第40話 基礎
カルヴァンが治療に回されてから、一週間が過ぎていた。
長いようで短い。
短いようで、きっちり七日分の仕事が積み上がる。
ルーシーにとって、その一週間は「空白」ではなかった。
むしろ、空ける理由がなかった。
朝になればギルドへ顔を出し、受付に声をかける。
今日の人手状況と、回せる仕事。危険度。時間帯。
自分が何を受けられるかを聞き、札ではなく“指示”を受け取る。
護衛、巡回、倉庫の警備。
派手な依頼はないが、人手が足りない仕事はいくらでもあった。
街道の短距離護衛は、隊列の維持が全てだった。
荷車の揺れを減らすため、速度を揃える。
人混みを無理に押し返さず、自然に流れを変える。
剣を抜く必要がない状態を保つのが、護衛の本体だと分かってくる。
巡回は、別の神経を使う。
危険があるからではない。
危険がないふりをしている場所ほど、揉め事は起きやすい。
路地の角。酒場の裏。倉庫の出入口。
誰が何を見ているか。
「今は何も起きない」が、そのまま「何も起きない」まま終わるように、目を配る。
倉庫の警備は、もっと地味だ。
立つ場所を変え、時間をずらし、目線の高さを変える。
やることは少ないのに、油断できない。
そして、終われば報告を出す。
大きな事故がないほど、報告は短くなる。
短くなるのに、手は抜けない。
「問題なし」の一行を、問題なしで書くために、見ておくことが多い。
そういう日々が続くと、気づきにくい変化が起きる。
寝付きが速くなる。
朝の身体が重くならない。
食事の量は変わらないのに、腹がもたれにくい。
たぶん、身体が「働く」ことに慣れていくのだ。
派手な成長ではない。
ただ、毎日同じように動いて、同じように帰って、同じように眠る。
それだけが、確実に積み重なる。
そんな七日目の朝。
ルーシーは受付で、いつも通り声をかけた。
「おはようございます。今日は……」
言いかけて止める。
受ける仕事は、もう決めていた。
「午前は受けません。用事があるので」
受付の女性は、淡々と頷いた。
理由を聞かない。
このギルドは、余計な詮索をしない。
その代わり、結果だけを見る。
「了解。午後なら回せる。戻るなら一度寄って」
「はい」
それだけで会話は終わった。
ルーシーは踵を返し、ギルドの奥にある医療棟へ向かう。
医療棟は、昼でも静かだった。
重症者がいるわけではない。
だが、怪我をした人間が集まる場所には、独特の空気がある。
声が大きいと、それだけで痛みが跳ねる気がする。
笑い声すら、どこか遠慮が混じる。
受付で名を告げ、指示された廊下を進む。
石造りの床は冷たく、靴音がやけに響く。
扉の前で、一度だけ足を止めた。
(……聞きに来ただけだ)
教えてもらえるとは限らない。
断られても、それで終わりだ。
ノックをすると、少し間があってから声が返った。
「開いてる」
中に入る。
簡素な個室だった。
窓際に寝台。机と椅子。
薬草の匂いと、包帯の匂い。
カルヴァンは椅子に腰掛けていた。
腹部にはまだ包帯が巻かれている。
座り姿勢は崩れていないが、立ち上がりにくそうな重さが残っている。
机の上には紙束。
事故報告の写しだろう。
赤い印がいくつも付いている。
「……来たか」
顔を上げずに言う。
声はいつも通り、少しだけぶっきらぼうだ。
「邪魔でしたら、出ます」
「いや。今は何もしてない」
カルヴァンは紙を揃え、端に寄せた。
“しまう”というより、邪魔にならない場所へ移しただけだ。
沈黙が落ちる。
ルーシーは立ったまま待つ。
焦って言葉を足すと、空気が軽くなる。
この男は、軽い空気を嫌う。
先に口を開いたのはカルヴァンだった。
「で。気になったままか」
短い問い。
確認だけの問い。
「……はい」
ルーシーの返事も短い。
それ以上は言わない。
カルヴァンは短く息を吐いた。
痛みを吐く息ではない。
面倒を引き受ける前の息だ。
「まず言っておく」
目が上がる。
視線がまっすぐ来る。
「今すぐ、何かが使えるようになる話じゃない」
ルーシーは頷いた。
期待して来たわけではない。
期待するほど知らない。
「それでも来たなら、聞くだけ聞け」
「お願いします」
カルヴァンは少しだけ眉を動かした。
承諾というより、“じゃあ話す”という合図。
「魔法はな、便利じゃない」
言い切る。
断言は、この男の癖だ。
「覚えるのに時間が要る。
準備が要る。
失敗したら、味方が死ぬ」
並べ方が事務的で、逆に重い。
大げさに言っていないのが分かる。
「だから俺は、撃たなかった」
一拍。
「撃たなくて済むなら、それが一番いい」
ルーシーは黙って聞く。
酒場で聞いた“魔法は当たれば強いが外れた時の被害が味方に行く”という空気が、今ここで具体に繋がる。
「お前が見たのは、“強い魔法”じゃない」
カルヴァンが言う。
「“使わなかった判断”だ」
ルーシーの中で、ダンジョンの通路が一瞬だけ戻る。
熱の面。
狭い通路に合わせた形。
派手に燃やすためではなく、場を整えるための熱。
それを“強さ”だと思った自分が、少し遅れて恥ずかしくなる。
「基礎ってのは、呪文じゃない」
カルヴァンは自分の胸元を、指で軽く叩く。
「火も雷も関係ない。
まずは、自分の中で何が動いてるかを知る」
言葉が続く。
「勝手に動かすな。
漏らすな。
焦るな」
その三つが、妙に具体的だった。
ルーシーは、あの夜の違和感を思い出す。
満腹になった瞬間。
身体の内側が勝手に回った感覚。
胸や背中が熱いと言われたこと。
自分ではよく分からなかったが、確かに“何か”はあった。
ルーシーは口を開きかけて、止めた。
今それを言語化しても、たぶん正確にならない。
カルヴァンはそれを見逃さない。
「今は、言葉にしなくていい」
少し間を置いて、続ける。
「次は、場所を変える」
ルーシーが顔を上げる。
「ダンジョンでも、ギルドでもない。
人のいない場所でやる」
「……どこで?」
「外だ」
簡潔。
説明はしない。
説明すると、余計な想像が増えるからだ。
カルヴァンは椅子から立ち上がる。
動きは慎重だが、崩れてはいない。
怪我が“生活に戻る段階”に入っているのが分かる。
「今日はここまでだ」
言って、付け足す。
「準備はいらん」
そして、最後にもう一つ。
「剣は持ってこい。捨てる話じゃない」
ルーシーははっきり頷く。
「はい」
会話はそこで切れた。
それ以上は必要ない。
約束だけが残る。
廊下に出ると、外の音が戻ってくる。
人の声。金属音。ギルドの気配。
魔法の話を聞いたのに、頭の中は妙に静かだった。
何かを得たわけではない。
ただ、触れてはいけないものの輪郭だけが、はっきりした。
ルーシーは医療棟を出て、ギルドの中庭を横切る。
午後の受付に寄るかどうかは、まだ決めない。
今日の用事は終わった。
次は、外だ。




