「悔しがるな」
また言われる。
悔しいのは「燃料」だと言われたのを思い出す。燃料が入ると、追ってしまう。
ルーシーは剣を構えたまま、もう一周呼吸を回した。
手首が震えそうになる。腕がしんどい。
それでも、腕のしんどさはまだ「剣の問題」だ。今日は魔法の話をしている。剣のしんどさに逃げたら、目的がずれる。
「次。半歩だけ前へ」
カルヴァンが言う。
ルーシーは足を動かした。
半歩。地面が沈む。沈むと重心がズレる。ズレを直そうとして身体が前に行く。
その瞬間、剣を振るときの癖が出る。踏ん張る。肩が固まる。呼吸が止まる。
「止めるな」
カルヴァンの声。
ルーシーは吐いた。
吐くと同時に、剣の重さが落ち着く。落ち着くというより、重さの置き場が決まる。
「戻れ」
半歩戻る。
戻るだけで、また癖が出る。
動作を入れると、身体が勝手に「剣」をやろうとする。
剣の正しさを、魔法の正しさに持ち込もうとする。
カルヴァンが言う。
「これが問題だ。お前は動ける。だから勝手に動く」
ルーシーは歯を噛んだ。
動けることが悪いわけじゃない。
でも、今の話では邪魔になる。
「剣の動きで“起こすな”。剣の動きで“追うな”。剣の動きで“固めるな”」
カルヴァンは短く区切って言う。
その区切り方が、仕事の指示みたいで分かりやすい。
「今度は、振る。だが、遅く」
ルーシーは剣を構える。
吸って、止めて、吐きながら——ゆっくり振る。
一振り目。
ゆっくりだと、余計に重い。重いのに、身体が前へ行きたがる。
前へ行くと、剣は気持ちよく振れる。気持ちよく振れた瞬間、背中が熱い気がした。
(気持ちいい)
その感覚が危ない。
気持ちいいのは、追う燃料になる。
「追うな」
カルヴァンの声。
ルーシーは吐いた。
吐いて、剣を止めた。
止めた瞬間、肩が固まりそうになる。固めるとまた別の癖が出る。
吐く。肩を落とす。
剣を、ただ「持つ」。
「もう一回」
カルヴァンが言う。
二振り目。
ゆっくり振る。
今度は足裏が地面を掴みすぎないようにする。掴むと踏ん張りになり、踏ん張りは固まりを呼ぶ。
三振り目。
背中が熱い気がした。
気がしただけで意識が寄る。
(追うな)
自分で言う。
言いながら、追っている自分がいる。
追っていることに気づいた瞬間、吐く。
熱は、増えない。
増えないまま、そこにいる。
そこにいるのに、形にならない。
その「中途半端」が気持ち悪い。
気持ち悪いのに、追わない。追わないで、剣を振り切る。
四振り目、五振り目。
ゆっくり。
吐きながら。
止めない。固めない。
剣の筋肉が疲れてくる。疲れると、身体は近道を探す。
近道は癖になる。癖は勝手に動く。
「もう十分だろ」
身体が勝手に言い出す。
その声に従うと、今日の練習は終わる。
終わると楽になる。楽になると、次からも楽を選ぶ。
ルーシーは吐いた。
吐くことで、自分の声を下げる。
「止めるな。続けろ」
カルヴァンが言った。
命令ではない。今の自分の声に対する対抗だ。
ルーシーは続ける。
六、七、八。
吐き直すたびに、剣の重さが手元に戻る。
だが疲れてくると、身体は勝手に近道を探す。
九振り目。
背中が熱い気がした。
その瞬間、刃がほんの少しだけ速くなる。
気持ちいい。
だから、追う。
「止めろ」
反射で止めた。止めたつもりで、固めた。
熱が一気に抜け、背中が寒くなる。
カルヴァンが低く言う。
「止める。固める。怒る。追う。全部繋がってる。だが、今の失敗は悪くない。失敗が見えた」
ルーシーは唇を噛んだ。
失敗が見えたことに、納得があるのが悔しい。
悔しさを燃料にしない。
吐く。止める。吸う。止める。
心拍が少し落ちる。
「次。剣を納めろ」
ルーシーは剣を鞘に戻した。
剣を戻すと、腕が一気に軽くなる。軽さに安堵が出る。安堵も燃料になると、どこかで聞いた気がする。
「呼吸だけ」
カルヴァンが言う。
ルーシーは呼吸を回す。
吸って、止めて、吐いて、止める。
さっきの寒さが残っている。
残っていると、取り戻したくなる。
取り戻したくなると、追いたくなる。
追いたい、という感情をただ見て、吐く。
吐いて、止める。
吸って、止める。
追いたさは消えない。だが、動かない。
「いい」
カルヴァンの声がする。
「いま、追ってない。欲しいのに追ってない。
それが基礎だ」
ルーシーは目を開けた。
カルヴァンは頷いている。ほんの少しだけ。
それが、今日の「結果」だった。
「今日はここまで」
カルヴァンが言う。
「次は、剣を振る。だが、回数を増やす。
疲れたところで追わない練習をする。
そこで、少しだけ“形”を触る」
少しだけ。
その言い方が、逆に怖い。
でも、怖いと思えるのは良いと、この男は言った。
ルーシーは剣を背負い直した。
背中の重みが戻る。戻ると安心する。安心も燃料になりそうで、怖い。
草地を歩き出し、街の方へ向かう。
風が背中を撫でる。熱の気配はない。
ないことに、また欲が出そうになる。
(追うな)
自分で言う。
言いながら、呼吸を腹で回す。
剣を振るのは、気持ちいい。
だからこそ、止めるのが難しい。
止めるのが難しいものを、止められるようにする。
そのために、今日も外に出た。




