↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界で普通に生きるために危ない仕事をする 〜なぜか体だけが強すぎる元会社員、目立たず働きたいだけなのに〜  作者: Yuki
第一章 普通の仕事ができるまで

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

50/89

第50話 基礎修行② 止め続ける

 翌朝、ルーシーが水筒を提(さ)げて草地へ出ると、切り株の上に、空の木の椀(わん)が一つ置いてあった。

 門の寝不足の番兵は、今朝は何も聞かなかった。大あくびをひとつして、槍(やり)の石突(いしづ)きで門の外を指しただけだった。

「途中で、飲んだか」

 カルヴァンの目が、水筒に落ちていた。

「少しだけ」

「残りで足りる。注げ」

 椀(わん)の縁(ふち)の少し下まで注ぐ。朝の光が、水面に平たく乗った。

「切り株の根に、片足を乗せろ。もう片方は地面だ。座るな。踏ん張ったら、水が揺れる」

 地面から盛り上がった太い根に、右足を乗せる。根の先に切り株があり、その上に椀(わん)がある。

「昨日は砂で、今日は水ですか」

「お前は気づかない。水は気づく。……分からなくなったら、水に聞け」

「明日は、何ですか」

「まだ決めてない」

 決めていない、という顔ではなかった。

「呼吸」

 四つの拍を回す。昨日より深く入る。

 いくらも経(た)たないうちに、足の裏が痒(かゆ)くなってきた。動くな、と自分に言い聞かせた途端、肩に力が入った。

 椀(わん)の水面に、細かい輪が三つ、四つ、重なって立った。そばで、カルヴァンの目が水面に落ちた。

「固めて、ません」

 言い返してから、輪の出どころを見た。右足のほうから広がっていた。

 (……肩だ)

 吐く息に乗せて、肩を下ろす。輪は椀(わん)の縁へ逃げて、消えた。

 カルヴァンは切り株の反対側へ回り、別の根に左足を乗せた。腹の傷をかばうように、ゆっくりと体重を移す。それきり、動かなくなった。

 水面は、鏡のように平らだった。息は聞こえないのに、ローブの腹のあたりが、ごくゆっくりと膨らんでは戻っている。

 小さな羽虫(はむし)が一匹、カルヴァンの頬(ほお)に止まった。

 カルヴァンは払わなかった。瞬きもしない。羽虫が頬から鼻の頭へ歩いていくあいだも、水面には輪ひとつ立たなかった。

 羽虫が飛び立ってから、カルヴァンは根から足を下ろした。

「鼻、くすぐったくなかったんですか」

「くすぐったかった」

 カルヴァンは鼻の頭を、指の背でこすった。

「見たからって、できるようにはならんぞ」

 足を根に戻す。二周、三周と回すうちに、集中が続くようになった。切り株の縁を、甲虫が一匹、ゆっくり横切っていく。水面は揺れない。甲虫のほうが、よほど上手に立っている。

 (何もしないのが一番しんどい。誰か褒(ほ)めて)

 褒めてくれそうな人は、顎髭(あごひげ)をつまんで水面を見ているだけだった。

 気づけば、目の前の草の葉を端から数えていた。四十七まで来たところで、声がした。

「何本だった」

「え」

「草だ」

「四十七本です」

「四十八だ。根の陰に、もう一本ある」

 覗(のぞ)くと、本当にあった。

 根の陰の一本を見ているうちに、視界が妙に鮮明になってきた。葉の裏の色、草の先の露(つゆ)、遠い雲の形。

 その瞬間、背中に熱が来た。

 (これだ)

 思った瞬間、熱が増した。増した、と言葉にした瞬間に、さらに増した。

 追うな。昨日、そう言われたはずなのに、意識のほうが先に走っていた。

 外套(がいとう)の背が、内側からふっと持ち上がった。吐くのが遅れ、肩が固まり、体が前へ行った。

 踏み出した左足が、草地を靴の形にえぐった。蹴(け)った右足の下で根がきしみ、切り株ごと揺れる。

 椀(わん)が跳ねた。

 水が、朝日の中に散った。

「止めろ!」

 止まった。止まったつもりで、全身を固めていた。熱が一気に抜け、背中が寒くなる。荒い息を整えようとするほど、乱れていく。

 草の上に、空になった椀(わん)が転がっていた。

 一歩の跡は、黒い土が覗(のぞ)くほど深かった。一歩しか、出ていないのに。

 カルヴァンは、一歩の跡から、ルーシーに目を戻した。

「よくない。だが、止めた。そこだけはいい」

「今、何が起きたんですか」

「『起きかけた』だけだ。起きていたら、今のお前には止められない」

 ルーシーは歯を噛(か)んだ。

「悔しがるな」

 口に出してもいないのに。

「悔しいって感情は、追うための燃料だ。燃料を入れるな」

 濡(ぬ)れた草の上で、転がった椀(わん)の底が朝日を返している。もしあれが椀(わん)ではなく、隣に立っている誰かだったら。

 カルヴァンは椀(わん)を拾い、切り株の上に戻した。

「注げ。もう一回。追いたくなるところまで行って、そこで止まれ」

 水筒を逆さにしても、さっきより水面が低い。手が震えて、その低い水面が揺れた。揺れが収まるのを待ってから、根に足を戻す。

 目を閉じる。背中には、まだ寒さが残っていた。寒いと熱が欲しくなり、欲しくなると、追いたくなる。

 足幅を変える。根を掴(つか)まず、肩を固めず、腹で吐く。

 さっき、カルヴァンの頬を羽虫が歩いていた。あれを、真似(まね)する。

 背中が、熱い。

 熱は、増えない。増えないまま、そこにいる。それが怖い。怖いのに、追わなかった。

 頬に、何かが止まった。

 細い脚が、ちくちくと動く。頬から、鼻の脇へ。

 払いたい。くしゃみも出そうだ。どちらも、吐く息と一緒に、腹の底へ落とした。

 羽虫は鼻の頭まで歩いてきて、そこで少し迷ってから、飛び立った。

「目を開けろ」

 水面は、最後まで平らだった。朝日が一枚、静かにそこに乗っている。

 カルヴァンが、ルーシーの鼻の頭を見ていた。

「くすぐったかったか」

「くすぐったかったです」

「『ある』のに、追わなかった。それが基礎だ」

 長く息を吐いた。肩から力が抜けた拍子に、膝が笑った。剣は一度も抜いていないのに。

 胸の奥から、何かが跳ね上がってきそうになった。

 (やった――)

「喜ぶな」

「……燃料、ですか」

「分かってきたな」

 カルヴァンは椀(わん)の水を草に捨て、切り株の上に伏せた。

 ルーシーは、鼻の頭をこすった。まだ、少しくすぐったかった。

 空の水筒を提げ直したとき、草地の端の木立(こだち)で、大きすぎる盾が、朝日をちかりと跳ね返した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。