第41話 基礎修行① 外で
約束から二日後の朝。
ルーシーは、いつもより早く宿を出た。
カルディナの朝は湿っている。石畳は夜の冷えをまだ抱えていて、靴底の感触が硬い。息を吸うと喉の奥に薄い鉄の匂いが残った。市場の準備音が遠くで鳴り、荷車の軋みが一拍遅れて響く。ギルドの鐘が鳴る前の時間帯は、街全体がまだ「働く前」みたいな顔をしている。
背中の剣が、歩くたびにわずかに揺れた。
この重みは、まだ新しい。
剣を買ったのは、Dランクになってからだ。
それまでも武器は握った。だが、自分の剣として背負ったのは、つい最近のこと。
(……二、三週間)
頭の中で数え直すと、余計に短く感じる。
護衛でカルディナへ来て、ダンジョンに潜って、その後一週間。
剣を持っている時間だけを切り取れば、ほんの少しだ。
それでも、戦えてしまった。
たぶん、身体が先に動いている。足が出て、腕が出て、痛みや恐怖より先に「処理」をしてしまう。考えが追いつく前に終わってしまう場面がある。
それを良いことだと思っていいのか、まだ分からない。
門へ向かう道を歩きながら、ルーシーは呼吸を整えた。
今日の相手は魔物じゃない。自分の癖だ。
(……聞きに行くだけ。期待しない)
そう決める。
期待は、手を伸ばす方向を狂わせる。
城門の番兵に用事を告げると、少しだけ怪訝な顔をされたが通してくれた。朝の外は人が少ない。管理された街道の外縁を抜け、荷車道から外れて草地へ向かう。足元は湿っているが、ぬかるむほどではない。踏めば沈み、戻る。乾いた訓練場とは違う地面だ。
風が吹いた。草が倒れて、また戻る。
遠くで鳥が鳴き、音が空へ逃げた。
少し歩くと、木立の切れ目に一人の影が見えた。
カルヴァンだ。
大きな木の根元。座るでもなく、立つでもなく、身体を半歩だけ預けるような姿勢。腹の包帯は服の下に隠れているが、動きの慎重さで分かる。万全ではない。
それでも、待っている。
「来たな」
短い声。いつも通り、ぶっきらぼうだ。
「おはようございます」
ルーシーも短く返した。
挨拶を増やすと、場が軽くなる。今日の空気は軽くしてはいけない。
カルヴァンは周囲を一度見回した。人がいないこと、音が遠いこと、逃げ道があること。確認が終わると、ルーシーに視線を戻す。
「剣は?」
「持ってきました」
「抜け」
命令ではない。指示だ。
ルーシーは背から剣を下ろし、鞘走りの音を抑えて抜いた。刃が朝の光を拾う。湿った空気のせいか、金属の冷たさがいつもより強く手に伝わる。
構える。
型はない。教わっていない。
護衛とダンジョンで、身体が勝手に作った構えだ。
「まず、いつも通り振れ。十回」
確認じゃない。
カルヴァンの目は、剣の動きを褒めるためじゃなく、どこで力が噛んでいるかを見るためにある。そういう目だった。
ルーシーは一振り目を振る。
空を切る音が散って、返ってこない。屋外は音が薄い。代わりに手の中の重さだけが残る。
二振り目。
刃の軌道が少し外側に膨らむ。足が沈む地面だから、重心がズレる。気づいて修正する。
三振り目。
腕に余計な力が入る。早く振ろうとすると、重さに引かれて先端が遅れる。遅れるのが嫌で、肩で引っ張る。
(……独学のまま)
思う。
正しいのか分からないまま、結果だけで調整している。
四、五。
呼吸が勝手に止まりかける。振る瞬間に息を止める癖がある。
気づいて吐きながら振る。少しだけ軌道が安定する。
六、七。
刃が風を切る。腕の筋が熱くなる。
八、九。
足裏が滑りそうになり、踏み直す。
十。
振り終わっても呼吸は乱れていない。体力だけなら問題ない。
「止めろ」
カルヴァンの声で止める。
ルーシーは剣先を下げずに構えを保った。ここで気を抜くと癖が出る気がした。
「剣は悪くない」
カルヴァンが言った。
ルーシーは一瞬だけ目を瞬いた。
褒められた、とは思わない。
ただ、切り分けられた。
「浅いわりに、回ってる。……回りすぎだ」
「回りすぎ?」
「身体が先に処理してる。考える前に動いてる」
言われて、腑に落ちる。
褒めでも叱りでもなく、ただの診断だ。
ルーシーは剣を下ろし、息を整えた。
「独学だろ」
「はい」
「だろうな。型を覚える前に、実戦で形が出来てる」
それは否定ではなかった。
むしろ、危うさの指摘だった。
カルヴァンは地面の小石を拾い、指先で転がしてから草に落とした。音も立てずに沈む。
「今日は魔法はやらない」
ルーシーは頷く。
分かっている、と言いたいが、言うと嘘になる。
どこかで期待している自分がいる。
「起こす練習じゃない。逆だ」
カルヴァンが続ける。
「起きない状態を作る。勝手に動かない状態。漏れない状態。そこからだ」
ルーシーは言葉を選ぶ。
「……私、魔法は使えません」
