第50話 基礎修行② 止め続ける
翌朝、ルーシーが水筒を提げて草地へ出ると、切り株の上に、空の木の椀が一つ置いてあった。
門の寝不足の番兵は、今朝は何も聞かなかった。大あくびをひとつして、槍の石突きで門の外を指しただけだった。
「途中で、飲んだか」
カルヴァンの目が、水筒に落ちていた。
「少しだけ」
「残りで足りる。注げ」
椀の縁の少し下まで注ぐ。朝の光が、水面に平たく乗った。
「切り株の根に、片足を乗せろ。もう片方は地面だ。座るな。踏ん張ったら、水が揺れる」
地面から盛り上がった太い根に、右足を乗せる。根の先に切り株があり、その上に椀がある。
「昨日は砂で、今日は水ですか」
「お前は気づかない。水は気づく。……分からなくなったら、水に聞け」
「明日は、何ですか」
「まだ決めてない」
決めていない、という顔ではなかった。
「呼吸」
四つの拍を回す。昨日より深く入る。
いくらも経たないうちに、足の裏が痒くなってきた。動くな、と自分に言い聞かせた途端、肩に力が入った。
椀の水面に、細かい輪が三つ、四つ、重なって立った。そばで、カルヴァンの目が水面に落ちた。
「固めて、ません」
言い返してから、輪の出どころを見た。右足のほうから広がっていた。
(……肩だ)
吐く息に乗せて、肩を下ろす。輪は椀の縁へ逃げて、消えた。
カルヴァンは切り株の反対側へ回り、別の根に左足を乗せた。腹の傷をかばうように、ゆっくりと体重を移す。それきり、動かなくなった。
水面は、鏡のように平らだった。息は聞こえないのに、ローブの腹のあたりが、ごくゆっくりと膨らんでは戻っている。
小さな羽虫が一匹、カルヴァンの頬に止まった。
カルヴァンは払わなかった。瞬きもしない。羽虫が頬から鼻の頭へ歩いていくあいだも、水面には輪ひとつ立たなかった。
羽虫が飛び立ってから、カルヴァンは根から足を下ろした。
「鼻、くすぐったくなかったんですか」
「くすぐったかった」
カルヴァンは鼻の頭を、指の背でこすった。
「見たからって、できるようにはならんぞ」
足を根に戻す。二周、三周と回すうちに、集中が続くようになった。切り株の縁を、甲虫が一匹、ゆっくり横切っていく。水面は揺れない。甲虫のほうが、よほど上手に立っている。
(何もしないのが一番しんどい。誰か褒めて)
褒めてくれそうな人は、顎髭をつまんで水面を見ているだけだった。
気づけば、目の前の草の葉を端から数えていた。四十七まで来たところで、声がした。
「何本だった」
「え」
「草だ」
「四十七本です」
「四十八だ。根の陰に、もう一本ある」
覗くと、本当にあった。
根の陰の一本を見ているうちに、視界が妙に鮮明になってきた。葉の裏の色、草の先の露、遠い雲の形。
その瞬間、背中に熱が来た。
(これだ)
思った瞬間、熱が増した。増した、と言葉にした瞬間に、さらに増した。
追うな。昨日、そう言われたはずなのに、意識のほうが先に走っていた。
外套の背が、内側からふっと持ち上がった。吐くのが遅れ、肩が固まり、体が前へ行った。
踏み出した左足が、草地を靴の形にえぐった。蹴った右足の下で根がきしみ、切り株ごと揺れる。
椀が跳ねた。
水が、朝日の中に散った。
「止めろ!」
止まった。止まったつもりで、全身を固めていた。熱が一気に抜け、背中が寒くなる。荒い息を整えようとするほど、乱れていく。
草の上に、空になった椀が転がっていた。
一歩の跡は、黒い土が覗くほど深かった。一歩しか、出ていないのに。
カルヴァンは、一歩の跡から、ルーシーに目を戻した。
「よくない。だが、止めた。そこだけはいい」
「今、何が起きたんですか」
「『起きかけた』だけだ。起きていたら、今のお前には止められない」
ルーシーは歯を噛んだ。
「悔しがるな」
口に出してもいないのに。
「悔しいって感情は、追うための燃料だ。燃料を入れるな」
濡れた草の上で、転がった椀の底が朝日を返している。もしあれが椀ではなく、隣に立っている誰かだったら。
カルヴァンは椀を拾い、切り株の上に戻した。
「注げ。もう一回。追いたくなるところまで行って、そこで止まれ」
水筒を逆さにしても、さっきより水面が低い。手が震えて、その低い水面が揺れた。揺れが収まるのを待ってから、根に足を戻す。
目を閉じる。背中には、まだ寒さが残っていた。寒いと熱が欲しくなり、欲しくなると、追いたくなる。
足幅を変える。根を掴まず、肩を固めず、腹で吐く。
さっき、カルヴァンの頬を羽虫が歩いていた。あれを、真似する。
背中が、熱い。
熱は、増えない。増えないまま、そこにいる。それが怖い。怖いのに、追わなかった。
頬に、何かが止まった。
細い脚が、ちくちくと動く。頬から、鼻の脇へ。
払いたい。くしゃみも出そうだ。どちらも、吐く息と一緒に、腹の底へ落とした。
羽虫は鼻の頭まで歩いてきて、そこで少し迷ってから、飛び立った。
「目を開けろ」
水面は、最後まで平らだった。朝日が一枚、静かにそこに乗っている。
カルヴァンが、ルーシーの鼻の頭を見ていた。
「くすぐったかったか」
「くすぐったかったです」
「『ある』のに、追わなかった。それが基礎だ」
長く息を吐いた。肩から力が抜けた拍子に、膝が笑った。剣は一度も抜いていないのに。
胸の奥から、何かが跳ね上がってきそうになった。
(やった――)
「喜ぶな」
「……燃料、ですか」
「分かってきたな」
カルヴァンは椀の水を草に捨て、切り株の上に伏せた。
ルーシーは、鼻の頭をこすった。まだ、少しくすぐったかった。
空の水筒を提げ直したとき、草地の端の木立で、大きすぎる盾が、朝日をちかりと跳ね返した。




