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異世界で普通に生きるために危ない仕事をする 〜なぜか体だけが強すぎる元会社員、目立たず働きたいだけなのに〜  作者: Yuki
第一章 普通の仕事ができるまで

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第47話 ダンジョン④

「昨日の字、残ってますね」

 三日目。入口から三つ目の角の壁に、傾いた『二』が白く残っていた。その先の角にも、そのまた先の角にもある。

 広い通路に出た。天井の煤(すす)は、昨日のままだった。その真ん中を横切っていた髪の毛ほどの白い線は、指が入るほどの割れ目になっていた。真下の床に、小石が一つ落ちていた。

 カルヴァンが、小石を靴の先で一度転がした。何も言わなかった。

 昨日の最後の『二』を過ぎた所で、レインハルトは言われる前に拳(こぶし)を固め、壁を叩(たた)いた。

 コン。……コン。

 二つ目の音が、壁からではなく、頭の上から落ちてきた。

 レインハルトが、拳を壁から離した。

「昨日より、二つ目が近いです」

「どこから聞こえた」

「上、です」

 カルヴァンは、もう天井を見ていた。

 次の一歩で、ルーシーは足裏に違和感を拾った。踏み込みの返りが、遅い。土でも泥でもないのに、沈む。

 前を行くレインハルトも、二歩目で歩幅を落とし、三歩目で足を置き直した。

「床、脆(もろ)いですね」

「音が残る。嫌な場所だ」

 それでも、引き返すほどではない――まだ。

 壁の亀裂(きれつ)が増え、天井が低くなった。湿った匂いに、粉っぽい石の匂いが混じる。

 通路の先に、ゴブリンが三体いた。こちらを見て、逃げない。

 ルーシーは前に出て、剣を抜いた。

 一体目。膝の腱(けん)を浅く。刃の終わりを手前に決めてから、踏み込む。

 踏み込んだ足が、床に沈んだ。

 親指の幅ほど。その親指の幅ぶん、体が前へ出る。刃は膝を抜け、石の床を打った。

 ガキン、と火花が散った。手のひらまで痺(しび)れが走る。

 崩れたゴブリンの首元へ、返す刃を入れる。二体目からは、踏み込みを半分にした。肩口から胸へ一線、そこで止まる。三体目は後退しかけたが、遅い。

「余裕ですね」

 レインハルトが、遅れて息を吐いた。

 ルーシーは返事のかわりに、刃を指でなぞった。床を打った所が、髪の毛一本ぶん欠けている。

 (床のせいにしたい。でも、半分は私だ)

 灰色のやつらが壁際を低く走った。レインハルトは足を上げ、床を擦らない。盾も、壁に当てない。

 次の角で、ゴブリンが五体、左右の割れた枝道から出てきた。

 ルーシーは最短の線だけを通した。喉(のど)、肩口、首。三体が転がり、残る二体が距離を取って、こちらを測り直す顔になる。

 ――その瞬間、天井が鳴った。

 石の割れる、乾いた音だった。見上げた先で、亀裂が一本、二本と走り、蜘蛛(くも)の巣のように広がっていく。

 前にルーシー。三歩後ろに、片手を前へ出したカルヴァン。その左の壁ぎわに、盾を抱えたレインハルト。

「整理する」

 カルヴァンが短く息を吐くと、昨日より強い熱が生まれた。

 火の面が、低く前へ滑る。ゴブリンが後ずさる。

 熱の縁(ふち)が、天井の濡(ぬ)れた割れ目をなめた。しゅっ、と白い湯気が噴き、割れ目の縁から、小石が一つこぼれた。

 亀裂が進む。

 落ちてきた石を、カルヴァンは半歩で避けた。避けた先の床が、沈んだ。

「……っ」

 傾いた体を、遅れて落ちた石片がかすめた。ローブの脇が裂け、脇腹に赤い線が走る。カルヴァンの膝が、床に落ちた。

 ルーシーは前へ出て、残る二体を斬(き)った。

 天井は、まだ鳴っている。

 見上げた先で、板石が一枚、剥(は)がれかけていた。レインハルトの大きすぎる盾を、二枚並べてもまだはみ出す板石だった。片端はまだ天井に噛(か)んでいるが、もう片端がゆっくりと下がってくる。その真下で、カルヴァンが膝をついていた。

