第42話 基礎修行② 止め続ける
翌朝。
ルーシーは同じ時間に宿を出た。
身体は軽い。昨日の疲労が残っているわけではない。だが、背中のあたりに薄い違和感が残っている。熱でも痛みでもない。言葉にできない引っ掛かりだけがある。
(追うな)
昨日、何度も止められた言葉を思い出す。
思い出した瞬間に、もう追いかけそうになる自分がいる。
それを自覚した時点で、少しだけ腹が立つ。
門を抜け、草地へ。
風の向きも湿り気も昨日と似ていた。似ているのに、同じではない。草は少しだけ倒れやすく、足元の沈みもわずかに深い。自分の気分も同じではない。
木立の切れ目にカルヴァンがいた。
待ち方も同じだ。木の根元に身体を預け、周囲を先に確認している。腹の怪我はまだ引きずっているのだろうが、姿勢に揺れはない。
「早いな」
「遅れません」
ルーシーが答えると、カルヴァンは鼻で息を吐いた。
「遅れないのはいい。
早すぎるのは、余計な気が残る」
言い方が嫌味に聞こえかけて、違うとすぐ分かる。
昨日の経験が、身体に残っている。残っているから、早く来る。
そういうタイプの人間を、この男は見慣れている。
「今日は長い」
カルヴァンが言った。
「嫌になるまでやる。
嫌になったときに、追わない練習が本番だ」
昨日と同じ言葉だ。
今日はそれを実際にやる。
カルヴァンは指で地面を指した。
「座るな。立て。
足が勝手に楽を覚える」
ルーシーは頷いた。立ったまま、肩の力を抜く。
剣は背中にある。だが今日は抜かない。
「呼吸。四つで一周」
ルーシーは腹で息を吸い、止め、吐き、止めた。
昨日より少しだけ深く入る。
深く入ると、落ち着く。落ち着くと、余計な感覚が浮いてくる。
風が頬を撫でる。
草が擦れる音。遠くの街の気配。
自分の心拍。血が耳の奥で鳴る感じ。
カルヴァンの声が入る。
「そのまま、止めろ」
ルーシーは動かない。
呼吸を回し続ける。吸って、止めて、吐いて、止める。
一分も経たないうちに、足裏が痒くなる。
身体が「動け」と言う。
動けば楽になるのを知っている。
(動くな)
自分に言い聞かせると、今度は肩が固まった。
固まった瞬間に呼吸が浅くなる。
「固めるな」
カルヴァンの声が飛ぶ。
「止めるのと固めるのは違う。
止めろ。固めるな」
ルーシーは息を吐いた。
肩の力を落とす。落とすだけで、身体が勝手に揺れそうになる。
(難しい)
難しいのに、何もしていない。
それが腹立たしい。
呼吸を回す。
吸う。止める。吐く。止める。
二周、三周。
集中が少しだけ続く。
ふと背中が熱い気がした。
昨日と同じ、「気がした」だ。
(今の――)
意識が寄る。
「追うな」
カルヴァンの声が即座に刺さる。
ルーシーは反射で息を止めかけ、止めた。
止めかけたこと自体が、追っている証拠だ。
吐く。止める。吸う。止める。
熱は消える。
それが悔しい。
悔しいと思った瞬間に、また追いかけそうになる。
「悔しがるな」
カルヴァンが言う。
「悔しいって感情は、追うための燃料だ。
燃料を入れるな」
ルーシーは口を開きかけて、閉じた。
反論する言葉が見つからない。
見つからないまま続ける。
時間が伸びる。
最初は一分が長い。
二分が苦しい。
三分が苛立つ。
四分で、「もういいだろ」と身体が言い出す。
しかし、ここで止めたら負けるのは分かる。
負ける、という言葉で表現している時点で、たぶん違うのだが、それでも感覚はそうだ。
呼吸を回す。
吸って、止めて、吐いて、止める。
五分を越えたところで、足が勝手に体重移動を始めた。
楽な位置を探し始める。
カルヴァンが言う。
「今、逃げた」
ルーシーは踏み直した。
踏み直すと、腹の奥が少しだけ硬くなる。
硬くなると、息が止まる。
「止めるな」
カルヴァンの声。
ルーシーは吐く。
吐いて、止めて、吸う。
今度は視界が妙に鮮明になる。
木の葉の裏の色、草の先の水滴、遠い雲の形。