「使えないのと、関係がないのは別だ」
カルヴァンの返しは速い。
酒場の夜に言われた言葉が、そのままここで形になる。
「勝手に動くのは便利じゃない。危険だ」
カルヴァンの声は淡々としている。
淡々としているからこそ重い。
「火を出すのは簡単だ。出せればな。だが、出した火を止める方が難しい」
ルーシーは口を閉じたまま頷いた。
剣でも同じだ。振るのは簡単で、止めるのが難しい。止められない剣は、自分を壊す。
「だから今日は呼吸からやる」
「呼吸……」
「剣と同じだ。型が要る。勝手にやると崩れる」
カルヴァンは自分の腹を指で軽く叩いた。
「吸う。止める。吐く。止める。四つで一周」
「……はい」
「今やれ」
ルーシーは従った。吸う。止める。吐く。止める。
意識すると息が浅い。胸だけが動いている。
「浅い」
即座に言われる。
「胸で吸うな。腹で吸え」
腹で吸うやり方は知っている。
ただ、剣を振るときにそこまで意識してこなかった。息は体力のためにあるものだと思っていた。
ルーシーは腹の前を押し出すように吸った。肩が上がらない。吐くと腹が戻る。
止める。
「今のでいい」
カルヴァンが言った。褒めているのではなく、正誤の確認だ。
「そのまま剣を振れ」
ルーシーは剣を構えた。
吸って、止める。吐きながら、一振り。
剣が軽い。
軽いというより、重さが手元にまとまっている。先端に引かれない。
次も吐きながら振る。
軌道が少しだけ真っ直ぐになる。
「止めるな」
カルヴァンの声が飛ぶ。
ルーシーは一瞬だけ反発した。息は止めていないつもりだった。
「……止めてません」
「止めてる。振る瞬間に肩が固まる」
自分では分からない。
分からないことが、少し怖い。
もう一度。今度は吐き続けるつもりで振る。
剣の音が少しだけ変わる。空気を切る線が細くなる。
「それだ」
カルヴァンが言う。
「剣は力じゃない。動かす順序だ。魔法も同じだ。……むしろ魔法の方が、順序を間違えたときの被害がでかい」
ルーシーは黙って数回振った。
吐いて振る。吸って構える。吐いて振る。
同じ動作のはずなのに、毎回わずかに違う。地面の沈み、風、腕の疲れ、意識の薄れ。
十回振ったところで止まると、カルヴァンが聞いた。
「何か感じるか」
ルーシーは少し考えてから答えた。
「……腕が軽いです」
「それは筋肉の話だ」
即座に切られる。
ルーシーは口を閉じた。言い返しても意味がない。
「……分かりません」
「それでいい」
カルヴァンは即答した。
「分かったつもりになるのが一番危ない。今日は、分からないまま続ける」
分からないまま。
ルーシーはその言葉が苦手だった。結果がないと判断ができない。判断ができないと不安になる。
けれど、今日の目的はそこだ。
不安のまま止まらないこと。
カルヴァンが一歩近づく。
「次。目を閉じろ」
ルーシーは一瞬迷ったが、従った。
視界が消えると、風の音が大きくなる。草が擦れる音。遠い街の気配。自分の呼吸。
「吸え。腹で」
吸う。腹が膨らむ。
「止めろ」
止める。
「吐け」
吐く。
「止めろ」
止める。
カルヴァンの声は一定で、揺れない。
それに合わせると、心拍が落ち着く。
落ち着くと、余計な感覚が浮き上がる。
呼吸の止まる瞬間がある。
止めているのか、止まっているのか分からない。
分からないまま、また吸う。吐く。
「今度は、吸った瞬間に動くな」
「はい」
「動くなと言った」
ルーシーは眉をひそめた。目を閉じている。動いていないはずだ。
「……動いてません」
「動いてる。足の指が掴んだ。肩が上がった」
自分では分からない。
分からないまま「そうなんだ」と飲み込むのが、今は正しい。
「いいか」
カルヴァンの声が少し低くなる。
「魔法ってのは、“動き”が先にあると、そこに引っ張られる。剣を振る癖、力む癖、呼吸の止まる癖。全部、変な形で出る」
ルーシーは黙って聞く。
剣の癖が魔法に出る。
もしそうなら、確かに危ない。戦いの最中に癖が出るのは、剣でも致命的だ。
「だから今日は、動かない練習をする」
「……動かない練習」
「そう。何も起きないのが正解だ」
ルーシーは、少しだけ肩の力を抜いた。
正解が「何も起きない」なら、目標は分かる。
「次は、お前の中で“起こそう”とするな」
カルヴァンが言う。
「昨日見た熱を思い出すな。火を思い浮かべるな。便利を思うな。全部、後だ。今やるのは箱を作る。中身は入れない」
箱。中身は入れない。
分かるようで分からない。
ルーシーは目を閉じたまま呼吸を繰り返した。
吸って、止めて、吐いて、止める。
何も起きない。
当然だ。
だが、途中でほんの一瞬だけ、背中が熱い気がした。
錯覚かもしれない。
それでも、意識がそこへ寄る。
(今の、何……?)