 ルーシーは振り向きざまに跳んだ。三歩の距離が、一歩で消えた。

 剣を、床の割れ目に斜めに噛(か)ませる。そのまま肩を差し入れた瞬間、板石の重さが落ちてきた。

 肩から背中、腰、脚まで、骨に響く。剣が弓なりにしなり、ぎしぎしと軋(きし)んだ。息は止めない。止めたら、力が抜ける。

 レインハルトが、すぐ横で固まっていた。目が板石に吸いついたまま、足が動かない。

「カルヴァンを、引きずってください!」

 レインハルトの体が、跳ねるように動いた。盾を放り出し、カルヴァンの肩の革帯を両手で掴(つか)んで、後ろへ引きずる。カルヴァンが歯を食いしばり、自分の足でも床を蹴(け)った。

 板石が、また沈んだ。剣の軋(きし)みが、高い音に変わる。肩の上の重さが、首の付け根まで降りてくる。

 (まだ。……まだ、いける)

 二人の体が、板石の下から抜けた。

「抜けた!」

 レインハルトの声に、カルヴァンの声が重なった。

「――ルーシー、離せ!」

 名前だった。

 考えるより先に、手が開いた。肩を抜きざまに剣を引き抜き、横へ跳ぶ。

 さっきまで三人がいた所に、板石が落ちた。床が揺れ、石粉が舞い上がり、松明(たいまつ)の火が大きく傾いた。

 粉が収まるまで、誰も声を出さなかった。

 ルーシーは手の中の剣を見下ろした。折れるべき角度だったはずなのに、折れていない。

 柄を握った指が、今になって細かく震えていた。止めようとしても、止まらなかった。

 レインハルトは、カルヴァンの革帯を掴(つか)んだまま座りこんでいた。指が、まだ開かない。放り出した盾の縁に、板石の角がかすめた跡が、白く残っていた。

「撤退だ」

 カルヴァンの声は、まだ冷静だった。

 壁の『二』が、行きとは逆の順に後ろへ流れていく。ルーシーがカルヴァンを支え、レインハルトが前を確かめる。脇腹の傷を押さないように、背中側から手を回した。

「肩は」

 カルヴァンが、脇腹を押さえた手を緩めずに聞いた。

「動きます」

 カルヴァンの目が、ルーシーの指に一度だけ落ちた。まだ、小さく震えていた。

「そうか」

 外の風が、やけに軽い。

 入口の岩に、レインハルトが背中から寄りかかった。拾い直した盾が、まだ手の中で震えている。

「俺、何もできませんでした」

「引きずってくれました」

 レインハルトは、盾の白い跡を親指でこすった。こすっても、消えなかった。

「ひと月、ただ働きです」

 跡を見ていたレインハルトの口の端が、少しずつ持ち上がった。

「安いですね」

 それから、盾を握り直した。

「一日目、俺、『怖いですよね』って言いました」

「言いました」

「ルーシーは、怖いもの、ないんですね」

 ルーシーは、少し考えた。

「怖かったですよ。今日も」

 レインハルトは目を瞬いて、白い跡のついた盾を、胸の前に抱え直した。




    ◇




 ギルドの報告窓口で、ハンナのペンが三度止まった。

 床の沈みと、壁に並んだ『二』。三度目は、天井の崩れのところだった。

「天井を、受けた?」

「はい。剣を支えにして」

 ハンナは、ルーシーの肩を見ていた。ペンを持っていないほうの手が、自分の肩に一度触れた。それから、言われたとおりに書いた。

 カルヴァンは医療棟へ運ばれた。レインハルトは何度も何かを言いかけて、結局「お疲れさまでした」とだけ言って帰っていった。白い跡のついた盾を胸に抱えた背中が、人混みに紛(まぎ)れていった。

 医療棟の廊下で、壁に手をついたカルヴァンが、ルーシーを呼び止めた。腹の包帯に、薄く血がにじんでいる。

「さっきの動き。敵を倒すのは、お前には足りてる」

 ルーシーは続きを待った。聞きたいことが、喉まで来ている。

 カルヴァンは、それを見て首を振った。

「今は無理だ。この状態で余計な話はできん。気になるなら、一週間後に来い」

 カルヴァンは背を向け、治療室の方へ歩き出した。

 三歩目で、足を止めた。

「――あの天井を、力で受ける必要はなかった」

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