第49話 基礎修行① 外で
二日後の朝、門で番兵に呼び止められた。目の下にくまのある、寝不足の顔の番兵だ。
「剣を持って、朝から外へ? 一人で?」
「呼吸をしに行きます」
「は?」
番兵は、出かけたあくびを途中で飲みこんだ。
門を抜けると、草の先の露で、靴の先がすぐに濡れた。草地の奥の大きな木の根元に、もうカルヴァンがいた。幹に肩を預けている。腹の包帯は服の下に隠れているが、動きはまだ慎重だった。
「来たな」
カルヴァンは周りに人がいないのを確かめてから、言った。
「聞こえてた」
「え?」
「中庭の話だ。窓が開いてた」
(窓。……ということは、『教わりたいことがあります』も)
首の後ろに、汗がじわりと浮いた。
「季節が一つ回ったら、ブレイデンの戻りの仕事がある。三か月だ。足りると思うか」
「分かりません」
「俺もだ。だから、毎朝ここだ。一日でも来なかったら、そこで終わりだ」
「雨の日も、ですか」
「雨の日は、どうすると思う」
「濡れて、やります」
「分かってるじゃないか」
カルヴァンは、顎で背中の剣を示した。
「抜いて、十回振れ」
振った。息は乱れない。乱れないのが、かえって嫌だった。
「誰に習った」
「誰にも」
「見れば分かる」
カルヴァンは足元の小石を一つ拾って、ローブの袖の中へ落とした。
「今日は魔法はやらない」
頷いてから、がっかりしている自分に気づいた。
「顔に出てるぞ」
「出てません」
「出てる。起こす練習じゃない。逆だ。起きない状態を作る。剣を下ろして、目を閉じろ。立ってるだけでいい」
剣を鞘に戻し、目を閉じた。風の音が大きくなる。草の擦れる音、遠い荷車、自分の呼吸。
「吸った瞬間に、動くな」
「はい」
吸った。
足元で、こつ、と小さな音がした。
「動くなと言った」
「動いてません」
「足元を見ろ」
目を開けた。木の根元の、草の生えていない砂地。右の靴の先に、小石が一つ転がっている。
その靴の先で、砂が三日月の形にえぐれていた。靴の中で、足の指が地面を掴んだ跡だった。
「小石、わざとですか」
「わざとだ。口で言っても、お前は信じない。砂なら信じる」
カルヴァンは、いつの間にか拾った小枝の先で、三日月の跡を指した。
目を閉じ直す。こつ。二回目も、足の指が勝手に縮んだ。目を開けると、三日月が二つ並んでいた。二つ目のほうが深い。
「今のは、音がしたからです」
「敵は、音を立ててから来てくれるのか」
言い返せなかった。
(私の足、私に断りなく働いてる)
怖い、というほどではない。ただ、自分の家の鍵を、知らない誰かも持っていると知ったときに似ていた。
「呼吸からやる。吸う。止める。吐く。止める。四つで一周。今やれ」
吸って、止めて、吐いて、止める。
「浅い。胸で吸うな。腹で吸え」
腹で吸う。肩は上がらず、吐くと腹が戻る。カルヴァンの声が刻む四つの拍に合わせていると、心臓の音が落ちていった。
「そのまま、目を閉じろ」
三回目。こつ。小石の転がる音だけがした。
目を開けると、靴の先の砂は、平らなままだった。
「何も起きない。それが正解だ」
平らな声だった。それでも頬がゆるみそうになったので、四つ目の「止める」で、頬ごと止めた。
「そのまま剣を振れ」
抜いて、吸って、止めて、吐きながら一振り。
「止めるな」
「止めてません」
肩を、小枝でこつんと叩かれた。
「止めてる。振る瞬間に、ここが固まる」
自分の肩なのに、分からない。
(足の次は、肩。この体、報連相ができてない)
吐き続けるつもりで振ると、空気を切る音が細くなった。
「それだ」
カルヴァンは小枝を下ろし、声を低くした。
「次は、お前の中で『起こそう』とするな。あの夜の熱を思い出すな。火を思い浮かべるな。便利を思うな。今やるのは――箱を作る。中身は入れない」
「箱、ですか」
「箱だ。中身を入れたくなったら、それが癖だ」
ルーシーは、引っ越しのあと部屋の隅に組み立てたまま置いておいた、空の段ボール箱を思い浮かべた。
「空の箱って、すぐ何か入れたくなりますよね」
「何の話だ」
「前に一つ、置いておいたことがあります。三日で、満杯になりました」
「……三日もったなら、上出来だ」
目を閉じる。四つの拍を回す。何も起きない。立っているだけなのに、首筋に汗が浮いてきた。
ほんの一瞬、背中が熱い気がした。酒場の夜と、同じ場所だった。
「追うな」
強い声だった。反射で息を止めかけて、やめる。熱は、もう消えていた。
目を開けた。足もとの先で、草の穂先が一列、同じ向きに寝ていた。
「今、何かあったか」
「ありました。……すぐ、なくなりました」
「来たら、来たまま放っておけ。追うと、体が先に行く。……覚えとけ。次は、もっと長く来る」
カルヴァンは、傷をかばうように腹を押さえた。
「今日はここまでだ」
「もう終わりですか」
思ったより大きな声が出た。
「終わりだ。これ以上やると、癖が濃くなる」
剣を十回と少し振って、あとは立っていただけなのに、背中に汗が張りついていた。
カルヴァンは腰の小刀を抜き、木の幹の目の高さに、短い横の傷を一本刻んだ。
「何ですか、それ」
「一日目だ」
歩き出しかけて、カルヴァンが振り返った。
「明日は、水を一杯持ってこい」
「水、ですか。喉が渇く練習ですか」
「飲む分じゃない」
ローブの背中が、門のほうへ小さくなっていった。
砂の上に、三日月が二つと、平らなままの一か所。風が草地を渡っていく。ほかの草はみんな揺れているのに、さっき寝た一列だけが、まだ起き上がっていなかった。
背中の、熱が来たあたりだけが、まだ少しぬるかった。




