第48話 基礎
一週間たった朝、ルーシーは串焼きの包みを提げて、医療棟の扉を叩いた。
返事を待つあいだに、背中の剣を下ろした。戸口の枠に、鞘を当てないためだ。
柄から切っ先まで目でたどる。まっすぐのはずの線が、真ん中あたりで、爪の厚みほど外へ逃げていた。天井を受けた日から、ずっとこうだ。
(折れなかった代わりに、これだけ残った)
扉の向こうで、少し間があってから声が返った。
「開いてる」
中は簡素な個室だった。窓際の寝台と、机と椅子。薬草と包帯の匂いがした。窓は、細く開いている。
カルヴァンは椅子に腰掛けていた。腹には、まだ包帯が巻かれている。机の上の紙束には、赤い印がいくつも付いていた。
「来たか」
カルヴァンは、紙束をめくる手を止めずに言った。
「邪魔でしたら、出ます」
「いや。今は何もしてない」
ルーシーは包みを差し出した。
「お見舞いです」
カルヴァンは包みの口を指で広げ、中を覗いて、眉間に皺を寄せた。
「病人に串焼き十本持ってくる奴があるか」
「八本は、私のです」
カルヴァンは長いため息をつき、一本だけ抜き取った。
串を齧りながら、紙束から一枚を抜いて、ルーシーの前に滑らせる。
「事故報告の写しだ。お前のところを読め」
読むのは、まだ遅い。一字ずつ、指でなぞる。
『――剣を支えにして、天井を受けた』
(文字にすると、私、人間じゃないな)
「だから来いと言った」
カルヴァンが紙を取り返した、そのときだった。
廊下を硬い足音が近づいてきて、扉が音を立てて開いた。
「この匂い、どなたです!」
前掛けをした治療係の女が、戸口に立っていた。鼻が、もう部屋の中を嗅いでいる。
カルヴァンは串を口にくわえたまま、治療係を見た。
「……俺じゃない」
ルーシーは、包みを背中に回した。脂の匂いが、背中からまっすぐ立ちのぼっていく。
治療係の鼻が、カルヴァンの口の串で一度止まり、それからルーシーの背中へ回りこんだ。
「昨日は、盾の大きい方が干し肉を。一昨日は、弓の方が焼き菓子を」
「今日は、串です」
「傷が開いたら、縫うのは私です」
治療係はつかつかと窓へ行き、窓を大きく押し開けた。中庭の風が、薬草の匂いと脂の匂いをまとめてかき回す。
「換気します。閉めないでくださいね。奥の部屋は、北回りから運ばれてきた人たちなんです。匂いで起こしたら、承知しません」
扉が閉まった。
カルヴァンは串を口から抜き、残りを黙って食べ終えた。
「で。気になったままか」
「はい」
「先に言っておく。今すぐ、何かが使えるようになる話じゃない」
「それでも、お願いします」
頭を下げてから、ルーシーは一つだけ聞いた。
「どうして、教えてくれるんですか」
「お前が聞いたからだ。帰り道の角で、『どうやったんですか』と。教わる気のない奴に教えると、事故る」
「聞いて、よかったです」
「まだ分からん」
カルヴァンは包帯の上に、軽く手を当てた。
「魔法は、便利だと思うか」
「思ってました。天井が落ちるまでは」
「撃ったのは二回だ。撃てる場面は十回あった」
開いた窓から、中庭の井戸の滑車の音が入ってきた。
「お前が見たのは強い魔法じゃない。止めた魔法だ。天井が鳴ってたのに撃った。……あれは、俺の見立てが甘かった」
ルーシーは背中に回したままの包みの紐を、指に一度巻きつけた。
「天井を受けたのは、私の判断です」
「分かってる。だから、そっちも直す」
カルヴァンは、ルーシーの顔を見た。
「基礎って、何だと思う」
「呪文、ですか」
「違う」
カルヴァンは、自分の胸元を指で軽く叩いた。
「漏らすな。それだけだ」
ルーシーの手が、腹のあたりへ行った。酒場の夜、熱が溜まった場所だった。
口を開きかけて、止める。
「今は、言葉にしなくていい」
カルヴァンは椅子から立ち上がった。動きは慎重だが、崩れてはいない。
「明後日の朝、門の外の草地に来い。人のいない所でやる。剣は持ってこい。捨てる話じゃない」
「はい」
扉に手をかけたところで、背中に声が来た。
「残りは持って帰れ。次に匂いがしたら、俺が追い出される」
包みを胸に抱えて、廊下に出た。
奥の部屋の戸が、拳一つぶん開いていた。寝台の脚もとに、留め具のちぎれた籠手が一つ、転がっている。持ち主の腕は、毛布の下で、板と布にくるまれていた。
ルーシーは足音を殺して、その前を通り過ぎた。
◇
医療棟を出ると、中庭に午前の光が落ちていた。
向こうから、鋼鉄混じりの革鎧が歩いてくる。ブレイデンだった。手に、小さな酒瓶を提げている。
ルーシーと目が合うと、ブレイデンは足を止めた。
「仕事じゃない。見舞いだ」
聞いてもいないのに、そう言った。
ブレイデンの目が、ルーシーの抱えた包みに落ちた。それから、自分の提げた酒瓶を、ほんの少しだけ持ち上げてみせた。
「カルヴァンの返事を待って、一週間延ばした。明日、エルデンへ戻る。エドガーの紙に、お前の名前が入ってる。戻れば、中央寄りの仕事が回ってくる。取り分は、往路と同じだ」
ブレイデンは、そこで言葉を切った。
「戻るなら、席はある」
中庭の井戸で、滑車がからからと鳴った。
ルーシーは腰の革袋を指で押さえた。中で、銀貨が小さく鳴った。
その指が、革袋の隣に下げた板に触れた。裏の③は、まだ『止め――』で途切れている。
「残ります。教わりたいことがあります」
言ってから、自分の声が思ったよりはっきりしていたことに気づいた。
(止められるようになりたい。誰かの隣に立っても、怖がられないくらいに)
ブレイデンは、顔色を変えなかった。
「カルヴァンも残ると言ってる。物好きが二人だ。二人分、席が浮く」
それから、少し間を置いた。
「戻りの仕事が、季節が一つ回る頃に一本ある。顔ぶれは同じだ。そのとき、まだここにいたら拾ってやる」
「はい」
ブレイデンが背を向けかけた。
「あの。エルデンのギルドの、マレーナさんに、伝言をお願いできますか」
「伝言は契約外だ」
「『戻りました』は、もう少し先になります、と」
ブレイデンは、酒瓶を反対の手に持ち替えた。
「……一行だけだぞ」
振り返らずに片手を上げ、医療棟の方へ歩いていった。酒瓶は、提げたままだった。
ルーシーも、中庭の出口へ向き直った。
その背中の向こうで、医療棟の窓が一つ、開いたままになっていた。
窓の内側では、紙束をめくる音が、いつの間にか止んでいた。




