第46話 ダンジョン③
「昨日の、二回の音って、この辺でしたっけ」
浅層の回廊に入ってすぐの所で、レインハルトが声をひそめて振り返った。
「前を見て歩け」
カルヴァンはローブの懐から、親指ほどの白墨のかけらを出し、レインハルトの手のひらに落とした。
「角ごとに、壁を叩け。返ってきた音の数を、壁に書け」
「了解です!」
声が裏返った。
最初の角も、二つ目の角も、返ってきた音は一回だった。レインハルトが白墨で『一』と書く。字が、少し右に傾いていた。
三つ目の角で叩くと、コン、と鳴ったあとに、くぐもった音が遅れて返ってきた。
「……二、です」
『二』の字は、さっきより傾いていた。
次の角へ歩くあいだに、レインハルトが声だけ後ろへ寄越した。ルーシーにだけ聞こえる大きさだった。
「ルーシーは、なんで剣を抜かないんですか。昨日、一回も抜きませんでしたよね」
「抜くと、止まらないので」
「止まらない」
レインハルトは、昨日、灰色のやつが逃げていった通路の方角を、なんとなく見た。
「……かっこいい」
(そういう意味じゃない)
「叩け」
カルヴァンの声が、さっきより一段低かった。
レインハルトは慌てて角の壁を叩いた。勢いあまって、大きすぎる盾まで、壁にぶつかった。
コン。ガン。……コン。
「三、です!」
「二だ。真ん中のは、お前の盾だ」
レインハルトは、まず盾に傷がないのを確かめてから、書いたばかりの三本目の横棒を、指でこすって消した。
角を進むごとに、壁の『二』が増えていった。『一』は、入口の近くにしか残っていない。
カルヴァンは書かれた字を一つずつ見て、何も言わずに歩いた。
次の角を曲がったとき、汗と脂の混ざった匂いがした。
「ゴブリン」
レインハルトが小声で言う。通路の先に二体いた。背は低いが肩幅があり、棍棒を持って、こちらを見て笑っている。
「二体なら、俺がいけます」
レインハルトが剣を抜く。今度は音が小さく、姿勢も崩れない。
振り下ろされた棍棒を盾で受け、受けた瞬間に足を引いて衝撃を逃がす。昨日より上手い。
もう一体が横から来た。レインハルトの視線が遅れる。ルーシーの足が、先に出ていた。肩を入れて、進路を塞ぐ。
棍棒が、ルーシーの肩の鎧に当たった。
跳ね返ったのは、棍棒のほうだった。
ゴブリンが棍棒を取り落とした。痺れた両手をぶらぶらと振りながら、一歩下がった。
その間に、レインハルトが二体とも斬り伏せていた。
「思ったより、ちゃんと当たりますね」
自分で言って、自分で驚いている。
「当たらないと困る」
床の湿りが濃くなった。次の角の壁を叩こうとしたレインハルトが、濡れた石に踵を取られた。
「うわっ」
後ろへ倒れかけた襟首を、ルーシーは片手で掴んだ。
引き上げない。倒れていく重さだけを、手のひらで受ける。
レインハルトの体は、斜めになったところで、ぴたりと止まった。ルーシーはそのまま、踵が床をつかみ直すのを待ってから、まっすぐに立たせた。
レインハルトは、立ったまま、まばたきを二度した。
「俺、今、倒れてました?」
「倒れてないです」
「倒れかけてましたよね。踵、なかったです」
「なかったですね」
手を離す。襟は、皺も寄っていなかった。
「叩け。書け」
カルヴァンの声は、さっきと同じ高さだった。
コン。……コン。
レインハルトは、さっきより傾きの少ない字で『二』と書いた。
次の角で、通路が広くなった。左右に枝道が開き、天井は低い。そして、待っていたように影が動いた。前に四体、後ろの枝道に二体。ゴブリンが六体だ。
「多すぎる」
レインハルトの声が揺れる。ゴブリンは盾を叩き、棍棒を振り上げ、笑いながら間合いを詰めてくる。
ルーシーは一歩、レインハルトの横へ出て、剣を抜いた。刃が松明の光を拾う。レインハルトの肩から、力が抜けた。
「位置が悪い。下がれ。三歩でいい」
カルヴァンの声が、背後から来た。
ゴブリンから目を離さず、足だけを下げる。肘で、レインハルトにも合図する。三歩下がると、背後の枝道が視界に入り、退路が一本の線になった。
「勘違いするな。今日は管理だ」
息を吸う音がした。
「だが、ここは整理する」
カルヴァンは前へは出なかった。何も持たない片手を、前に出す。声は出さない。息を一つ、短く吐いただけだった。
うなじの産毛が、ちり、と立った。
カルヴァンの指先に、掌に収まるほどの丸い火が灯った。
小さい。でも、怖い。燃え広がろうとせず、落ちず、揺れない。火がそこで止まっていることが、怖い。ゴブリンの笑いが消えた。
指先が動く。火球は投げられるのではなく、線を引くみたいに前へ滑った。地面に触れる前に、扇を開くように薄く、低く広がる。
熱の面が、群れの真ん中を切り裂いた。毛皮が焦げ、二体が倒れる。残りが後ずさったところへ、二つ目が同じ形、同じ角度で滑った。
ゴブリンが散った。足元の灰色の気配も、一斉に引いた。
カルヴァンは息を吐き、指を下げた。焦げた匂いが漂うが、壁も床も崩れていない。天井に、煤が薄く残っているだけだ。
「今の、ファイアボール……ですよね!?」
「似てるが、同じじゃない」
「どこがですか」
「燃え方だ」
(当ててるんじゃない。……切ってる)
「俺も、あれ、できるようになりますかね」
レインハルトが、まだ煤を見上げたまま言った。
「ならん」
「即答……」
「焦ると、燃やしたいのが敵じゃなくて味方になる」
レインハルトが、そっと自分の後ろを振り返った。後ろには、ルーシーしかいなかった。
ルーシーは、半歩だけ横へずれた。
「剣を先に覚えろ。盾もだ」
カルヴァンはそれだけ言って、歩き出した。
「討伐なら、もっと派手にやる。――戻る」
ルーシーは剣を鞘に戻した。頭がまだ、熱の面を追っていた。
来た角へ戻る手前で、口を開いた。
「さっきの、どうやったんですか」
カルヴァンの足が、一歩だけ遅れた。後ろで、レインハルトが白墨のかけらを握ったまま聞き耳を立てている。
「今の火、どこで止まってた」
ルーシーはさっきの通路を頭の中でなぞった。低く開いた熱の面。倒れた二体。薄く残った煤。
「天井の、手前です」
「見えてたなら、半分は分かってる」
「残りの半分は」
「魔法はな、使うか使わないかじゃない。どこまで使うかだ」
カルヴァンは、そのまま角を曲がっていった。レインハルトが、白墨を握ったまま、そのあとを追う。
ルーシーは振り返った。
広い通路の低い天井に、煤が一筋、黒く残っている。その真ん中を、髪の毛ほどの白い線が一本、横切っていた。
角を曲がったとき、背中のほうで、コツ、と小さな音がした。