答えを探そうとした瞬間、カルヴァンの声が飛ぶ。
「追うな」
短く、強い。
ルーシーは反射で息を止めかけて、止めた。
追いかけると、何かが漏れる。
漏れたら、ここで終わる。
吐く。止める。吸う。止める。
さっきの熱はもうない。
それが悔しいのか、安心なのか、自分でも分からない。
分からないまま、続ける。
「……今、何かあった気がしたか」
カルヴァンが聞く。
ルーシーは少し迷ってから答えた。
「……分かりません」
「それでいい」
また同じ答え。
同じ答えなのに、今度は少しだけ納得がある。
「“気がした”は、追いかける餌だ。餌に釣られるな」
カルヴァンの言い方は嫌味ではない。
釣られた人間を何人も見てきた口調だ。
ルーシーは呼吸を繰り返しながら、内側の感覚を探すのをやめた。
探すのをやめる。
その行為そのものが、訓練になる。
十分ほど続けたところで、集中が揺れた。
足が痺れる。風が冷たい。まぶたの裏が明るい。
そこで、また背中が熱い気がした。
(……今度こそ?)
意識が寄る。
寄った瞬間――カルヴァンの声。
「追うな」
また止められる。
止められることに、少し腹が立つ。
腹が立つこと自体が、たぶん危険だ。
ルーシーは息を吐いた。
吐いて、止めて、吸う。
熱は消える。
カルヴァンが言う。
「今、腹が立ったな」
目を閉じたままでも分かる。見透かしている。
「……はい」
「それも癖だ。欲と同じ。怒りも同じ。魔法は感情で曲がる」
曲がる。
剣も曲がる。
だから、剣士は感情を飲む。
それを、魔法でもやれと言われている。
目を開けると、カルヴァンが少しだけ眉を寄せていた。痛みではない。考える顔だ。
「もう一回、剣を振れ」
ルーシーは剣を抜いた。
呼吸を腹で整える。
吐きながら振る。
一振り。
さっきより軽い。
体が落ち着いている。
二振り。
足裏が地面を掴む。掴みすぎないよう意識する。
三振り。
肩が固まりそうになって、吐き直す。
四振り目の途中で、背中が熱い気がした。
熱のせいで、腕が少しだけ速くなる。速くなると、刃がぶれる。
カルヴァンがすぐ言う。
「今の、追った」
ルーシーは剣を止めた。
息が少し乱れている。
「……追った、つもりは」
「つもりは関係ない。結果が出た。刃が跳ねた」
ルーシーは歯を噛んだ。
剣なら「跳ねた」で済む。
魔法なら、跳ねた先が味方になる。
カルヴァンが少し間を置いて言った。
「いい。今ので分かっただろ。身体が先に動くのは、剣では強みになる。だが、魔法では邪魔になる」
ルーシーは黙って頷いた。
やっと、今日の意味が一本線になる。
カルヴァンは息を吐く。傷をかばうように、少しだけ腹を押さえた。
「今日はここまでだ」
「もう終わりですか」
思ったより声が出た。
焦りが混じる。自分でも分かる。
カルヴァンは即座に切らない。少しだけ、間を置いた。
「終わりだ。これ以上やると、癖が濃くなる」
それは、剣の訓練と同じ理屈だった。疲れた状態で振り続けると、変な動きが身体に残る。
ルーシーは口を閉じた。
カルヴァンが続ける。
「次は、これをもっと長くやる。嫌になるほどな。……嫌になったときに、追わない練習が本番だ」
ルーシーは剣を鞘に収めた。
汗が背中に残っている。太陽はまだ高くないのに、妙に暑い。
「……分かりました」
それだけ言った。
分かった、と言い切るほど分かっていない。
でも、続けることは分かっている。
カルヴァンは頷いただけだった。
それ以上の言葉は足さない。足すと、軽くなる。
ルーシーは草地を歩き出し、街の方角へ向かう。
足元の湿りが戻ってくる。風が背中を撫でる。
何も起きなかった。
起こせなかった。
起こしそうになって、止められた。
それだけのはずなのに、胸の内側が妙にざわつく。
ざわつくのを、追わない。
呼吸を腹で整え、歩く。
今日は、これで終わりだ。
――終わってくれれば、いい。