感覚が研ぎ澄まされるのは、良いことのように思える。
その瞬間に、背中が熱い気がした。
(これだ)
今度こそ、と思う。
思った瞬間、熱が少しだけ増した気がする。
増した、という言葉にした瞬間に、さらに増す。
「追うな」
カルヴァンの声が来る。
だが今度は一拍遅れる。
ルーシーの意識が先に走ってしまったからだ。
熱が、背中の中心から肩甲骨に広がる。
広がり方が「形」を持つ。面になる。
ルーシーは息を吐こうとした。
吐くのが遅れた。
遅れた瞬間、肩が固まり、足が踏ん張る。
踏ん張った瞬間、剣を振るときの癖が出た。
身体が「前へ」行く。
カルヴァンの声が鋭くなる。
「止めろ!」
ルーシーは反射で止めた。
止めたつもりで、固めた。
熱が一気に抜ける。
抜けると同時に、背中が寒い。
ルーシーは息を荒くした。
荒くなるのを止めようとして、また止める。
止めようとするほど乱れる。
「……っ」
喉が鳴る。
悔しさが一気に来た。
悔しさが来た瞬間に、また背中が熱い気がする。
カルヴァンが近づいた。二歩、いや一歩。
距離が詰まる。
「今のは、よくない」
声が低い。叱っているのではない。
危険を指している。
「でも、止めた。止められた。
そこだけはいい」
ルーシーは息を整えようとした。
腹で吸う。止める。吐く。止める。
やっと戻る。
「……今、何が起きたんですか」
ルーシーが言うと、カルヴァンは一拍置いた。
言葉を選ぶ間だ。
「“起きかけた”だけだ」
「起きかけた……」
「お前が追った。だから形になりかけた。
だが、形になったら終わりだ。今のお前には制御できない」
ルーシーは歯を噛んだ。
制御できない。
それが悔しい。
カルヴァンが言う。
「欲を燃やすな。
燃やすなら、呼吸で燃やせ。
同じ燃料を、違う場所に使え」
言っていることは分かる。
分かるのに、身体が追いつかない。
「もう一回やる」
カルヴァンは言い切った。
「今の状態で、もう一回。
同じように追うな。追いたくなるところまで行って、追わない」
ルーシーは頷いた。
頷くしかない。
呼吸を回す。
吸って、止めて、吐いて、止める。
背中の寒さが残っている。
寒さが残ると、熱を欲しがる。
欲しがると、追いたくなる。
(追うな)
自分で言う。
言いながら、追っている。
追っていることに気づく。
気づいた瞬間、吐く。
吐いて、止める。吸う。止める。
時間が伸びる。
さっきより短く感じるのが怖い。
短く感じるのは、慣れているからだ。慣れたら追い出す癖が残る。
背中が熱い気がした。
気がしただけで、十分に餌だ。
意識が寄る。
そこで、ルーシーは一度だけ、剣の構えを思い出した。
振るのではない。振らない構え。
止めたまま、呼吸だけ回すときの形。
身体が「前に行く」癖を抑えるために、足幅をほんの少し変える。
地面を掴みすぎない。
肩を固めない。
腹で吐く。
熱は、増えない。
増えないまま、そこにいる。
いるのに、形にならない。
それが怖い。
怖いのに、追わない。
カルヴァンの声が遠くから聞こえた。
「……それだ」
ルーシーは目を開けた。
カルヴァンは少しだけ頷いている。
「今のは、追ってない。
“ある”のに、追わない。
それが基礎だ」
ルーシーは息を吐いた。
吐くと同時に、背中の熱は薄れる。薄れることに、まだ執着しそうになる。
だが、今は追わない。
「今日はここまでだ」
カルヴァンが言った。
「次は、もっと長く。
そして、剣を絡める。
剣を振りながら、追わない練習をする」
ルーシーは頷いた。
何も起きなかった、ではない。
起きかけた。
追った。
止めた。
そして、追わずに置けた瞬間があった。
それだけで、昨日より一歩前だ。
ルーシーは剣を背負い直し、街の方へ歩き出す。
足元の湿りが戻り、風が背中を撫でる。
熱の面を追うな。
それが今の仕事だ。
仕事は、積み重ねるものだと、ルーシーはもう知っていた。




